2013年4月20日土曜日

雑感 ボストン爆弾テロ事件から民主党の独自カラーまで

ボストン爆弾テロ事件。犯人は負け組で社会を逆恨みしての犯行ということか。ただ、犯人の弟の方は医科大学の学生というのなら、明確に負け組とは言えないと思うので、動機が不明瞭に思う。兄の方はどういう境遇なのだろうか?ニュースではチェチェン人と言っているが、実際は他所を転々としている。

犯人たちはスターリン時代にキルギスに強制移住させられたチェチェン人の末裔でキルギスで生まれ、その後、コーカサスのタゲスタン共和国に移り、さらにトルコに移住して、7、8年前に米国に移住してきたらしい。兄は思春期、弟は少年時代に米国に来ていると思う。どちらかというと米国育ちだろう。

よく分からないのは彼らの保護者は誰だろう?両親はロシアにいるし、インタビューに答えている親戚も一緒には住んでいなかったようだし・・・。強制移住といえば、昔、ソ連時代によくポーランド人が中央アジアに強制移住させられていたように思う。記憶違いかもしれないが。

たぶん、イスラムとかアルカイダとかは今回の事件に関係ないんだろう。むしろ、負け組というのがその主な動機になっているのではないだろうか?しかし、負け組勝ち組で区分けする単純な思考が社会の一部に一定量定着したということだろうか。負け組勝ち組と分けるそんな単純なものではないと思うが。

犯人の弟は医科大学に通っていたはずだが、米国の大学はかなり高額の授業料のはずでどこからそんなお金が出ていたのだろうか?裕福だったのか、それとも奨学金だろうか?負け組のイメージとはちょっと違うように感じる。あるいは授業料を払えなくなって退学しそうだったとか?

話は違うが、欧米先進国の若者の失業はどこも深刻で、(スペインは特に酷い)、彼らの鬱積したストレスは相当なものだと思う。ただ、日本は戦後の経済成長があったから今頃、脱工業化の悩みが噴き出してきたけど、欧州などは80年代からじわじわと来ていた悩みではないだろうか?

今の中国はかつての日本のように経済成長の真っ最中で楽しい盛りだと思う。もちろん、経済成長に伴うストレスの多い社会にはなっているだろうけど。一方、日本は急激に他の欧米先進国のような失業の問題が浮上してきたのだと思う。英国などはイギリス病といわれるように戦後からずっと悩んでいるが。

何が言いたいのかというと、以上のように考えると、日本の経済低迷の悩みは欧米先進国からすれば、今までずっと続いてきた悩みであり、日本も同じようにそれに加わりつつあるということだと思う。欧米先進国と同じように生き残りを模索しなければならない。ただし、米国だけは一部例外がある。

それは米国は今だにGDP世界一位であり、その原動力は金融とITだということだ。特殊な産業という例外を除くと、それ以外の職種はどれも低賃金であまり豊かとは言えない。そういう部分では他の欧米先進国と同じで悩みを抱えている。今回のボストン爆弾テロ事件の負け組もその中の一部だと思う。

たぶん、日本は米国の真似は無理だと思う。米国のような世界中の移民を受け入れる多様な社会を日本は真似できないと思うからだ。米国には優秀な人材が集まる。それ相応の報酬も得られるし、言語も英語で共通だし。日本はそうはいかない。また、金融もITも日本が苦手とする分野ではないだろうか。

優秀な個人は世界市場に打って出ればいい。つまり、米国へ行って活躍すればいい。そういう脱出口はある。そういう意味ではアメリカンドリームは素晴らしいと思う。少なくとも他の国にはそういう夢、チャンスは用意されていない。ただし、その一方でフリーフォールといわれるように底なし沼だ。

ある意味、それはハイリスク・ハイリターンなのだろう。日本は緩やかな衰退が自然な落とし所ではないだろうか。元々、日本は近代以前は貧しい国だったのだし。

「政治が悪い」「社会が悪い」といって責任を単純に他に押し付けてしまうのはたやすい。もちろん、機会均等や公平公正な制度を政治に求め続けることは必要だ。でも、なにもかも責任を政治に押し付けるのはどうか。グローバルな市場で競争に勝つための個々の努力は必要だと思う。世界中の人に言える。

いずれにしても、そして、言い古された感は否めないが、価値観の多様性が要ると思う。負け組勝ち組で単純に区分けする考え方はややもすれば、人々に多大なストレスを与える要因になりかねない。実際、経済力は生きる上での制約にもなっているのだが、それ以上に精神的に踏みつけているように思う。

