2010年5月2日日曜日

東浩紀『一般意志2.0(5月号)』(『本』連載)を読む

講談社の情報誌『本』に連載の東浩紀「一般意志2.0」の5月号分を読んだ。面白かった。同時に危うい話ではある。しかし、グーグルの可能性(恩恵とリスク)を考えると、このような試論も決して悪いものではないと思った。ただし、やはり、このような思想は危険には違いないので注意して読みたい。

危ういと感じる根源は、おそらく、東浩紀の人間観にあるのだと思う。極論すれば、「オタクがオタクのままでいられる社会システムを作る」というのが「人間が未成熟なままでいい」と受け取られるからだと思う。そして、「そういった未成熟な人間=動物を管理・支配する」というのが環境管理に思える。
 
私としては「可能な限り成長を促す」方向でありたいと思う。一方、東は「実際には成長できない動物がいるのだから、そういった動物でも快適に暮らせる社会を作る方が現実的ではないか」という理屈かもしれない。それには一理あるが、それを全面に出すと動物化を助長する恐れがあると思う。

だから、まずは可能な限り成長を促すように努力すべきだと思う。話は変わるが、ネットの出現で人間や社会は大きく変わろうとしている。私たちは歴史の転換点に立っている。動物化もその変化の1つだと思う。

「一般意志2.0」の中で東浩紀がネット(orグーグル)によって一般意志が実現可能になったと言っていた。一方、私も拙論「日本の未来戦略」の中でグーグルによってアナーキズムが実現可能になったと言った。(http://www.neoaca.com/critique)

面白いことにグーグルによって、今まで実現が不可能だと考えられていた近代思想の幾つかが再び甦る可能性が出てきている。グーグルを普通の企業と区別すべきではないかと考える証左の1つではないかと思う。同時にマイクロソフトに次いでアップルまでも囲い込み戦略になりつつある。初志は何処へ。

余談だが、ちなみに、東浩紀の「一般意志2.0」と対をなすように、私は「特殊意志2.0」を提唱している(笑)。詳しくは、以下のネオアカのホームページを見てほしい。http://www.neoaca.com/about

もう少し言うと、一般意志2.0が数学的存在なら、特殊意志2.0は量子的存在だ。『攻殻機動隊S.A.C.2nd』に「個別の11人」というのが出てくるが、あれに近いものかもしれない。特殊意志2.0は個別の自由意志の集合だからだ。http://www.neoaca.com/about

ミドルセックス大学哲学科の件

話は違うがミドルセックス大学哲学科の件。経済的余裕があるのであれば、残した方が良いと思う。だが、財政難でどうしても避けられないのだとしたら、どこか学部を取り壊すしかないのだろう。そのとき、どの学部を潰すのか・・・

ミドルセックス大学にどういった学部があるのか知らないが、哲学科よりは神学部を潰した方が良いように、医学部よりは哲学科を潰す方が良いと、普通は考えてしまう。やはり、社会にとって貢献できる学部を残すべきだとは思う。また、需要がある所が残るだろう。哲学科に学生が集まっているのだろうか?

だから、どこを潰して、どこを残すかをよく話し合わねばならないと思う。そのとき、相対評価が重要になってくると思う。なぜなら、どこかを潰さなければ成り立たないという台所事情があるだろうからだ。だから、あまり事情を知らない部外者が興味本位で意見するのはちょっと気がひける。

また、本当に潰さない努力をしたかどうかもある。全職員の給料を下げるという方法もあるだろう。ただ、哲学科を嫌いだから狙い撃ちしたというわけではあるまい。文学部なんて名前を変えるか潰されるかは、とっくの昔に終わっているかと思っていた。

ともかく、このように大学から人文系の知がどんどん追い出されるのは目に見えているし、また、学生も人文系を学ぼうとは思わないだろう。嫌いだからではなくて、社会に出たときに専門的に役立たないからだ。それは仕方ないだろう。だから、ある程度、大学から退去させられても仕方ないと思う。

