2013年6月30日日曜日

中沢新一『チベットのモーツァルト』


今回は中沢新一の『チベットのモーツァルト』を取り上げます。

私とこの本との出会いは1989年頃です。浅田彰を知ったのと同じタイミングで数学者の森毅経由で中沢新一のことを知りました。私が最初にを買った中沢新一の本は『虹の理論』でした。次に買ったのが河出文庫から出たばかりの『イコノソフィア』です。そして、その次に買ったのがこの『チベットのモーツァルト』と『雪片曲線論』でした。中沢新一の本はどの本も面白くて、当時は本当に夢中になって読みました。いえ、今でもたまに開いては読み返すことがあります。

さて、この『チベットのモーツァルト』ですが、中沢新一の処女作なのですが、本当に内容がいっぱい詰まった中身の濃~い本です。作家は処女作が最高傑作だとよく言いますが、中沢新一の場合も、もしかしたら、この『チベットのモーツァルト』を超えるような著作は希有なのではないでしょうか?また、私は単行本で買ったので分かりますが、中沢新一の本は装丁がどれも洒落ていてカッコイイです。もし、これから本を買われる方は可能であれば、是非、単行本で購入されることをお薦めします。


目次
本の調律
孤独な鳥の条件―カスタネダ論
チベットのモーツァルト―クリステヴァ論
極楽論
風の卵をめぐって
病のゼロロジック―暴力批判論
マンダラあるいはスピノザ的都市
夢見の技法
丸石の教え
視覚のカタストロフ―見世物芸のために
着衣の作法 脱衣の技法
ヌーベル・ブッディスト
砂漠の資本主義者


さて、内容ですが、どの章も極めて難解です。現代思想に関してある程度の基礎知識を必要とします。ですが、ガチガチの論理による読み難さはありません。むしろ、知性の知的センスを要求されます。感受性の鋭さと言い換えてもいいかもしれません。非常にソフトでしなやかな文章で三段跳びで石の上をポン、ポン、ポンとジャンプしながら軽快に飛び移ってゆくような高速な論理展開です。また、美しい伸びのある優美な文章でもあります。ですが、そこで展開されている知はデジタルで強靭です。彼以外の知性と彼を比べたら、真空管と量子コンピュータとの差があるくらい知性の差を感じます。内容は現代思想という最先端の知性とチベット密教という東洋の叡智がクロスしたもので私にはたいへん魅力的に感じられましたが、昨今の日本ではあまり受けないかもしれません。書かれた当時はまだチベット密教を感性として分かる下地が日本人にはかろうじてあったかもしれませんが、今の日本は完全に近代化されたので、そういう感性は根こそぎ抜き取られて根絶やしになってしまったと思います。しかし、現代思想について言及された部分だけを取り出して読んでもそこには天才的な閃きがあると思います。是非、読んでみることをお薦めします。

なお、どの章もお薦めなのですが、あえて選ぶとすれば、『チベットのモーツァルト-クリステヴァ論』と『病のゼロロジック-暴力批判論』でしょうか。『極楽論』も本人が細野晴臣との対談本『観光』で一番出来が良かったと言っていたのでお薦めかもしれません。しかし、クリステヴァ論と暴力批判論は現代思想にとって極めて重要な論考になっていると思いますので是非読んでみることをお薦めします。ここで言及されていることを現代の哲学者は何ひとつ超えられてはいません。いえ、むしろ、後退しているくらいです。一見、現代思想のテキストは流行の旬が過ぎたように思われるかもしれませんが、案外、ここに書かれているのは流行とは関係のない哲学にとって普遍的な内容だと思います。

さて、最近の若者からは中沢新一は宗教的な内容を含むために低く評価されているかもしれません。ですが、現代思想の部分だけを取り上げてみても、他の論客は彼の足元にも及ばないと思います。喩えて言えば浅田彰が秀才だとしたら、中沢新一は天才です。ただし、天才とバカは紙一重というように彼にもちょっとそんな面があると思います。彼の知性の速さが彼を軽薄に見せてしまうのかもしれません。また、実際、彼の知性をまったく理解できない人たちがいるのも事実です。なぜ、そうなるのかは上手くは説明できませんが、ドゥルーズが人間の知性を科学と哲学と芸術の3つのベクトルに分けましたが、彼らには芸術という方面への感受性が欠けているのではないかと思います。彼らはとても論理的でニュートン力学のように明晰なのですが、しかし、もし彼らが昔に生まれていたら、果たして彼らは無限という概念を創出しえただろうか、あるいは、詩というものを創出できただろうかと少し疑問に思います。なにかそういった方面への知覚や感受性が彼らには欠けているのではないかと思います。ともかく、こんな話をしてもあまり生産的ではありません。それよりも、むしろ、私たちのアンテナの感度を上げて彼の知性が描くなめらかで優美な軌跡を感じ取ることができるように耳を澄ました方が良いと思います。扉はまだ開かれてはいません。感性の扉を開いてドアを押し広げたとき、私たちの目の前にはこれまで見たことのない色鮮やかで生気に溢れた世界があることにはじめて気づくと思います。