話は違うが、民主党が自民党を破って政権交代を成し得たのは民主党の人気があったからではなく、反自民が強かったからだ。積極的な民主党支持ではなく、反自民の結果から消去法的に民主党に支持が集まったからに過ぎない。今、野党に転落した民主党に必要なのは民主党独自のビジョンだと思う。

今、株価は期待だけで上がっている。しかし、実際の企業業績は良くなっていない。また、政府の要請に応えて自動車業界はボーナスを満額回答した。しかし、エコカー減税で税金で自動車業界を支援したのだから、それを給料に還元しないのでは税金ドロボーになるから政府の要請を断れなかったに過ぎない。

今はアベノミクスが成功しているように思われるかもしれないが、実体経済は決して良くなく、おそらく、その反動がくると思う。そこで話は戻るが、民主党には民主党の独自のカラーを出してもらいたいと思う。

私が考える民主党の独自カラーは社会福祉の充実だ。誰もが景気回復、強い日本経済の復活を望んでいるだろう。しかし、先程も述べたように正直なところ、日本のポテンシャルはそんなに高くない。それよりは社会福祉を充実させた方が良いと考える。景気回復は自民党が掲げればいい。

自民党は景気回復を唱えればいい。しかし、自民党の政策は金持ちや企業優遇で、低所得者層には直接のメリットはない。自民党の論理は景気が良くなれば、低所得者層も底上げされるという論理だ。確かにそういった効果をまったく期待しないではない。しかし、あっても実際にはそれはかなり遅れると思う。

それよりは民主党は社会福祉の充実を打ち出して、直接的に低所得者層の底上げを狙えばいい。確かに広く薄くになってしまうかもしれないが、それでも多少なりとも低所得者層に支援はとどく。自民のやり方ではいつ低所得者層にメリットが還元されるか分からない。むしろ、生活が苦しくなるかもしれない。

以上、述べたことは非常に単純な見立てであり、他の先進国でも見られる傾向だと思う。保守とリベラルで見られる傾向だと思う。日本もそれで良いと私は思う。有権者はそういった単純な2つの選択肢から自分が良いと思う方を選べば良い。景気回復が目の前にチラツキ過ぎて民主党の独自性が出せなかった。

民主党が低所得者層に向けて社会福祉の充実を柱に据えるのは良いとして、問題は民主党の支持基盤だ。公務員と労働組合。彼らはかつては中流だった。しかし、今はどうか?中の上か、ぎりぎり上に位置づけられるか?もし、支持基盤が上に位置づけされるなら社会福祉の充実と支持基盤にズレがあると思う。

多くの経済学者が自分の主張するような政策を実際に政府が行えば、まるで日本の経済が世界一位になるバラ色の未来が到来するかのように言うが、もし、その主張通りに実行してたとえ成功したとしても、実際にはそんな未来はやって来ない。せいぜい少し良くなるだけだ。影響は微々たるものだと思う。

何が言いたいかというと日本のポテンシャルはもはやそんなに高くない。今まで蓄積した資産でなんとか経済大国にしがみついているだけだ。だから、あまり無茶な未来は夢見ない方が良いと思う。そう考えれば、微々たるメリットしかないかもしれないが社会福祉の充実の方が現実的な政策かもしれないのだ。

今、民主党は離党者をどんどん出して風前の灯火状態だ。これは今まで積極的な民主党支持では無かったからだ。積極的な民主党支持を作り出すためにも民主党は独自のカラー独自の政策独自のビジョンを出さなければいけない。それが今ツイートしたような日本経済のビジョン、社会福祉の充実だと私は思う。


2013年4月11日木曜日

雑感 アベノミクスから人文の衰退まで

世間はアベノミクスで騒いでいるけど、あまり感心しない。なぜなら、実体経済が伴っていないからだ。円安になったからといって景気が回復すると本気で考えているのだろうか?安い人件費の新興国の製品と高い人件費の日本の製品が円安くらいで逆転できるだろうか?しかし、株価など期待で上がっている。一方で原材料費のコストも上がっている・・・。

日本経済についての私の見方はNEOACA創刊号で述べたときと変わっていない。むしろ、その後の展開がどうなるかがそろそろ見えてきたのではないかと思う。まず、これまでの流れだが、中国などの新興国に日本の製造業が奪われて経済大国日本が低迷するというのが私の見立てだ。その後はITや金融などの知識産業に移行することで多少の生き残りを図るというのが今後の流れだと思う。ここで「多少の生き残り」と言ったのは、知識産業では勝ち組は少数で負け組は多数になるからだ。つまり、多くの人たちは負け組に入ってしまうだろう。だから、知識産業に移行することは「みんながハッピーになれる最良の選択肢」ではなくて、少なくとも「少人数だけは先進国の高い富を手中に入れられる精鋭になれる」という最低限の選択肢でしかないからだ。