だからといって、知が断絶してしまってもいいというわけではない。確かに大学から追われれば、学問のクオリティは下がるだろう。でも、市井でも何とか、知が生き残る道はあると思うし、探さねばならないと思う。

椹木野衣の書評『神話社会学』を読んで

それから、椹木野衣による『神話が考える』の書評を読んだ。あ、村上裕一の書評も読んだ。やはり、書評し辛いと思う。1つは難解なんだが、単に難解なだけじゃなくて分かりづらいんじゃないかと思う。

ある意味、ニューアカの功罪の1つかもしれない。一般論として、昨今のこの手の論文はどうも引用過多じゃないだろうか?とはいえ、それはニューアカに罪があるのではなくて、昨今のが無茶な引用が多いと思える。いや、まあ、私の不勉強な所為かもしれないのだが・・・。

それと『神話が考える』に絞って言えば、連載時の『神話社会学』で扱っていた問題系がすっぽり抜け落ちているためではないかと思う。いや、記述しているが、私が理解できない所為かもしれない(爆)←言い訳すると実はつい先日買ってきて、読み始めたばかりなのだ。

1つ前のツイートで言っている問題系とは、『神話が考える』の第1章「ポストモダンの公私」のことを言っていて、それは最後の「おわりに」でその解決案が示されていると思うんだけど、ちょっとこれが私には分かりづらい。連載されていた『神話社会学』の方が分かりやすかったと勝手に思っている。

一応、断っておくと、これは著者が悪いのではなくて、私の勉強不足に由来している。この辺りのことをよく知らないのだが、ただし、「じゃあ、知っている人はあれで分かったのだろうか?」という疑問も実は少しある。もう少し、内容に踏み込んだ書評を誰か書いてくれないかと思う。

そういえば、浅田彰がAAAの紹介で「神話社会学的な構造分析」と書いていた。ちゃんと「神話社会学」と書いていたので、連載時から読んでいたのかもしれない。だったら、浅田彰に書いてもらいたいものだと思う。そうすれば、本を読むより、分かり易いかもしれない(爆)だが、その逆もありうる(恐)

ところで、構造社会学は便利な言葉だと思う。後藤和智氏など数値化を求める人たちに対して有効だし、実際、改めて自分たちがやっている分析が構造分析だということに気づかされたと思う。←大げさに言えば。それに「この分析は神話社会学です」というのは憚られるが、「構造社会学です」なら言い易い。

2010年5月1日土曜日

坂上秋成『文芸時評5月号』(週刊読書人)を読む

週刊読書人連載の坂上秋成の文芸時評(5月)を読んだ。以下、その感想を書こうと思います。


1.私小説からブログへ
まず、坂上が言うにはネットの普及で<私>の社会的機能が低下したそうで、私小説という技法が通用しなくなってきたらしい。ネットの不特定多数の刹那的なコミュニケーションによって<私>がかき消され、匿名的集団的な声に圧倒されるという趣旨らしい。坂上のいうネットって、ツイッターや2ちゃんのことではないだろうか?私は別の意味で確かにネットの普及によって私小説は難しくなったとは思う。それは何かと言うとブログだ。例えば、性的マイノリティたちのブログは大きな社会的反響を呼び、彼らの社会的な認知度を高めたと思う。ブログには彼らの内面が吐露されている。ブログは日本では日記として扱われることが多い。日記はれっきとした私小説のひとつと言えると思う。ブログにああも細かく個人の内面を吐露してしまっては、わざわざ文芸誌の私小説を買うのももったいなく感じてしまう人もいると思う。日本での初期のブログの普及はそれこそ、そういった私小説的な読み、ちょっとエキセントリックな個人のプライベートを読む楽しみではなかったか?そういう意味で私小説としてはブログに大きく侵食されたと思う。ところで、日記文学の伝統というのがある。古くは土佐日記や更級日記、近代でも永井荷風の『断腸亭日乗』や石川啄木の『ローマ字日記』がある。中には自宅と愛人宅で別々に日記を書いていた文人もいる(笑)。しかし、考えてみれば、日記は誰にも見せられない内面の吐露だったのに、今ではブログとして世界中に公開しているのだから、世の中も変わったものだ。<私>というものの概念が変わりはじめたのかもしれないが、でも、たぶん、今のところ、そうではないと思う。

