2013年6月25日火曜日

小林弘忠『歴代首相』

 
小林弘忠『歴代首相』を読んだ。


この本は日本の初代首相・伊藤博文から第58代首相・福田康夫まで総勢58名の歴代首相について書かれた本です。日本の政治を考えるとき、「日本の政治の歴史、特に時の宰相である最高権力者について知っていなければ!」という思いでこの本を買いました。最初は「戦前と戦後で分けて考えた方がいいかな?」とも思ったのですが、第二次大戦の敗戦があるとはいえ、やはり政治は繋がっており、戦前も無視できないなということで初代首相から書かれたこの本が値段も手頃だったので丁度良いということで選びました。

この本は各首相について生い立ちから始まり、どのようにして首相の座に登りつめ、首相となってからはどのような政治を行い、首相を辞めた後、どのように人生を締めくくったかまでを簡略に描いています。そういった訳で各々の首相のエピソードも興味深く読めるのですが、ただし読み進めるうちに、私が当初期待していたものとはちょっと違うなということが分かってきました。私が最初に期待したものというのは、時の最高権力者が如何に責任を持ってどのような考えで日本をその方向へ導こうとして政治を執ったのかというものでした。ところが、読み進めてゆくうちにどうやら日本の首相というのはそういう独裁的な日本をリードしてゆく最高権力者ではないというものでした。確かに歴代首相の中には独裁者に近い権力を集約した人も何人かはいます。しかし、それはいわゆる独裁者とはちょっとニュアンスが違います。

ちょっと他の国の例を考えてみましょう。かつての英国などは国王がいて国王が責任を持って国を統治していました。彼は統治において独裁的である一方で統治者としての責任感もあるわけです。(←そのうち議会制ができて国王の権力は失墜してしまいますが。)ところが、日本はどうかというと、例えば江戸時代を考えると天皇という国王がいるのですが、実質的な支配者としては将軍がいて彼が国を支配・統治しているわけです。ところが実際には、その下に老中がいて、彼らが実際の政治を仕切っているわけです。つまり、日本はピラミッドの頂点に為政者がいて、為政者が責任を持って統治するというスタイルになっていないのです。さて、話を本の時代に戻すと、戦後の日本は民主主義になったので、形式的には独裁者がいないスタイルになったかもしれないけれど、戦前の日本は大日本帝国なんていうイカメしい名前だからさぞや独裁者が威張って闊歩してたのかなと思って読むと、どうもそうではないのです。日本の首相は初代の伊藤博文のときから独裁者的ではないのです。構造的には共和制だった頃のローマのように元老院がいて執政官が選ばれて執政官が政治を執るというのに形は近いと思います。ただし、日本の場合は執政官たる首相の権威は低く、むしろ矢面に立たされる兵隊的下っ端的な感じでさえあります。

この執政官と元老院の関係は天皇とそれを陰で操る上皇に似ているのですが、かといって背後である上皇のように独裁者がいるかというと、どうもそうでもないのです。首相を支えている背後の人たちもいずれも独裁者的な側面がないのです。せいぜい山県有朋が独裁者に近いのですが、彼でさえ決定的に独裁者かというと独裁者ほどに強引な政治は執っていないように思えます。そうやって見てみると、どうも彼らには統治者としての責任感が欠如しているように思えるのです。もちろん、私は独裁者が良いといっている訳ではありません。しかし、どの首相も調整役であって、自らの考えを持ってリードしてゆく為政者には見えなかったのです。これは首相だけの責任ではなくて、首相を支える周囲にも責任があるとは思います。東京裁判でも連合国側は戦争の責任が誰にあるのかを巡って裁判をしたのですが、誰が戦争の最高責任者なのか分からず困ったのではないでしょうか?確かに東条英機だという見方はあると思います。しかし、彼は独裁者だったかというとどうもニュアンスが違う。東条は引き算思考の小役人で小さなことで周囲を締め上げていたとは思います。しかし、それは独裁者とは違います。石原莞爾も裁判の中で言っていますが、「自分にはいくらかの戦略はある。しかし、東条はこれっぽちも戦略を持ち合わせていない。皆無である。意見を持っていないものとは論争しようがない」と皮肉を込めつつも的確に東条のことを言い当てていると思います。そうやって見てゆくと日本の政治には君主のような支配者・統治者いなかったのではないかと思えてきます。日本の歴史を振り返ってみてパッと思いつくのは天皇親政をやろうとした後醍醐天皇くらいでしょうか。あとは織田信長が独裁者に相当するかもしれませんが、ただ彼の場合、本能寺で斃れたので統治者たらんとしたかどうか少し疑問です。とにかく、日本にはアメリカ大統領のようなリーダーはいなかったし、成立しなかったのではないかと思います。当人とそれを支える周囲というのがいなかったように思います。