さて、そういった移行は徐々に始まっていると思う。その変化はあまり気付かれないかもしれない。なぜなら、少数の勝ち組しかポツポツと生まれ出ないから目に見えてはっきりと移行したとは感じられないからだ。しかし、ほんの少しずつそういった変化は生じていると思う。その一方で負け組も増え続けていると思う。企業の業績不振から正社員など高賃金労働者は減少するだろうし、財政難から増税か物価高で実質賃金の低下が生じると思う。そういう流れが既に始まっているのではないか。

ここで、今後の人文について考えてみる。

日本の人文は近代が支えてきたところがある。どういうことか?近代以前、つまり、近世までは人文は無きに等しかった。あるにはあったが、体系化されたもの、アカデミズムとして階層化されたものは無かったのではないか。それが近代に入って脱亜入欧、西洋に学べということで西洋の知識がどんどんと取り入れられるようになった。ある意味、輸入だった。今もなおその傾向は続いている。しかし、そういった世界のアカデミズムに日本の人文が知的貢献をしたかというと甚だ疑問である。輸入する一方で新たな知の一角を世界のアカデミズムに築くということは無かったように感じる。

今、日本経済が下降に向かっている中で人文の輸入というのがどうなるかと考えた場合、おそらく、経済の低迷に比例して輸入も低迷してゆくと思う。ただ、世界の人文知自体の生産性が低迷しているので、輸入の減少はそれほど目立たないかもしれない。ところで、日本は昔から実用にはカネを払っても、非実用的な学問にはカネを払わなかった。日本で非実用的な学問が発達しなかった歴史がそれを物語っている。経済が低迷すれば、脱亜入欧のために近代から続いていた惰性的な投資も減らざるを得なくなると思う。つまり、人文アカデミズムの衰退が今後ますます進行すると思う。

さて、話を戻そう。日本経済は衰退する。それが徐々にか急にかは分からない。そのスピード感は人それぞれの立場によって変わると思う。影響を受けやすい人は急に感じるし、影響を受けにくい人は徐々に変わると感じるだろうからだ。しかし、着実に日本経済はかつて貿易立国だった頃と比べて衰退し続けるだろう。経済格差について自由について多くの日本人に苦い思いを突きつけるかもしれない。とはいえ、その不満を政府に向かわせることをしないと思う。今のところ、多くの日本人は不公平感を持っていないように思うからだ。ただ、世代が進めば、生まれながらの経済格差に対して不公平感を抱くようになる可能性はある。だが、現時点では、まだそれはないと思う。

確かに資本主義は完璧ではない。修正すべき箇所はこれからも多々あるだろう。しかし、現時点で資本主義そのものをダメなものとして否定するのは無理があるのではないか?グローバル経済を真っ向から否定する人もいる。しかし、その代替案は果たして合理的に機能する仕組みだろうか?むしろ、否定ではなく、修正が大事ではないだろうか?

ところで、社会システムの補強も要は選択肢を増やすということになるのではないか?確かにただ選択肢を増やせば複雑になる。しかし、それによって個人の自由が保証される。「自分は自分、人は人」だ。もしくは、他人も自分と同じでなければならないというなら同じコミュニティを形成するかだ。

失われた10年、いや、失われた20年ということになるのだろうか?そのように言われてきたけれど、それらの響きには「強さを取り戻す日本経済」、「復活する日本経済」が暗にほのめかされている。しかし、実際はそうではないだろう。もはや復活することはあるまい。歴史を振り返れば、世界の工場は、はじめ英国だった。その次は米国だった。そして、日本に移り、今は中国が世界の工場となった。東西冷戦下では日本が世界の工場になり得たが、東西冷戦が終わって市場が世界規模になったとき、つまり、グローバリゼーションが始まったとき、世界の工場は日本から中国へ移った。大きな流れで言えば、そのような経済潮流になるのではないだろうか。バブル経済とかインターネットの普及という他の要素もあるが、大きな流れとしてはやはりグローバリゼーションだと思う。