2.私の埋没と精神構造の変化?
坂上秋成の文芸時評に戻ろう。文章の構成はよく整理されて読みやすくなったと感じた。ただ、取り上げている作品が、まあ、順当なのかもしれないが、意外性がなく、若いのにどこか先達に媚びているように感じられなくもなかった。いや、まあ、単に作品が良かったのかもしれないから、これは分からない。ただ、最後の結びに関しては疑問に感じる。「<私>の内面そのものが時代遅れの概念として処理されるのみ」とあるが、ちょっと「?」である。いや、その前の文章から疑問なのだが。どうも、よく分からないが、大勢の声に自分の声が埋もれることによって、私が埋没してしまうことを言っているのかもしれない。話は変わるが、ツイッターの使い方は日本人も外国人(米国人)も同じなのだろうか?例えば、フォローしている人物の人数などは日本人も外人も同じだろうか?実は日本人はフォローしている人数が異様に多いのではないかと感じることがある。実際に統計を取ったわけではないから実際の所は分からないが。以前、富野由悠季が「今どきの若者は友人の数が多過ぎる」といって「そんなのは友人とは言わない!」と怒っていたことがあった。同じ志を持つ親友は本当は得難いものだ。再び話は変わるが、以前、TVのインタビューで「茶髪にすることによって自分が軽くなる」といっていた一般人がいた。「ああ、なるほど」と当時は思った。今、もし、大勢の声に埋没する自分を感じていて、そこに自分が消えていくように感じているのだとしたら、それはその茶髪の軽さと似ていると思う。いや、似ているのではないかと思う。もちろん、それとは違う面もあるかもしれない。だが、おおむね、似たような方向にあるのではないだろうか。そうそう思い出した。昔見た大人と若者の対話番組で特徴的だったのが、大人は「俺はこう思う」と力説しているのに対して、若者は「普通はこう思う」と言っていた。何が言いたいかというと、案外、大人の方が自己主張があって、若者の方が波風を立てない当たり障りのない普通を目指していたことだった。世代論的には団塊の世代は大勢の中で目立つためには自己主張が強くなったという論もあるだろうけど、それでも若者にどこか窮屈さを感じたのもあった。話がとんでもなくズレてしまった。ともかく、ネットの大勢の声も金太郎飴の如く、割と誰も同じに感じられることがある。←あ、若者の場合ね。言ってみれば、無個性に感じられる。いや、別に「無理して個性的にしろ」というつもりはない。ただ、それでも規格のように、皆、同じに感じてしまう。ある意味、教育の成果なのかもしれない。よく分からないのだが、「今どきの若者は孤独だなあ」と感じるときがある。だが、その一方で「今どきの若者は孤独に対する耐性が無いなあ」と感じるときもある。心の構造自体は今も昔も変わっていないだろう。でも、何か変わったんだろうなと感じるときがある。携帯やネットが普及し始めたときに、それは感じていた。何かがそっちの方へ流れ込み始めたと。不思議な言い方になるが、ネットに繋がることによって人は孤独ではなくなったんだが、彼らの心の内はずっと孤独になったと感じる。ATフィールドの範囲とか周波数とか色調とかが変わったんじゃないかと(笑)いや、まあ、男っていうのは戦って強くなるから、本当は戦わなくちゃいけないんだが、今の若者はどうもそれをスルーできてしまう仕組みがあって、結局、個として強くならないんじゃないだろうか?ただし、女性は違って、女性は日常生活で強くなる。そのため男よりも大人だったりする。だんだん、話が逸れてしまった・・・。ともかく、「時代遅れの<私>がネットの出現で、最新の<私>にアップデートされて良くなった」とは思えない。むしろ、その逆だ。だから、変わったのだとしても、あまり好ましくない方向に変わったと思う。そういう意味で坂上の結びの言葉には疑問を差し挟むこととする。