なぜ、そうなったのでしょうか?私は日本人が騎馬民族でなかったからではないかと睨んでいます。世界の文明に目を向けてみると文明の支配者は多くが騎馬民族です。人類はその発展において農業という植物の飼い慣らしをしてきました。次に遊牧という動物の飼い慣らしをしてきました。そして、動物を飼い慣らす経験をした騎馬民族は今度はそれをヒトに応用してヒトを飼い慣らす文明を築いたのです。ところが、極東の島国・辺境日本は騎馬民族が支配者にはなりませんでした。そのことは中国の後宮のように宦官がいないことからも明らかです。宦官は去勢の技術が発達した結果、生まれた技術です。去勢は遊牧において動物を飼い慣らす技術から発展したものです。ところが、日本には宦官はいませんでした。そのため『源氏物語』に見られるように天皇の女たちに光源氏が手を出したりできたわけです。つまり、日本人は騎馬民族ではないためか、人を飼い慣らすこと人を支配することにあまりにも慣れていない節があります。極東の島国という辺境だからこそ起こった特殊な事情だと思います。

それにしても「ヒトがヒトを支配する」というのはあまり愉快な考えではありません。しかし、文明を支えていたのは農業に従事する奴隷だったという事実を見過ごすことはできません。また、従順になれない奴隷は兵士として軍隊に送られました。軍隊に送られて兵士として活躍するか、早めに間引かれるかのどちらかだったのではないでしょうか。時代が進むにつれて奴隷制も無くなりますが、それはヒューマニズムに目覚めたからというわけではなくて、他人に強制されて働く奴隷よりも自らの意思で働く労働者の方がよく働くという理由で奴隷制が無くなったという面もあります。このように文明とはヒトがヒトを支配する歴史だったという見方もあるのです。話は違いますが、シェークスピアの作品にもそのような人間観があってアメとムチでヒトを操るという場面が見られます。シェークスピア嫌いの人がいますが、彼らはそういうのをみて「人間とはまるで家畜のようなそんな単純なものではない」という思いでシェークスピアを嫌うのだと思います。ちなみに私もそういう人間観は好きではありません。しかし、厳然たる事実として文明社会とはそういう側面があるのも否定はできないと思います。

さて、何の話でしたでしょう?そうそう、日本の最高権力者に支配や統治する権限が与えられておらず、その責任感がないという話でした。いや、制度として権限は与えられているのだけれど、実際には歴史的な習慣のためか、それが機能していないという話でした。ならば、制度を大統領制にしろという意見があると思いますが、おそらく、制度を変えても日本人の習慣としてそれを機能しないものにしてしまうと思います。ここまで来ると日本人の精神構造の問題ではないかとさえ思えてきます。河合隼雄が指摘していましたが、日本人の精神構造と西洋人の精神構造は違うそうです。簡単に喩えて言えば、日本人がユング的であるのに対して西洋人はフロイト的であるそうです。確かに日本人の大衆の無意識はユングの集合的無意識に通じるものがあるような気がします。しかし、そうなってしまうと日本人はとことん政治に向かない民族だと思います。ある意味、日本人は支配される側でこそ力を発揮する民族なのかもしれません。組織の歯車としてよく働くが、少々頭が堅くて融通の効かない、しかし実際的な技術にかけては右に出るもののない優秀なエンジニア、(実際、世界で活躍する日本人ってそういう技術者が多くありませんか?)それが日本人に最もふさわしい姿なのかもしれません。え?私ですか?私は違います。私は日本人の中では変わり種の異端児ですから(笑)。ともかく、そうはいっても日本も独立国家なのですから、日本の首相は自己の信念に基いて自らの意思と責任をもって国を統治してほしいものだと思います。

えーと、随分、本の内容とは違う話になってしまいました。以上の記述は私が本を読みながら考えたまったく別のこと、妄想の話です。とにかく、現在の日本の政治を考えるためにも、大人の常識として日本の歴代の首相は知っておいた方が良いと思いますよ。