とりとめのない話を長々と書いてきたが、これは前振りで(笑)、言いたいことはこの先にある。私が若者だった頃に求めていたモノと今の若者たちが求めるであろうモノは違う。今の若者たちが求めるのは生き残りのための知恵だろう。端的に言えば、それはライフハックだろう。あるいは経営者養成セミナー的な自己啓発だろう。象徴的に言えば、イケダハヤトや勝間和代だろう。別にそれは悪いことではない。そういう目的を持つのは自由だし、そういう生き方もいい。

一方、人文知の生き残りは社会学として社会にコミットしているけれど、それが今の若者の求めている知恵と結びつくかどうかは微妙だと思う。私などは知的好奇心から知への探求があったけど、今の若者が求めているのは生き残る知恵であって、それ以外の知識は不要な余分でしかない。元に知への探究心がない限り、それら不要な余分が実を結ぶことはないと思う。探究心がない限り、消えてゆく雑学として霧散霧消してゆくと思う。結局、若者は効率良く知識を得るために余計が含まれる人文とかに目もくれることなく、最初からライフハックに飛びつくようになると思う。

人文アカデミズムの衰退と若者の人文知への無関心。そうなると人文知はごく少数の趣味人のものになるのではないか。そして、知が更新されることもなくなり、また参入する人数も少ないならば、興味は自ずと過去の蓄積の参照、掘り起こしに向うのではないか。すなわち、歴史である。

もちろん、そうではなくて、現代とコミットして社会と関わってゆく手もある。ただ、それは社会システムの改善や修正であって、革命ではないと思う。それをあたかも革命のように言うのは詐欺ではないかと思う。ほんの少しの修正であっても、その有意義さを説明する方が良いのではないか。

とりとめもなく長々と書いてきたが、私が興味があるのは修正ではなく、歴史の方だ。

ニューアカの頃のような現代思想のムーブメントはもはや起こらないだろう。また、東西冷戦も終わり、社会システムに対する懸念も一応ケリがついたと思う。日本における人文知は趣味として歴史の中にその楽しみを見出すのではないかと、やや寂しい結論ではあるが冷静になって考えれば、そう思う。

・・・病み上がりの午後に想う

2013年3月26日火曜日

文化系トークラジオLife2013年3月号

文化系トークラジオLifeの『論壇のいま、Lifeのこれから』を聴いたので感想とかつらつらと考えたことを書いておきます。

まず、ラジオの主題は2つで、1つは「論壇について」で、もう1つは4月から隔月放送になるLifeについて「これからのLifeをどうするのか」といった内容でした。

面白かったのは大澤聡で、明治・大正・昭和時代の過去の論壇・文壇事情についての話でした。私としては山口昌男の『内田魯庵山脈』で読んでいたので彼の話は大体分かるような気がしたし、それを補完する意味で面白い話だった。

また、『Lifeのこれから』についてはユルイ社会学って感じが結論だったろうか?これについては出演者が社会学者の鈴木謙介と斎藤哲也・速水健朗・仲俣暁生らライターなので、社会学者は専門は社会学だし、ライターの専門は言うなれば考現学なので、その融合となればユルイ社会学という結論はごく当たり前な結論だと思う。

さて、聴いていて不満だったのは「論壇のいま」のパートで、イデオロギー的な、あるいは、政治経済的な今の状況がまったく話題になっていないことだった。唯一、「東西冷戦の終焉」というのが言われたきりで、そこから後の言及がまったく無かった。当たり前だからわざわざ触れなかったのかもしれないが、やはり、前提条件として、今、自分たちが生きている世界の政治体制や経済体制について一応触れておくべきではなかったろうか。

そこで今の状況について、私なりの見立てだが、簡単に書いておくと
・1989年ベルリンの壁崩壊、1991年ソ連崩壊により東西冷戦構造が崩壊した。 

・東西冷戦構造の崩壊によって東側諸国が西側諸国の市場に組み入れられる、いわゆるグローバリゼーションが始まった。そして、2000年に中国がWTOに加盟して、安価な労働力が中国を世界の工場にする。 2012年には中国は日本のGDPを抜いて世界第2位の経済大国になる。

・一方、日本は製造業が中国に奪われて経済力は下降の一途をたどり、失われた10年と言われたが、10年どころか20年も経済成長が1%という低迷を迎える。

・中国は米国と世界を二分する覇権を目指しており、日本は米国と中国という二大超大国の中間という難しい立場に位置する。(さらにロシアを加えることもできる。)