3.文学脳とSF的感性
ついでに、坂上のITツールに関する感性はやはり文学脳ではないかと感じる。いや、実生活ではITツールも今どきの若者よろしく器用に使いこなしているんじゃないかと思うのだが、いざ、文章にすると、文学部的な言葉の雰囲気に引っ張られて、文学脳的なITツールの捉え方になってしまうのだと思う。でも、それではSF文学をポジティブに評するには、SF的、理系的感性に欠けていると言わざるをえないだろう。それでは、まともにSFを論じることができないのではないか?支障をきたすのではないか?ITツールの延長にドラえもんや鉄腕アトムを考えてみればいい。ドラえもんや鉄腕アトムに「君たちは非人間だ。機械に過ぎない」と面と向かっていえるだろうか(笑)←いや、ちょっと悪ふざけが過ぎるか。ともかく、「道具はお友達」や「道具は手足の延長」くらいに考えた方がいい。神話にだって、そのとき、登場した新しい道具をけっこう大切に描いている。もっと、ポジティブになれないだろうか。もちろん、全肯定しろというわけではない。だが、どうも・・・。コホン。この辺でやめておこう。ちょっとまとめたかったが、ダラダラと書き流しすぎた。あ、それと坂上のいうネットは日本の中だけのネットに過ぎない。日本のネット文化は他国と比べてちょっと特殊だということを頭の片隅に置いておいた方がいいと思う。まあ、アジア圏は日本に似ているのかもしれないが。

とまあ、そんなわけで坂上秋成の書いた文芸時評でこんなにたくさんツイートしてしまった。きっと坂上君の時評が私をインスパイアしてくれたのだろう。そういう意味では有意義な時評であったと思う。感謝である。

2010年4月29日木曜日

東浩紀『論壇時評4月号』(朝日新聞)を読む

朝日新聞に東浩紀さんの論壇時評が掲載されていたので、それについて、思いついたまま、少し感想を書いてみます。

1.用語について
まず、驚いたのは「ポインタ」という用語。これはプログラミング用語で「指し示すもの」を意味する。プログラマーならすぐに感覚的に体感的に理解できるのかもしれないけれど、一般読者にはどこまで伝わるか微妙だと思う。でも、新鮮かつ斬新で良かったし、たぶん、的確な表現だと思います。
 
2.そらのさんについて
それから驚いたのは、そらのさんを紹介していたこと。そらのさんをどう位置づけるかはちょっと難しいところがあると思います。そらのさんって、ジャーナリストではないと思う。現場をのぞきにいくけど、当事者意識もないし、批判精神もない。まるで、夕飯の買い物の途中で事件現場をたまたま通りかかったやじ馬に似ている。あるいは、そらのさんはアーティストという位置づけが正しいのだろうか?でも、それって現場で一生懸命議論している人たちを遠巻きから見て「まあ、なんて口角泡を飛ばしてムダに一生懸命なのかしら。オホホホ」的な非当事者意識に感じられる。それがアートというなら、まあ、ギリギリ許せるんだけど、しかし、アートというにはエッジがはっきりしていないと思う。グレーな立ち位置にいる。首を突っ込めるし、すぐに首を引っ込めて逃げるって感じで、あまり、感心しない。と、私はそらのさんをそんな風に感じている。誤解かもしれないけれど。そんなわけで、私は彼女にローザ・ルクセンブルクや『銀英伝』のジェシカ・エドワーズを読むことをお奨めする。彼女たちの生き方がいかに命がけの真剣勝負だったかを知ってもらいたい。ジャーナリストになるにしろ、アーティストになるにしろ、その真摯な真剣さは絶対に必要だと思うから。