※文中で述べた日本人の精神構造については下記の本を参考になさって下さい。

2013年6月23日日曜日

浅田彰『逃走論』


今回は浅田彰の『逃走論』を取り上げます。

私がこの本を初めて手にとったのは1990年頃ではなかったかと思います。私が浅田彰を知ったのは京都大学の数学者でエッセイストの森毅の文章を読んで知ったのが初めてではなかったかと思います。森毅については高校生の頃、森毅の著書で中公新書から出ていた『数学受験術指南』を父親に薦められて読んで知っており、それ以来、私は森毅のファンになってしまい、なんとなく彼の書いたものを目にしたら読むようになっていました。それで森毅の文章を新聞か何かで見つけては読んでいたのですが、その中のどれかだと思うのですが、具体的にどこで浅田彰の名前を知ったのかは残念ながら忘れてしまいましたが、確かニューアカデミズムという名前と同時に目にしたような気がしています。それから話は少し違いますが、後日になって気付いたのですが、確か高校の国語の先生だったと思うのですが、授業中の雑談で「最近、天才が出たといって世間を騒がしている若者がいるが、頭でっかちなだけで経験のない若者に何ほどのことが分かるのか?!」といった批判的な話をしていたのを覚えており、あれはおそらく浅田彰のことを言っていたのだなと後になって気付いたりしました。まあ、年寄りが若者に嫉妬して批判するみたいな感じでちょっと情けない批判だったのですが、それでもまだ浅田彰を読んでいただけその先生はマシで、最近の教師などは生徒に本を読めといいながら、本人は全然読まんでいないなんてことはザラにあるのではないかと思います。



目次

逃走する文明
ゲイ・サイエンス
差異化のパラノイア
スキゾ・カルチャーの到来
対話 ドゥルーズ=ガタリを読む


マルクス主義とディコンストラクション
ぼくたちのマルクス
本物の日本銀行券は贋物だった
共同討議マルクス・貨幣・言語


ツマミ食い読書術
知の最前線への旅
N・G=レーゲン『経済学の神話』
今村仁司『労働のオントロギー』
広松渉『唯物史観と国家論』
栗本慎一郎『ブタペスト物語』
山本哲士『消費のメタファー』
柄谷行人『隠喩としての建築』
山口昌男『文化の詩学1・2』
蓮実重彦『映画誘惑のエクリチュール』

さて、この『逃走論』ですが、第Ⅰ部は楽しく読むことができました。私の場合、森毅を読んでいたので内容的には第Ⅰ部は森毅的に理解することが容易かったです。第Ⅱ部はこの本で一番難解なパートではないかと思います。特に柄谷行人・岩井克人との三人での共同討議は「よくもまあ、こんな小難しい会話ができるものだ」と感嘆のため息をもらしたものでした。ですので、第Ⅱ部は、後日、大学生になってからじっくり読んだ記憶があります。第Ⅲ部のツマミ食い読書術などは学生にとってとても魅力的な手引きでした。紹介されてある本は片っ端から読みたくなりましたし、当時は現代思想が花盛りだったので書店にも現代思想関連の本がたくさん並んでいました。あの頃の私は本当によく本を買っていましたね。もう、大きな本屋さんへ行くと「あれも欲しい、これも欲しい」で本屋から出るときは財布の中がいつもスッカラカンになっていました(笑)。今となっては楽しい思い出です。そういえば、当時は本を手元にたくさん置いておかない気が済まなかったのでカバンに何冊も本を詰め込んでは持ち運びしていました。読みたくなったらいつでも読めるように読みたくなりそうな本を何冊もカバンに入れていたのです。結局、あれこれ読んでゆくうちに本当に読みたい本が手元になくて何のためにカバンに本をたくさん詰め込んでいたんだと悔しく思うこともしばしばありました。本当に読みたくなった本は自宅の本棚に置いてきたなんてことがしばしばでした。本の重みでカバンの肩紐が食い込んで痛かったのを覚えています。これも今となっては懐かしい思い出です。

