2010年5月23日日曜日

普天間問題その3

憎むべきは米国ではないでしょうか?世論は5月末決着ではなく先送りに傾いていたけど、鳩山首相は5月末決着にこだわった。おそらく、米国と約束していたのではないか。なぜなら、日米合意のテンポが早い。問題はなぜ米国に主導権を握られるのか。弱みでもあるのか?

問題点を日本政府に押しつけるのでは、今までと同じ。問題点をオープンにすべきでは?すなわち、「なぜ、日本はこうも米国の言いなりにならないといけないのか?」庶民感覚で言えば(笑)、「米国の責任者、出てこい!」と言いたくなる。まあ、米国としては日本国内のことは政府と国民でやるのが筋だが。

まあ、結局、日米安保に行き着くのだろうけど・・・。ただ、どうも、日本がこうも簡単に米国の言いなりになるのは何か強力な弱味を握られているのだろうかと思いたくなる。ただし、陰謀論的な不明確な憶測で済ませるのではなく、明確な理由としてはっきりとオープンにすべきではないかと思う。

米国は良い面もあれば悪い面もある。学ぶべき面もあるし、逆に軽蔑すべき面もある。一概にどちらか一方だとは言えない。だが、基地の件については、米国はあまりに傲慢に過ぎる。米国にとって、日本の米軍基地はアジアの戦略拠点という位置づけであって、真の意味で日本を守るというものではない。

最近の東アジア情勢はどうもキナ臭い。米国がオバマ政権の間は東アジアでの紛争はないだろうが、その後の米政権(おそらく共和党政権になると思うが)では、東アジアで紛争が起こるかもしれない。今はその下準備中という感じがしないでもない。米ソ冷戦のように、今度は米中冷戦の代理戦争があるかも。

米国のやり方も強引だが、それでも建前があったと思う。だが、今の中国のやり方は前近代的な大国が小国を圧迫するようなやり方ではないだろうか。中国はあちこちで小国を圧迫している。そこには建前はなく、力のゴリ押しだ。そして、中国はますます強くなっている。いつかは超大国同士が衝突するだろう

「米国と中国のどちらかを選べ」という究極の選択かもしれない(笑)。もっとも中国の巨大資本に日本は内側から支配されるかもしれないが。いずれにしろ、日本経済の復活はありえないだろう。日本は縮退して小国化すると思うが、そのとき、荒廃した国土しか残ってなければ、目も当てられない。

沖縄の基地移転もどこも喜んで受け入れるところはないだろう。米国も日本国内以外のテニアンは受け入れないだろう。もし、移転するなら、政府は候補地を3つほど上げて、国民の同意をうかがうという方法もあった。政府がどれか1つを決めれば角が立つが、候補地3つから国民に選ばせば良かった。

3つの候補地はうちに来ては困るというアピールを国民にすることになっただろう。候補地を選んだ責任は国民自身ということになる。自らは責任を負おうとしない国民や先送りにする政府はどちらもどちらではないのか?そうなれば、じゃあ、何が一番問題なのかとなれば、米国だということに気づく。

また、米国内でテニアンを奨めるロビイストはオバマ政権の足を引っ張りたい共和党支持者だろう。オバマの支配力が問われており、日本も米国に反抗したとなれば、オバマ政権はますます支持率が下がるからだ。まあ、日本がそれを利用するのは自由だが。

いずれにしろ、沖縄の米軍基地は矛先を日本政府に向けるのではなく、米国に向けるべきだろう。ただ、中国の脅威もあるが、所詮、例のガス田での敗北が象徴しているように日本は勝てない。だったら、基地はあっても無意味ゆえ、基地は要らない。なぜ、米国の世界戦略のために基地を置く必要があろうか。

先のツイート、「沖縄の米軍基地は矛先を」→「沖縄の米軍基地問題の矛先」っていう意味。

ただし、日本は本土はともかく国境付近や航行において不利を強いられることになるだろう。まあ、侵略されるってことはないけど、資源や交通が脅かされる可能性は高い。でも、それよりも中国資本によって日本企業が買い占めされて、内側から支配されることの方が問題なのではないだろうか。