・東アジアに絞れば、日本、韓国、北朝鮮の三国が微妙な関係にある。

・東西構造崩壊に対して日本の論壇は沈黙してしまった。なぜなら日本の論壇は左翼が多く、社会主義の失敗を素直に認められなかったからだ。

・今後の日本の課題は経済大国から失墜して下降をたどる中で、個人や企業や日本社会がどうやってグローバルな大競争時代を生き抜いてゆくか、である。端的に言えば雇用の問題である。ちなみに他の欧米先進国も同じ悩みを抱えている。
かいつまんで言うと以上のようになるが、他にも中東や北アフリカ、EUやロシアも大いに変化しており、言及出来ていないことも多々あるのを断っておく。

ともかく、世界情勢の現状と今後の日本の課題について言及しないで論壇について語っても仕方がないのではないか。論客の見た目とかトークのうまい下手とか内容ではなく、うわべについていくら語っても一番肝心な内容が疎かにはなっては本末転倒ではないか。もちろん、視覚効果やパフォーマンスを不要と言っているわけではない。いろいろな伝達メディアが発達してきたのだから、それらを使うことを否定することはできない。しかし、何よりも肝心な内容がどうでも良いというような扱いではダメだと思う。

さて、総じて今放送の結論としては、打ち上げやピクニックなどサロンやサロンを通じたネットワークが大事だという話だったと思う。それは本記事でも示した山口昌男の『内田魯庵山脈』でも言っていた話だと思う。さらにこれらを推し進めれば、山口昌男が晩年に著した遊民的な生き方を示した敗者学にも通じると思う。

2012年10月30日火曜日

ネオアカ読書会 第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』


ドゥルーズ=ガタリ『哲学とは何か』の読書会と目次と資料をブログにアップしておきます。

1.ネオアカ読書会第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』



2.目次

目次

序論 こうして結局、かの問は・・・・・・

Ⅰ 哲学
1 ひとつの概念とは何か
2 内在平面
3 概念的人物
4 哲学地理

Ⅱ 哲学 -科学、論理学、そして芸術
5 ファンクティヴと概念
6 見通しと概念
7 被知覚態、変様態、そして概念

結論 カオスから脳へ

3.プレゼン資料
資料は画像をクリックすると新しいウィンドウでプレゼンテーションが開始されます。






4.書籍



以上、どうぞよろしくお願いします。

2012年10月12日金曜日

差異と生命


前回はリゾームについて考えました。今回はドゥルーズの主要な諸概念、差異、反復、イデア、非実在論、強度について考えてみようと思います。しかし、いずれも難解な概念ですので理解は一筋縄ではいきそうもありません。そこで今回は話を分かりやすくするために生命という補助線を引いて考えてみることにします。これらの諸概念は生命について言っている、あるいは、生命からこれらの諸概念を抽出したと考えれば、かなりスッキリした理解が得られるのではないかと思います。ただし、ここで述べる生命ですが、次の仮定を前提条件にします。それは「生命には魂がある」という仮定です。なんだか非科学的な仮定ですが、話を分かりやすくするために今回はあえて用いることにします。
 
(1)差異
さて、まず、ドゥルーズの差異といえば、微分dy/dxが想像されます。微分は限りなく小さい微分量dxやdyを考えます。それら微分量の比を計測することで接線の傾きを導き出します。ドゥルーズの分析はまさに微分的です。各計測点で微分することによって曲面の傾き具合を含めた全体像を浮かび上がらせるような手法です。中沢新一がドゥルーズの分析を「微分係数から大域構造を見る」と言っていますが、まことに言い得て妙です。







さて、ドゥルーズが若い頃に第一線で活躍していた哲学者といえばサルトルです。ドゥルーズ自体はサルトルからは思想的な影響は受けていないようですが、それでもサルトルがその時代を代表する哲学者であったことには違いないと思います。そのサルトルですが、彼の実存主義には有名な「実存は本質に先立つ」というテーゼがありました。行動の前では本質よりも実存が立ち上がるという考えです。例えば、昔、金属バット殺人事件というのがありましたが、普段は金属バットの本質は野球の道具ですが、それがいざ殺人に使われた瞬間、金属バットは人殺しの道具に変わってしまいます。このように本質(野球の道具)が実存(殺人の道具)に取って代わられることを「実存は本質に先立つ」と言います。しかし、では、どの瞬間に本質が実存に取って代わられるのか、それを近代科学的に捉えようとすると動きを連続写真に分解して分析することになるかもしれません。つまり、連続写真の前後の差異を計測することでどの時点で本質が実存に取って代わられるか捉えようとするのです。ドゥルーズは映画を愛しましたが、ドゥルーズの差異というのはこのように動的変化を連続写真に分解することに由来しているのかもしれません。