ただ、この本ではマルクスがたびたび引用されているので、ソ連が崩壊してしまった今となっては意味のない文章になってしまったのではないかと危惧される人もいるかもしれません。まあ、マルクスは、元々、批判をするだけで「じゃあ、どうするのか?」という実際的な解決策については未熟なままでしたからね。ただ、第Ⅰ部のスキゾキッズの精神だとか第Ⅲ部の読書術だとかは今の若者たちにも十分に役立つと思います。いえ、むしろ今の時代だからこそ逃走論は役立つと言えるかもしれません。なぜなら、これが書かれた当時とは違って、今の時代は大企業の時代ではなく、個人の時代になりつつあるからです。喩えて言えば重厚長大な巨大戦艦の時代から軽薄短小で個々人が活躍する戦闘機の時代になりつつあるからです。そして、個々の戦闘機が活躍する時代こそスキゾキッズたち逃走論の時代ではないでしょうか。私たちはグローバル競争という地球規模の大きなうねりの中で軽やかに、しなやかに、そして、したたかに駆け抜けてゆく。スキゾキッズの本当の冒険はまさにこれから始まるのではないでしょうか。

追記
ちなみに私が浅田彰の本で最初に手にとったのが、島田雅彦との対談集『天使が通る』でした。これが確か1989年か1988年頃だったと思うのですが、今ひとつ記憶が定かではありません。対談の最初の方で漫画『北斗の拳』が参照されていて親しみを覚えたのを覚えています。でも、「卑近な例」として『北斗の拳』が上げられていたので、漫画ばかり読んでいた自分が少し恥ずかしかったという記憶も残っています。とにかく、浅田彰の知識の多さとハイカルチャーでハイセンスな感覚にテキストを読んでいる自分がどこまで理解できているか分からずやや不安でしたが、それでも楽しく読むことできました。

それから、何の雑誌だったかを忘れたので記憶違いかもしれませんが、テーマはマルクスだったのですが、浅田彰と誰かの対談だったのですが、半分以上がマルクスではなく、ケインズの話ばかりでびっくりした記憶があります。しかも「ケインズはゲイだけど、バレリーナの奥さんを貰ってカッコイイ!」みたいな内容で(笑)、「おいおい、テーマはマルクスとちゃうんかい」とツッコミを入れたくなるような対談でした。あのときはまだ冷戦崩壊前でしたが、既に浅田はマルクスをある程度見限っていたのではないかと当時思ったものでした。


2013年6月22日土曜日

原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』

 
 
原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』を読んだ。
 

この本は2009年から2011年にかけてAV女優として活躍していた原紗央莉の自伝である。まず、最初に断っておこう。「彼女がAV女優になったのには辛い過去があって仕方なくAV女優になった」というようなお涙頂戴的な人情ばなしをこの本に期待してはいけないということだ。彼女には他人に同情してほしいというような女々しい気持ちは一切ない。そんなものに対しては彼女は怒って蹴りを入れるくらいだろう。では、この本には一体何が書かているのか?

ここに書かれているのは彼女の決意であり宣言なのだ。世界中を敵に回しても自分の足で立ち、どんなに向かい風が強くとも、たとえそれが身を切り刻む嵐であっても、まっすぐに前を見据えて突き進んでゆくという強い強い決意なのだ。しかも、「来るなら来い!受けて立つ!」といった敵に対して堂々と胸を張って生きてゆくという、まるで獅子の宣言なのだ。確かにこの本を執筆したときの彼女はたかだが21歳の小娘に過ぎない。だが、ひとの決意に年齢は関係ない。他人から見れば他愛のない理由かもしれないし、考え方も稚拙かもしれない。しかし、未熟ながらも本人がそのときどきを本気で生きて真剣に考えて下した決断なのだ。万一、間違っていたとしても、おとしまえは自分でつけるし、その覚悟は既にしてある。
そう、この決断は戦士の決断なのだ。

普通のひとは自分がAV女優であることを隠す。親にも隠すし、友だちにも隠すかもしれない。本名なんて隠して当たり前だ。本名を知られて故郷で後ろ指なんて指されたくない。何年かAV女優として働いて幾らかのまとまったお金を稼いだら、あとは引退して世間にバレないように群衆にまぎれるだけ。小賢しいと言われようがかまやしない。稼いだお金を数えながら、チョロっと舌を出してニンマリするだけ。賢く生きようではないか。普通はそう考える。ところが、原紗央莉は違う。小賢しく立ち振舞おうなんてこれっぽっちも考えない。彼女はAVで裸やセックスを人前に晒すだけではない。本名まで世間に晒す。しかも、その晒し方が尋常ではない。本にして晒す。しかも、文章の中に晒すのではない。本のタイトルという一番目につくところにデカデカと出して晒す。彼女は気でも狂ったのか?それともヤケクソなのか?もしかしてドMなのか?いや、そうではない。彼女は正気だ。しかも、とことん本気だ。彼女は自分の選択に胸を張っていたいのだと思う。陰でコソコソとAV女優をして稼ぐなんて気はサラサラない。「陰でコソコソとAV女優をしてるって?コソコソしてねぇよ!あたしの選んだ選択になんか文句あっか?」と言ってバーンと本名を叩きつけたのだ。言っておくが、これは開き直りではない。むしろ、性分だと思う。曲がったことができない、不器用と言われようがまっすぐにしか生きられない彼女の性分なのだと思う。