3.ツイッターと政治
さて、論壇時評に戻ろう。もう1つ、驚いたことはツイッターを高く評価していること。政治家とツイッターについてちょっと考えてみたい。政治家でネットを上手に利用した人で思い浮かぶのが、小泉純一郎元首相。彼が始めたメルマガは確かに政治家と一般市民を近づけたと思う。それまでは、間にマスメディアが入るために距離感があった。タウンミーティングもそう。政治家と一般市民を近づけたことによって、一般市民の政治への参加意識が高まった。議論が白熱することで、満足感があった。ただ、メルマガはとても長かった。読むのがけっこう大変だった。内容が総花的になってしまうんじゃないかと思う。詳しくて、総花的だとちょっと読むのが辛い。鳩山首相のツイッターはそういう意味では読みやすい。宇宙人だけど(笑)、人間自体は悪い人間ではない、と感じられる。そういう意味で親近感は感じられる。しかし、一方で、ツイッターは国民の人気取りのためのものというのは歴然とある。そんな人気取りのために貴重な時間を割いて欲しくないという思いもある。だから、まあ、いまの分量でいいのかもしれない。一日一言。ところで、麻生前首相と比べると、麻生前首相はなんで、あんなに偉そうなんだろうと感じてしまう。やっぱり、御曹司であり、経営者だからかもしれない。でも、首相は国民の社長ではないのだから、あまり、威張ってもらっても困る。時代の流れかもしれない。サザエさんに出てくる学校教師が昔の教師さながらコワモテなのに対して、ちびまる子ちゃんに出てくる学校教師がやさしいのと同様に、国民にうける政治家の物腰が変わってきたのかもしれない。

4.記者クラブについて
あ、論壇時評に話を戻ろう。記者クラブの問題も指摘していた。あれは日本の新聞と海外の新聞の違いじゃないだろうか?日本の新聞は全国紙で発行部数も世界一を誇る。一方、海外の新聞はどこも地方紙でその地域だけで読まれるものがほとんどだ。NYタイムズもLAタイムズもそう。だから、新聞も全国紙がやたらと幅をきかす。地方なんて、中央より格下に扱われる。そういう階級があるからかもしれない。記者クラブは。

5.論壇の衰退
それにしても論壇自体が、いま、無くなりつつあるんじゃないかと思う。あいつぐ論壇誌の休刊。論壇時評で論じるべき論壇が圧倒的に少なくなったかもしれない。だからかもしれないが、昔の論壇時評と比べてみると、東浩紀の論壇時評は詰め込み感がない。過去の論壇との連続性がない。でも、その方が若者には受け入れられると思う。今回のは、論壇時評というよりは、社会時評あるいはネット社会時評といった方が正確かもしれないけど、ネットの出現で論壇が変わりつつあることを新聞紙上で言及するのは良いことかもしれない。

6.新聞の衰退
そうそう、新聞社だって、ネットについてはどう取り組んだらいいか迷っているはず。日経は電子版を出して、新たな試みにチャレンジしているわけだし。海外の新聞社だって経営危機に陥って縮小したり、はてはNPOにしようという動きもある。新聞購読者はどんどん減っている傾向にある。

7・余談
東浩紀さんの写真はアロハシャツでなくて良かった。カジュアルだけどジャケットでちょっといい感じだった。CGは一瞬ビルかと思った。でも、なるほど、力強さを感じる。いい紙面だった。昔のようなガッツリした論壇時評には、「編集部が選ぶ注目の論考」がガッツリ感のある時評になっていたと思う。ニューズウィークの「中国ルール」の記事は気になっていた記事。拙論「日本の未来戦略」を参照していただければと思う。http://www.neoaca.com/critique