2013年6月29日土曜日

フィリップ・K・ディック『ユービック』

 

今回はフィリップ・K・ディックの『ユービック』を取り上げます。なお、最初にお断りしておきますが、ネタバレで話しますので未読の方はご注意下さい。
 

さて、この物語は読んでいる最中は謎に満ちていましたが、読み終わってみれば、物語はとてもシンプルで「なあんだ、そういうことか!」と言った感じになります。しかし、よくよく考えてみると、この作品には実にユニークなディック特有の世界観や人間観が詰まっています。読み終わって全体を振り返ったとき、「なるほど!作者のディックが言いたかったのはそういうことか!」と大きくうなずくことになります。

まず、あらすじは次のようなストーリーです。超能力者と超能力者の超能力を無効にする力を持った不活性者たちがいる未来社会です。そこでは超能力者が超能力を使って社会に悪影響を働きかけるという問題のある社会です。そのため、悪い超能力者を捕まえることを専門とする会社があり、日夜、超能力者と戦っています。さて、超能力者を捕まえる会社で働く主人公チップは超能力者を狩るために不活性者たちを月に集結します。しかし、事前に超能力者たちに察知され、超能力者たちが仕掛けた爆弾でチップと不活性者たちは多大な損害を負います。チップたちのチームは半数を失い、残りの半数の多くは負傷します。チップたちは這々の体で地球に帰ります。ところが、帰ってきた地球では妙な現象が起こるのことに気づきます。それは時間退行現象といってその名の通り彼らの周囲の物の時間が退行してゆきます。(←この辺は本書でご確認下さい。)そして、一人ひとりが死んでゆくのです。彼らは逃げまわった挙句、チップの勤める会社の社長ラシターに救われます。一体、何が起こっているのでしょうか?実はチップたちは超能力者の仕掛けた爆弾でやられてしまい、生き残っていたと思っていたが、実は大怪我のために半死状態でコールドスリープされていたのです。しかし、コールドスリープされた人たちは、夢を見ているような状態で意識があり、その意識の世界をまるで現実の世界のように暮らしているのです。ところが、半死者たちの中にも特殊能力を持った者がいて、そいつはチップたちの意識を惑わす特殊能力を持った半死者だったのです。そのため、半死者となっていたチップたちは襲われ、時間退行現象という能力者の術中にはまってしまったのでした。しかし、この時間退行現象に対抗するものが1つだけありました。それがユービックだったのです。ユービックとはスプレーで、唯一時間退行現象を無効にすることができる力を持っています。ただし、だからといってユービックで敵の半死者を倒すことはできません。単に時間退行現象を相殺するだけの力です。結局、チップたちはこの意識の世界でも超能力者と戦った現実世界と同じように狩ったり狩られたりする者としての戦いが繰り広げられるのでした。

さて、この作品で描かれた世界観はひとことで言うと捕食的世界です。それは地球の生物たちを見ても分かるように生き物たちは基本的に捕食の関係にあります。例えば、蚊を食べるトンボ、トンボを食べる小鳥、小鳥を食べる鷲というように様々なところに食物連鎖があります。そして、人間の世界も超能力者と不活性者というように捕食の関係になっているのです。また、私たちの資本主義社会も似ていると思います。市場というフィールドで繰り広げられるのは企業たちの競争です。そこでも企業同士で捕食的世界が繰り広げられています。企業は利益を上げることに血眼になり、ついには企業合併で他の企業を飲み込んでしまいます。あるいは、競合相手を廃業に追い込んだりします。資本主義社会における企業も捕食的世界を生きているのです。この作品ではそういった資本主義の未来社会でも新たに超能力者を加えた捕食的な世界になっており、さらに半死状態の世界までもが食うか食われるかの捕食的世界を演じているのです。どこまでも続く捕食的世界・・・。人間はいつまでも、たとえ半死状態になっても、この捕食的世界で食うか食われるかを生き続けねばならないのです。