この性分がこの本を彼女に書かせたのだと思う。もちろん、「仕事の企画として勧められたから」というのもあるだろう。しかし、そんなものはあくまで表面的な事象に過ぎない。彼女の心の中で執筆へと突き動かしたものはもっと別で、それは個人的な動機からだと思う。では、その個人的な動機とは何なのか?それには「この本は誰に向けて書かれたのか?」について考えてみる必要がある。まず、この本は誰かに分かってもらいたいという気持ちで書かれたものではないと思う。おそらく、自分自身に向けて自分自身のためだけに書かれたものだと思う。では、いったい彼女は自分に対して何が言いたかったのか?そして、何をしたかったのだろうか?それを解き明かすには、彼女の置かれた状況について考えなければならない。彼女もAVという仕事が世間でどのように評価され、AV女優が世間からどういう目で見られるかは十分に知っている。それなのになぜ本名を晒してまでこのような本を書いたのか?下手をすれば、AV女優というレッテルが一生ついてまわるかもしれない危険があるのに。なぜか?それは「自分にウソをついて生きていけるだろうか?」という問いにすべてが集約されていると思う。そう自分に問うたときの彼女の答えは”否”だと思う。「自分が自分にウソをついて生きていくことはできない。そんなことをすれば自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」と感じ取ったのではないかと思う。「自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」とはどういうことか?これを説明することは少々難しい。私たちの人格を構成している要素は言語で、人格は言語で構成されたOSのようなものだと思う。だが、OSは心の表層に過ぎない。心にはもっと奥がある。それは無意識のことを言っているのか?いや、無意識よりももっと深層だ。心の最深部には未だコトバにならない意思のうねりのようなものがある。あるいは、言い方を変えれば精神のエネルギー、魂のマグマといったようなものがあると思う。それは私たち生物を創造的進化に促すものと同じであり、ベルクソンのいう精神のエネルギーそのものだと思う。その精神のエネルギーが自分自身である人格と対立してぶつかったとき、大波が小舟を粉々に叩き潰してしまうように意思のうねりがちっぽけな人格を破壊してしまうのだと思う。おそらく、彼女は本能的にそれを感知したのだと思う。では、どうすれば自らが自らを破壊せずに生きられるのか?答えは1つしかない。つまり、人格と精神エネルギーが一致するしかないのだ。もし、心と魂が一致していれば、たとえたった一人で世界中を敵に回しても負ける気はしない、おそらく、そのように感じ取ったのではないかと思う。その意思の顕れとして打ち立てられたのがこの本というモニュメントだと思う。そう、この本はモニュメントなのだ。彼女の意思が結晶したモニュメントなのだ。彼女の人格とエネルギーを一致させるためにモニュメントが必要だったのだ。

私が感動するのは彼女の意思の強さだ。といっても世間一般にいわれる意思の強さではない。自らをも灼き尽くすかもしれないほど強力な生命のエネルギーに感動するのだ。世界中を向こうにまわしても勝てると思わせる強力な意思力。何ごとも直接的でかつ不器用で、ときにはあっけないほどに忍耐力もなさそうだけれど、何者の力が掛かっても動かしがだい底力というか、まるで恒星のような存在力のある人間、それが原紗央莉だと思う。現代は情報化社会が進むにつれて人々は知的になった一方で、どんどん小賢しくなったとも言える。みんな、小粒になってしまい、野性味は失われ、かつては燃えるようだった生命力も穏やかな蛍光灯のような弱々しい光に変わってしまった。そんなときに現れたのが原紗央莉だった。彼女はセックスの女王というよりはむしろセックスの虎だ。そして、ガツンと一発世間の男どもにパンチを喰らわす。