ちょっと話は逸れますが、下図は階段を下りる裸婦の連続写真とマルセル・デュシャンの『階段を下りる裸体』の図です。写真の発明によって対象を正確に模写することに意味の無くなった画家たちは写真では捉えられない対象の真理を描こうとしました。この『階段を下りる裸体』はそういった意味で階段を下りる裸婦をトータルに一枚の絵で捉えようとした試みと言えるでしょう。この例で言えば、ドゥルーズの差異は各写真での微分係数を析出して対象の全体を捉えるようなものだと思います。







ともかく、ドゥルーズの差異はどこまでも分解・微分して計測しようとする科学的な態度だっと思います。サルトルの実存主義は哲学よりも行動が現実を切り開くと言っているようで、ある意味哲学の敗北を意味しそうですが、ドゥルーズはその行動すら細かく分析することで行動(動的変化)をも哲学の範疇に捉えようとした試みと言えるかもしれません。


ドゥルーズの差異の由来について上記で推測を述べましたが、もう1つの由来があると思います。それは単子(モナド)です。限り無くゼロに近い微分量は言うまでもなく微分の発明者ライプニッツのモナドです。モナドとは何かと考えた場合、モナドとアトムの違いについて考えるとモナドについてイメージが浮かび上がってくると思います。まず、アトムですが、アトムは原子という小さい粒、物質の最小単位です。ところが、モナドの場合、その大きさは、dxやdyと表されるように、まちまちで恣意的でさえあります。アトムは元素の周期表で表されるようにスタティックな単位です。まさにツリー的な位置づけです。それに対してモナドは流動的な単位で一体何なのか、いまひとつ分かりません。しかし、もし1つ似たようなものを上げるとすれば、それは生命の単位ではないでしょうか。例えば、細胞を1つの生命の単位とした場合、その大きさはまちまちです。モナドがまちまちなのと似ています。モナドとは生命の単位として考えられないでしょうか。

ところで、生命はある意味差異の機械だと言えると思います。何故かというと生命体は自己と自己以外とを分別するからです。図にすると下図のようなものです。自己と外部とを区別します。また、外部から物質を取り込んで自己の一部とするか、あるいは、不必要なものとして外部に排出するなど、自己と自己以外に分別しています。まさに、生命は自己と自己以外とに分別する=差異するマシンでもあるのです。ちなみに、これは言語の作用ともよく似ています。言葉Aが浮かび上がった瞬間、表出していませんが非Aも生成しています。逆な言い方をすれば、言葉Aを生成した瞬間、非Aは存在しないものとして殺害されています。このように脳の言語機能も差異のマシンです。










話が混乱してきました(笑)。少し整理すると、ドゥルーズの差異はライプニッツのモナドであり、モナドは生命の最小単位として考えられないかということです。そして、生命そのものもそれ自体差異するマシンではないかと言うことです。

さて、以上で述べたように差異には2つの側面があると思います。1つは科学的な分析としての差異です。もう1つは生命の基本機能としての差異です。以下の文章では後者の生命の基本機能としての差異に関わる概念になります。

(2)反復
差異の次は反復ですが、普通に考えると「ドゥルーズはどうして反復なんて取り上げたの?」という感じが否めませんが、生命という補助線を入れると分かりやすくなるのではないでしょうか。ドゥルーズは「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」と言います。これは何を言っているのでしょうか?これを聞いて思い当たる具体的なイメージとしては細胞分裂、あるいは、生命体の繁殖です。上図を有機スープの海(非A)とそこに生まれた原初の生命体Aとしますと、生命体Aは細胞分裂して生命体A1と生命体A2に分かれ、さらにそれらがどんどん分裂して増殖してゆきます。あるいは、細胞分裂について考えてみると、下図のように受精卵にどんどん仕切りができて1つだった細胞がどんどん分裂して複数の細胞に分化してゆきます。このように細胞は自己と外界を分け隔てますが、細胞分裂はさらに自己と他者を分け隔てて増殖してゆきます。









つまり、これが「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」ということの意味です。細胞たちが自己と他者を分け隔てて差異を反復することであり、さらに細胞分裂が展開される反復される差異なのです。フラクタルL-systemのように自己相似的に反復されるのです。