ただし、それは別に中国のルール違反ではなく、自由競争の結果であって、強者が弱者を駆逐する資本主義の自然な成り行きで、何も中国を非難するには当たらないだろう。おごれる者は久しからず、というものだろう。

中国がもっと民主化すればいいのだが、中国の中央政府のやり方はそうじゃない。徐々に民度が上がればいいが、国家の中枢が「検閲を是」とするようなナショナリズムでは、いずれその歪みは国民へと伝播して、弱者へとしわ寄せが押し付けられると思う。中国が超大国になるとき、弱者になるのは日本だ。

中国との市民レベルの交流では民主化されているように感じても、いざ、国権が発動されるとき、果たしてどのくらい民主化されているかは疑問だ。果たして、自由を守るために戦えるだろうか?その辺りは欧米の市民は自由を守るための意思は強い。アジアは自ら勝ち取るという感覚が少ないのではないか?

2010年5月18日火曜日

ネオアカの経緯

ちょっと、ここで『雑誌ネオアカ』の経緯というか背景について、若干、説明させていただきます。

雑誌ネオアカはネット上での出会いがきっかけで発行されました。出会った場所は2ちゃんねるの哲学板でした。ネオアカの理念や使命についてはhttp://www.neoaca.com/abouthttp://www.neoaca.com/mission1を参照して下さい。

それで、出会った場所が哲学板であったので、自然とネオアカ初号の対象読者層は、最初から特に強く意識したわけではなく、ちょっと無意識的なんですけど、哲学板を想定したものになってしまいました。ただ、サイトを公開して3週間くらい経過しましたが、哲学板でのネオアカに対する反応はほぼ皆無に近い状態です(笑)。この点は大いに反省しなければなりませんね。何が悪かったのか?(←「全部!」という声が聞こえてきそうですが(笑))公開する前は、あまり長文は避けようと考えていました。というのも、普段でも長文のレスは嫌われるので、できるだけ短くしないと哲学板の読者は読んでくれないと考えたからです。ですので、文章をできるだけ短くしようと努力することにしました。でも、なかなかうまくできませんでした。ただ、ネオアカが読まれなかった原因はもう1つあると考えていて、それは哲学板のユーザがツイッターに移行してしまって減少したからではないかと考えています。実際、ネオアカの登場に関係なく、哲学板のレス数は極端に減少したと思います。

ところで、話は変わりますが、広い意味で、ネオアカには「知の探求」や「世界を良くしよう」という目的があります。これは、別に、ネオアカに限らず、知を研究されていている方々は、みなさん、同じだと思います。中国武術の世界に「武林是一家」という言葉があるのですが、この意味は少林拳や蟷螂拳など武術を学ぶ流派はそれぞれ違っても、「切磋琢磨して強くなろう」という目的は、皆、同じなので、たとえ流派が違っても武術家同士は、皆、家族のように仲良しだ、仲良くしようという考えです。私は知の世界も、この武林是一家と同じで、目的は「知の探求」や「世界を良くしよう」という目的は同じなのだから、知林是一家ではないですが、皆、仲良くして、互いに切磋琢磨したり、助け合ったりできるものだと考えています。とはいえ、武術の世界でも他流派との諍いは多いのも事実です。何かと言うと互いの武勇を競って「どちらが強いのか?」などと喧嘩のような試合をしたりします。そういう喧嘩は良くないと私は思います。ですが、切磋琢磨する意味で試合というのも無益ではないと思います。そういう意味での試合なら向上のために良いと思います。知の世界においても、批判というのは互いの向上に役立つものだと思います。とはいえ、批判されて学ぶことも多い一方で、人間は感情を持っていますから、不愉快なことも多いと思います。武術では、「礼に始まり、礼に終わる」ようにして、試合に遺恨を残さないようにします。試合中は一生懸命戦うけれど、試合が終わったらオフサイドの精神で互いに向上に努める学友同士といったところです。ですから、批判において手抜きするのは試合で手抜きするようなもので相手に失礼かもしれません。しかし、いったん、試合が終わったら、試合のことは、全部、水に流して、互いの健闘を称えるものだと思っています。ここで、最初の2ちゃんねる哲学板の話に戻りますが、本来なら、ネオアカの記事で批評さえていただいた方々に礼を言うのが礼儀だと考えていたのです。