「あたしがAV女優原紗央莉だ!文句あっか?」

2013年6月21日金曜日

ラリー・カハナー『AK-47 世界を変えた銃』 


かの有名な突撃銃AK-47について書かれた本です。

目次
第1章 祖国を守る
第2章 AKとM16の対応パート1
第3章 パンドラの箱
第4章 アフリカのクレジットカード
第5章 ラテン・アメリカのカラシニコフ文化
第6章 アメリカを訪れたカラシニコフと彼の銃
第7章 国連も認めたほんとうの大量破壊兵器
第8章 AKとM16の対決パート2
第9章 AKをもう一度売り込む
エピローグ AK最後の?日
     



私はガンマニアでもミリタリーファンでもなく、通常のライフルとアサルトライフル(突撃銃)の違いさえ知らなかったので大変参考になりました。AK-47についてはさいとう・たかをの漫画『ゴルゴ13』ではしばしばゴルゴの持つM-16とこのAK-47が対決する話があるので名前は知っていましたが・・・。

AK-47Ⅱ型
※バナナ型の弾倉が見た目の特徴なんでしょうね。

さて、AK-47の特徴としては、よく知られた事実ですがAK-47は劣悪な環境にあってもメンテナンスを必要とすることなく、すぐに実戦に使えるというのが大きな魅力です。例えば長期間に渡って泥沼の中に埋まっていてもそのまま弾倉を装填すれば撃つことができるそうです。米国のM16ではそうはいきません。M16はメンテナンスを必要とし、劣悪な環境下では故障を起こしやすいそうです。ベトナムなど過酷な条件ではたいへん扱いにくいようです。

なぜそのような違いが生じるのかというとAK-47は構造がとてもシンプルだからだそうです。真理がシンプルなものであるのと似ていますね。それだけ合理的にできていると見ることもできると思います。そのため操作も簡単なようで少年兵でも1時間も訓練すればすぐにAK-47を撃つことができるようになるそうです。ですので、少々手荒に扱っても壊れないしメンテナンスも必要としない、操作も簡単で誰でもすぐに使えるということで非常に重宝されたようです。さらに使うものにとっての利点はAK-47の価格がとても安いことです。安いので誰もが簡単に大量に購入することができるそうです。

そのため、AK-47は様々な戦場で活躍してきました。ベトナム、アフリカ、中南米、アフガニスタン・・・。この本では世界各国でAK-47が使われた歴史を負っているので、近代の戦争・紛争の歴史も同時に追うことができます。まあ、逆に言えば、それだけAK-47が頻繁に使われてきたということなのでしょう。驚いたことに国によっては国旗にAK-47のシルエットを入れているところもあるくらいです。

この本ではAK-47の生みの親についてもその生涯を追跡しています。AK-47の設計者ミハイル・カラシニコフは第二次世界大戦でナチスドイツと戦って負傷し、ナチスに負けないライフルを開発して祖国ソ連を守ろうと決意して生まれたのがAK-47だったそうです。彼は元々は銃の設計について専門の教育を受けたわけではなくて、いわゆるたたき上げで銃の設計に携わるようになったそうです。そのため、予備知識がなかったのが幸いして先入観にとらわれることなく合理的に銃を開発できたのではないでしょうか。また、他の銃からもその優れた点をどんどん取り入れたそうです。専門教育を受けたわけではないので、他からどんどん良いところは取り入れようという一種の謙虚さだったのだと思います。そうやって開発されたのがAK-47です。彼は祖国に貢献したい一心だったので開発した当時はまったく金儲けには興味が無かったそうです。ところが、冷戦が終焉してアメリカに招かれてM16の開発者であるユージン・ストナーに会ってみるとM16のライセンス料で大金持ちになっているのを見て大変驚きます。M16が1丁売れるごとに1ドルがストナーに入るそうです。凄い契約ですね。一方、カラシニコフですが、彼にとって残念だったのはAK-47はすでに共産圏の国に無償で製造方法についても提供されていたので彼には一銭もお金が入らなかったそうです。しかし、AK-47の普及のおかげでカラシニコフの名前も有名になり、ウィスキーの名前にカラシニコフと付けたりしてちょっとした商売にしたそうです。それだけAK-47が世界的に普及したということでしょうね。