さらにドゥルーズは「世界は1つであり、無限の差異である」とも言っています。もし、世界が生命のない物質だけの世界ならもっとスタティックな分類になったでしょう。しかし、生物が存在することによって世界は多様性に富んだ無限に差異を反復する動的な世界となっていると言えます。生命は植物や動物や細菌など様々な形態をとって生き残りを図っています。例えば、地球を人工衛星から俯瞰して見ている図を想像して下さい。地球という球体を生命が覆っています。まるでシャーレに繁殖する微生物のようです。生命という単位では球体表面である世界は1つであり、同時に様々な形態をとる生命群は生命の無限の差異であると言えるでしょう。








(3)イデア
さて、反復の次はいよいよイデア(=理念)です。ドゥルーズは「イデアは個体以前の差異である」と言います。これは一体どういう意味でしょうか?再び、A非Aの図に戻ります。仮にAを生命体、非Aを有機スープとします。Aと非Aは物質的にはどちらも同じ物質です。なぜなら生命体Aは有機スープから物質を抽出して組成しなおして自らを形成しました。しかし、Aは生命であり、非Aは無生物の物質に過ぎません。同じ物質であるにも関わらず、この違いはどこから生じるのでしょうか?つまり、生物を生物たらしめているものは何か?生命の本質とは何か?生命のイデアとは何か?ということです。

別の言い方をしましょう。自動車の部品(車体やタイヤやエンジン、それと燃料のガソリン)を寄せ集めて組み立てればそれは自動車として動き出します。しかし、生物の場合、部品を寄せ集めてもそれは生物の死体が出来上がるに過ぎません。メアリー・シェリーが描いた『フランケンシュタイン』と同じようにクリーチャーに生命を吹きこまなければ生物としては動き出しません。それでは生物と無生物を分けるものは一体何でしょうか?

ここで、最初の言葉「イデアは個体以前の差異」に戻って、図に基づいて考えてみます。もし、図から物質をすべて取り除いたとします。するとそこに残るものは何でしょうか?通常の3次元空間から物質を取り除いても何も残りません。ただの空っぽの空間だけが残ります。しかし、そこで、物質もろとも3次元空間をも取り除いた空間を考えてみましょう。そこに残った場は3次元空間とは別の次元の世界と考えられます。下図はそこに残った場のイメージです。









そこに残るものこそ、個体以前の差異、生命のイデアと考えられます。すなわち、物質も3次元空間も取り除いた後、別次元の空間に残るものこそ、個体以前の差異、つまり、生命のイデアではないでしょうか。

(4)非実在論
さて、上記で別次元の世界を考えました。それは私達が住む3次元空間の世界ではない世界です。3次元に住む私たちにとっては別次元は日常的な世界には存在しない非実在の世界です。つまり、ドゥルーズの非実在論もこの別次元の世界を言っています。日常的な感覚からすれば、非実在の世界を仮定することは途方もない空想のように思えます。しかし、科学ではけっこうそういった世界を考えたりしています。例えば、数学で扱う虚数です。虚数は実数としては存在しない数です。下図のように、実際には存在しない数・複素数を想定することで私たちの科学は成り立っているところがあります。また、物理学でも3次元以上の次元について実際に存在するのではないかという説もあります。とはいえ、3次元空間しか認識できない私たち人間が別次元については知りようがないので、この話はここではあまり深入りしません。しかし、可能性としては否定できないところがあります。















(5)強度
さて、いよいよ強度です。ですが、強度について考える前に、生命についてもう一度考えてみます。生命は様々な形態をとって生まれてきます。動物や植物や細菌など様々な形に姿を変えてこの世に生まれてきて生き残りをかけて闘います。私たち人間もその中の1つに過ぎません。しかし、すべての生物が生き残るわけではありません。絶滅する生物もいます。逆に新たに出現する新しい種もいたりします。例えば、昆虫について考えてみます。今現在もアマゾンの密林では新しい種類の昆虫が生まれており、その一方でそういった新しい種の昆虫たちも私たちに知られることなく知らぬ間に絶滅しているものもあるそうです。進化というと試行錯誤のすえの完成への道というようなイメージを持っている人もいるかもしれませんが、実際は、むしろ、ランダムにいろいろなタイプの生命形態をこの世に送り出して、その中からうまく生き残ったものだけが環境に適応した生物だったという方が近いのではないでしょうか。つまり、結果として、生き残った生物は環境に適応した合理的な生物であって、絶滅した生物は残念ながら環境に適応できなかった不合理な生物ということになるのではないでしょうか。つまり、あくまで結果論なのです。生命全体として見れば、進化は生き残りをかけた試行錯誤の連続です。合理・不合理に関わらず生命は多様な形態をとってこの世に生まれてきます。失敗も含めて多様な生命を生み出す原理は一体何でしょうか?実はそれこそ生まれいづる可能性の濃さ、潜在性の濃度というべき強度ではないでしょうか?