ですが、2ちゃんのユーザを対象読者層に想定してしまったために、感謝の言葉を早々に言ってしまうと、プロレス的というか、祭的というか、そういう盛り上がりに欠けてしまうのではないかと愚考してしまいました。そういう理由もあって、実は最初に、批評させていただいた方への感謝の言葉を挿入する予定だったものを編集の段階でいったん削ることにしました。そこで、ここで改めて、お礼を申し上げさせていただきます。東浩紀さん、斉藤環さん、宮台真司さん、酒井泰斗さん、本当にありがとうございました!!!

それから、私の書いたレビューで引用させていただいたiwatamさんは、私が勝手に引用させていただいただけですので、特に私どもと関係あるわけではありません。iwatamさんのサイトで公開されてい文書がフリーでしたので引用させていただいた経緯もあります。一応、iwatamさんには引用させていただく件に関してはご本人に連絡させていただきました。iwatamさんからはフリーなので自由に使っていい旨のお話をいただいています。ただ、私の解釈が間違っているかもしれませんので、iwatamさんのサイトを合わせて読まれることをお奨めします。

iwatamさんのサイト『ネット世代の心の闇を探る』
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/kokoro/index.html

iwatamさんを引用した記事レビュー『神話が考える』
http://www.neoaca.com/review

以上、とりあえず、思いつくままに書いてみました。ちょっと長くなってしまって申し訳ありませんでした。

福嶋亮大×浅田彰「『神話が考える』をめぐって」

昨日、京都造形大で福嶋亮大さんの『神話が考える』の講演があり、浅田彰さんとも対談されたようです。

右のURLはまとめ記事です。 http://togetter.com/li/21816

これを元に少し感想を述べてみます。

『神話が考える』では事実性や近接性を出すために、作品においていろいろな工夫がされているのですが、それは置いといて(笑)、まず、「事実性」は「事実らしさ」であって「事実」ではないということは注意しなければいけないと思います。それが分かっているという前提でちょっと話します。

浅田彰が「クールな学会発表にしたい」と言って「モダニズムのクールさにこだわりたい」と言ったのは、この『神話が考える』に対するひとつの浅田のスタンスとして意味があると思います。要は、例の4象限の図ですが、浅田はモダンの側に立つということを言っているのだと思います。浅田がこの4象限図を見て、エリート主義的な設計といったのは、極端に言えば、「エリートが愚民をコントロールする」といった類の考えをこの4象限から嗅ぎとったからだと思います。これは、極端に喩えれば、建国神話で大衆をコントロールするといったものでしょうか。『精霊の守り人』みたいな。そういう見方をすれば、福嶋の小さな神話が人々に意味を与えるというのも、建国神話がある昔から行われていたと言えると思います。でも、ヘロドトスから始まる歴史は神話のようなフィクションではなく、事実に基づいた史実を残そうとしたので、今から神話に向かうのは逆行ではないかと思います。

また、福嶋は本の中でリベラル民主主義が唯一の社会体制であることを前提としていますが、果たして本当にそうなのかという疑問もあります。実際、多くの異なる社会体制が世界にはあるわけですし、リベラル民主主義も今後私たちが思っているようなものとは違ったものになる可能性もあると思います。その福嶋の大前提に疑義を呈したのが、浅田の最後の発言「歴史が終わったのか、ポモは正しいのかとガチでやるべきだったのかもしれない」という言葉だと思います。そんなこと、浅田彰に言われたら、ビビっちゃいますよね(笑)。

神話と歴史をフィクションとノンフィクションと見れば、真正性が浮かび上がってきます。昨今の「アウシュビッツや南京事件は無かった」とする一部の見方なども関わってくるのではと思います。『神話が考える』とレヴィ=ストロース繋がりですが、小田亮さんが真正性について語っていたと思います。