この本を読んで知ったものにTV映画『44ミニッツ』があります。実際にロサンゼルスであった銀行強盗を元にした映画なのですが、たった二人の犯人たちがAK-47を持っていて数十人の警官と撃ち合いになったのですが、警官の装備している銃では歯が立たなかったという恐ろしい話です。突撃銃の破壊力や有効性がこの映画を見るとよく分かります。

拳銃や散弾銃とは違って一定の距離をとった間での戦闘では突撃銃はとても有効な武器なのでしょう。ただ、もっと遠距離の狙撃になるとライフルの方が有効なのではないでしょうか。私は専門家ではないので間違っているかもしれませんが。

米国では銃による事件が跡を絶ちません。早く銃規制をすればいいのにと思うのですが、全米ライフル協会などの団体がそれを許さないのでしょう。2013年4月に銃規制強化の法案が否決されたとき、オバマ大統領は強い口調で「恥ずべき日だ」と非難しました。私も同感です。そんな米国ですが、銃規制を描いた名作映画に『ニューオーリンズ・トライアル』があります。ジャンルは法廷ものですが、とても参考になると思います。


2013年6月20日木曜日

フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(訳:村上春樹)

 
 
ちょっと前に読んだ小説ですが、最近、レオナルド・ディカプリオ主演で映画が公開されたようですので感想を書いておこうと思います。それはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』です。ちなみに読んだのは村上春樹訳の方です。


私自身は『グレート・ギャツビー』は有名なので名前は知っていましたが、あらすじとかを読んでみたのですが、あまり興味が持てなくて読んでいませんでした。さらに後に村上春樹が名作だと言っているいうことで読まなくちゃいけないかなあという気持ちになったりしたのですが、それでも読んでいませんでした。それからさらにウィキペディアで解説を読むと「英語で書かれた20世紀最高の小説で2位」と書かれてあったのでますます読まなくちゃという気になり、とうとう本を購入したのですが、それから随分長い間積読になってしまい、ようやく最近になって読んだというのが実情です。

さて、「読んだ感想は?」と言うと「小説のいわんとすることは分かるけど、しかし、世間で言われるほど高く評価されるほどの小説だろうか?」というのが正直な私の評価です。世間の評価というのは案外あてにならないなあというのが率直な感想です。ただ、私自身が気づいていない良さがあるのかもしれないという一抹の不安も少しありますが・・・。


さて、ストーリーはとてもシンプルで、貧しい青年ギャッツビーが好きな女性デイジーのハートを射止めるために無理して金持ちに成り上がるのですが、デイジーたちが住むハイソサエティーな連中との間に育ちの違いからギャップが生じるといった感じです。結局、ギャッツビーの夢は叶えられずに挫折するのですが、そのギャッツビーを傍らで見ていた友人のニックがギャッツビーの純愛に感動しつつ、ハイソサエティーに対して厭世観というか達観みたいなものを得て、デイジーたちの見せかけだけのハイソサエティーを捨て去るというような話です。

この物語の重要な点は2つあって、1つは金持ちたちに対する批判、もう1つはニックの得た達観です。金持ち批判については当時のアメリカ社会を知っていることが大事でそこまでに至る歴史と当時の状況というのを知っていないとこの金持ち批判はいまひとつ伝わってこないのではないかと思います。それから、もう一方の重要なポイントである達観ですが、これはフィッツジェラルドの後の世代で流行ったサリンジャーなどに代表される超絶主義に通じるものがあるのだと思います。いや、超絶主義までいくと行き過ぎになってしまうかもしれません。村上春樹などは適度な距離感を大事にしているのだと思いますから、超絶主義のようにあまり世間から乖離してしまうのも彼のリアリズムに反するのだと思います。程良い距離感。それが村上春樹の表面的なオシャレさだったり、深層におけるリアリズムだったりするのだと思います。

この作品はロシア文学のような深い感動を得られるという物語ではありません。しかし、作品の舞台が1920年代のちょっと古いアメリカですが、現代の社会に対しても十分に通じる世界観とかニヒリズム的な態度やクールなリアリズムがあるのだと思います。読後にクールな余韻が残るのがこの作品の魅力なんでしょうね。


『グレート・ギャツビー』をより深く理解するためには当時のアメリカ社会を知っておいた方が良いので、下記にアメリカ社会を知るための参考文献を挙げておきます。いずれも資本主義やアメリカ社会を考える上でとても参考になる本だと思います。