ドゥルーズは強度について「質・量以前の即自的差異」と言っています。強度は質以前・量以前の差異であり、即自的な差異であるというのです。強度は質や量など実在の測定は不可能なのです。逆に言えば、強度は非実在の空間で考えねばなりません。その異次元の中で、即自的ですので一種のエネルギー場を想定し、その中で濃度が高くなるところが生命が生まれる可能性の高いところではないでしょうか。イメージすると下図のようなエネルギー場を考えて、色の濃い点、濃度の高い箇所が生命が生まれいづる可能性の高い点と言えるのではないでしょうか。(下図でいえば、赤色の濃い部分です。)














このように考えると強度とは非実在空間における潜在性の濃度ということができるのではないでしょうか。(ところで、濃度に濃淡があるイメージは数直線で無限の濃度について考えてみると分かりやすいかもしれません。連続体仮説に従えば、数直線には無限の濃度の濃淡があります。)


(6)人工生命としての概念
さて、差異、反復、イデア、非実在論、そして、強度とドゥルーズの諸概念についてようやく説明し終わりました。ここからはオマケの話です。ここまで生命を補助線に話をしてきました。ここからは脳の世界について少しだけ考えてみます。というのも脳の生み出す世界も実は生命の世界にとてもよく似ているからです。多くの方が「えっ!どういうことですか?」と意外に思われるかもしれません。そこで分かりやすい例としてSF作家グレッグ・イーガンの小説『ディアスポラ』の一節「ワンの絨毯」を取り上げます。「ワンの絨毯」ではある惑星に原生生物がいるのですが、その原生生物の体は一種の電子回路のような構造になっており、その電子回路にはソフトウェアが存在しているというのです。そして、そのソフトウェアは一種の生命世界を形成しており、そこには多様な生命の生態系があり、生物が棲息する世界が繰り広げられているというのです。いわば人工生命の超高度版といったところでしょうか。この話をドゥルーズに結びつけると、ドゥルーズの著書『哲学とは何か』でドゥルーズは哲学とは概念を制作することだと言っています。ドゥルーズのいう概念は上記で述べてきた生命ととてもよく似ていると思うのです。そして、もしその概念がひとり歩きするようになれば、この「ワンの絨毯」の人工生命のような存在になるのではないかと思えるのです。つまり、概念イコール人工生命ではないかと思うのです。もっと飛躍して言えば、「ワンの絨毯」の原生生物がソフトウェアの生命世界を作るように、人間は大脳で概念という人工生命を作り出しているのではないかと思うのです。ただ、まあ、概念が自らの意思をもって一人歩きすることはないのでちょっと違いますが・・・。ただ、大脳というものが3次元空間にフラクタルに展開する神経細胞なのだとしたら、フラクタル次元として3次元をわずかに超えるかもしれず、そこから異次元が流入して、概念が一人歩きすることがあるかもしれませんね。例えば、ミュージシャンが作曲のときに「降りてくる」とか言いますからね(笑)。あるいは、自動筆記とか(笑)。話がオカルトめいてきたので、この話はこの辺りで止めておきます。ただ、この脳や生命世界の話はドゥルーズ=ガタリ最後の著書『哲学とは何か』の最終章に深く関わってくる話です。


さてさて、今回はドゥルーズの主要な諸概念を説明するために「生命には魂がある」という、ややオカルティックな前提条件で話を進めてしまいました。しかし、複素平面に置き換えて分かりやすくするというラプラス変換的な思考法としてご容赦下さい。また、実際、生命についてはまだまだ分からないことが多くあります。iPS細胞の研究で山中教授がノーベル賞をとって世間は騒いでいますが、まだまだ生命については謎が多いです。物理学的な観点からは生命はまだ説明できていません。ですので、推測がオカルト的だからといって否定するのではなく、あらゆる可能性を否定せずにその可能性を追求するという態度が大切ではないでしょうか。そういった中から創造的進化を遂げる概念も生まれてくるかもしれませんからね。もちろん、絶滅する概念もありますが(笑)。(誤解を招かないように言っておくと、ドゥルーズは生き残る生物だけでなく絶滅する生物も含めて生まれてくることが可能な生命を尊重したのだと思います。合理・不合理に関係なく、強度の高まるところリゾームのより集まったところに生まれいづる生命を愛でたのだと思います。)