小田亮さんのサイト→http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/index.html

印象に残った言葉としては福嶋の「半分穴が空いている現実」や「半現実」という言葉。これについては拙論http://www.neoaca.com/reviewを参照していただければと思います。また、浅田の「世界が悪い場所になっている」という言葉。確かにそうで、看過できないと思いつつもどうにも出来ないという難しさがあります。

2010年5月8日土曜日

オタクの話

確かに「純文学は真面目に考え、アニメは最初から真面目に考えようとしない」というのはあります。私もガンダムを題材にガンダムオタクの人に真面目な話をしたら、「たかがガンダムにそんな意味をくみ取るなんて」と呆れられてしまった経験がありますね。

その人は私より詳しくガンダムを知っているのに「じゃあ、あなたはそんな他愛も無いガンダムに夢中になっているのはムダではないの?他愛も無いと思われていることにも、実は大切な意味があるから、世間から他愛もないと見なされているものでも自分は一生懸命取り組むんじゃないの?」と思ったのですが

ところで、その人はガンダムオタクだったけど、一方でミリタリーマニアでした。もともと、『ガンダム』は富野由悠季がハインラインの『宇宙の戦士』(←端的に言えば保守系)を批判的に捉えて創作したはずのものでした。それなのに、結果的には、『ガンダム』は保守系の作品として捉えられるという皮肉

なので、「小説は真面目に、アニメは遊び半分で」という批評を看過していると、先のような歪められた形で通ってしまう。まあ、物語の解釈は人それぞれなので、それも仕方ないことではあるのですが・・・。でも、「そうじゃないんだよ」という情報も必要だと思います。

ただし、オタク的なものが逆流するのはどうかとは思います。オタク的なものがそれまでの伝統文化を破壊するのってあります。ただ、生命の進化と一緒でそれも自然淘汰なのかもしれませんが、でも、やはり、年寄りの自分としては(笑)、ひと言、言いたくなります(笑)。歳取るのって嫌ですね。

そういう意味では「生物の絶滅を防ぐ」という行為は進化論に反した行為かもしれません。実際、昆虫の世界ではどんどん新しい種が生まれては消えていっているとか。未だに知られていない種類の昆虫がたくさんジャングルにはいるらしいし。

話を戻すと「アニメを正当に評価しない」という日本の体質は昔からあって、例えば、浮世絵とかもそうじゃないかと思います。西洋で芸術として高く評価されたから、逆に浮世絵の芸術性が日本でも認められたわけで、西洋で認められていなければ、単なる好事家の枕絵になっていたかもしれません。

今でも日本の浮世絵収集家、あ、春画収集家と言った方がいいのかも、は、江戸時代からのオタクの系譜といっていいのかもしれません。そうなると「アニメを正当に評価しない」という日本の体質は伝統文化なのかもしれません(笑I)。あ!それじゃあ、いけない!

それと『宇宙の戦士』の映画版『スターシップ・トゥルパーズ』も原作の『宇宙の戦士』を批判的に捉えて、皮肉った内容になっているのですが、これが映画を見た人には皮肉と気づかない人がけっこういました。先に言ったガンダムオタクの人もその一人でした。「どこが皮肉なの?」と真顔で聞かれて吃驚

思わず絶句したのですが、いざ、説明しようとした私も「あれ?あれって皮肉じゃあなかったのかしら?」と自分に自信が持てなくなってしまいました(笑)。案外、あれを作ったアメリカ人の方が平和な考えをしているのかもしれません。ちょっと悩んでしまいました。

なので、個人や市民、国や政府は分けて考えないといけないと思います。ただ、いざとなったら、普段は善い人なのに悪いことをしちゃうという場合もあります。普段は虫も殺せぬ優しい人なのに、いざ、戦争に行くと一生懸命働いちゃう感じだと思います。

なので、個人レベルの思考と国レベルの思考など様々な階層があるのだと思います。なので、私は中国を批判してますが、それは国レベルであって個人レベルではありません。個人は別だと思います。国レベルの話は拙論『日本の未来戦略』参照http://www.neoaca.com/critique

GoogleVoiceについて

グーグルのサービス「Goggles」は画像内のテキストを翻訳できるらしい。翻訳したい画像の文字をキャプチャして翻訳するらしい。そういえば、YouTubeでもキャプションを翻訳するサービスがあったような気がする。キャプチャとキャプションは微妙に違うかな・・・。

また、グーグルは街を丸ごと超高速のブロードバンドにする事業もやっている。電話もテレビも情報のラインはこれ1本で済むということなのだろうか。が、それもあるが、電話をタダにする話もあったように思う。グーグルボイスだ。

電話といえばスカイプがあったと思うが、グーグルボイスはもっと凄いらしい(笑)。←ありがちな言い方だなあ。ともかく、最大の特徴は意味を理解してくれるようになるだろうことだ。もし、意味を理解してくれるようになったら、本当に凄いと思う。←また、ありがちな表現をしてしまった。

コマンド入力が音声入力に変わる、なんてことじゃない。おそらく、同時翻訳が可能になるのではないだろうか。それが実現すると凄いと思う。人と人を隔てるものに、言葉の壁がある。つまり、言語の違いだ。もし、グーグルが自動で自然な同時通訳が可能になれば、意思の疎通が今よりも遥かに容易になる。

それはすなわち国境の壁を崩すことに成功するということではないだろうか?国と国がいがみ合うとき、相手のことをよく知らないことが大きな原因のひとつだと思う。自動同時通訳で異なる言語でも簡単にコミュニケーションが可能になれば、ともかくお互いをよく知ることが可能になる。

そして、ネットがあるから、距離の隔たりは関係なくなっている。つまり、本当に容易に外国人とコミュニケーションが可能になる。昔、エスペラント語、世界共通言語を作って異なる言語同士でもコミュニケーションを図りやすくしようという運動があった。ちなみに、考えた人はポーランド人医師だ。

だが、グーグルが自動同時通訳を作れば、エスペラントは要らなくなる。それに人々は自分の母国語を守ることも可能になる。いくら便利にするためとはいえ、世界の言語を1つの同じものにするわけにはいかないだろう。自分たちの文化もあるのだし。それらを守ることがグーグルの同時通訳なら可能になる。

グーグルボイスが意味をつかみ出すために、どうやら大量にデジタル化したグーグルブックスのデータが役立つらしい。なるほど、あれだけ大量のテキストデータがあれば、意味を取り出すことに役立てられるのかもしれない。意味ほど難しいものはないのに、グーグルはそれを可能にしてしまうかもしれない。

ところで、グーグルはアメリカから生まれた。そのアメリカは見方を変えれば亡命者の国だ。皆、自分の故郷の国を喪失して、自分の暮らす新たな国としてアメリカにやってきた。以前の国への反省からアメリカは世界に先駆けて良い国であろうとする国といえるかもしれない。世界の国の中で最も新しい国だ。

アメリカは国という組織形態の中で過去の伝統を引きずらない新しさを取り入れられる国だ。だが、国という組織形態に縛られていることは他の国と変わりはない。国という組織の限界だ。そこにグーグルとう新しい組織形態が芽吹いた。

グーグルはほどんどネットそのものになろうとしている。グーグルパブリックDNSもそのひとつの表れではないだろうか。そして、ネットには国境はない。アメリカから芽吹いたグーグルはその根をネットに沿って広げ、グーグルは世界を包み込んで、グーグルは世界中に存在しようとしている。

グーグルの自動通訳によって国境の壁は消え、国家の違いも形骸化するかもしれない。もちろん、国はそれぞれ、その国独自の国家体制・社会体制を敷けばいい。だが、そこに住まう人でその体制が気に入らなければ、移動すれば良くなるのではないか。実際、二重国籍はどんどん増えている。

21世紀において、国家に代わる新しい組織形態としてグーグルが生まれたのではないか。21世紀の人類社会では、国家は存在するが、人々は国家を選択可能になるのではないか。そうなれば、国民を抑圧するような国家権力は半ば無効化されるのではないだろうか。

そんなグーグルが巨大な国家権力である中国と衝突したのは必然だと言える。グーグル対中国。そして、その間に挟まれている日本。日本の未来はどこにあるのだろう?拙論『日本の未来戦略』を参照していただきたい!(笑)←手前味噌だなあhttp://www.neoaca.com/critique