さて、このような捕食的な世界を生きる人間はどのような人間なのでしょうか?答えは簡単で大き過ぎもせず、小さ過ぎもしない、等身大の大きさの人間なのだと思います。なんのことか分かりにくいかもしれませんね。簡単に言えば本作の主人公チップや社長のラシターのような普通の人たちです。アメリカ社会で働く普通の人々といった方が良いかもしれません。ここで少しアメリカ社会について考えてみましょう。例えば、世界で一番労働時間の長い国はどこか分かりますか?もしかしたら、日本と答えた方もいるかもしれませんが、正解はアメリカです。アメリカは世界の人々から拝金主義だの資本主義の権化だのと嫌われることが多いですが、実は世界で一番の働き者の国でもあるのです。とはいえ、世界で一番の働き者でありたいなどとアメリカ国民は望んでいないかもしれませんが。ともかく、どんどん仕事をできるような環境にするためか、アメリカの大都市はどんどん眠らなくなっているみたいで、いわば24時間営業になりつつあるようです。それだけ人々はローテーションを組んでこまめに働いているのではないでしょうか?でも、そんなに働くと誰しもくたびれてきますよね。ヨレヨレの服みたいに肉体だけでなく、精神もくたびれてくるのではないでしょうか?ディックの小説に出てくる人たちも実はそういった人たちが多いのではないでしょうか?くたびれているとは言っても行き詰まったということではなくて、それでも仕事を滞らないように回してゆくという感じでしょうか。ディックの小説は主にパルプ・マガジンと呼ばれる娯楽誌に掲載されることが多かったそうです。読者は仕事で疲れているので、あまり深く考えずに軽く読んで楽しめるような読み物が多かったと思います。ですから、大衆小説と同じで出てくる登場人物がみんな読者たちと同じ等身大の人間で人情とちょっとしたロマンスと冒険があるような話が多かったのではないでしょうか。そういった人々が活躍する場を現代社会ではなくSFに置き換えたのがディックの小説のように感じます。ディックの人間観はそういった現代社会で忙しく働いて色褪せた日常生活を送る普通の人々なのです。ディックの人間観が最もよく表れていると私が思うのは、ディックの他の作品になるのですが、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の序文で述べられた文章です。(ちなみにこの『三つの聖痕』はディック的要素が万遍なく詰まったディック小説です。)以下、序文です。

つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切りぬけられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?

この序文にディックの人間観がよく表れていると思います。ハードボイルドのように格好つけることもなく、深刻ぶることもなく、ときに俗物的な面もさらしたり、惨めな気持ちでへこんでしまったり、笑顔で話しながら頭の片隅でちゃっかりと金銭の計算をしていたり、ひとりよがりなロマンスの妄想をしたり、ディックに出てくる人間はごくありふれたアメリカの労働者の姿なんだと思います。

これは他の作家と比較してみるとより鮮明に分かると思います。例えば、サイバーパンクの雄ウィリアム・ギブスンとは明らかに違います。ギブスンの場合、主人公たちはアウトローでアナーキストです。個人の力で組織に立ち向かうハッカーです。『ニューロマンサー』のケイスや『カウント・ゼロ』のボビーのような電脳カウボーイです。ところが、ディックの場合、主人公は組織に属するサラリーマンです。ギブスンの主人公が青年や少年だったら、ディックの主人公は『電気羊』のデッカードのようにくたびれた中年です。俳優で喩えたら前者がキアヌ・リーブスで後者がブルース・ウィリスです。私としては、できればギブスンの描く格好いいアウトローになりたかったものですが、現実にはそうも行かず(笑)、そうなると仕事に忙しく追われるディックの描くくたびれた中年になるのが現実で、(才能のある若者は是非ギブスンの方を目指して下さい。)、私たちに近いそういった登場人物に共感するかもしれません。もちろん、パルプ・マガジンの需要として読者が共感しやすくするためにわざとそういった人物を描くようにしたのかもしれませんが。

ともかく、SFで描かれる未来は輝かしいユートピアか恐ろしいディストピアになりがちで、そこで描かれる人間像もどちらか一方に偏ったタイプの人間になりがちです。しかし、ディックの描く人間は、どんなにテクノロジーが発達した未来になっても、現代社会を生きる私たちと同じように仕事と生活に追われるという、まるで現代人である私たちと同じ人間の姿なのです。そして、目の前の困難に対して、ちっぽけな力しか持たない人間がそのちっぽけな力にも関わらず、自分でやれるだけのことはやるという、宇宙や神から見たら愚かでちっぽけな存在に過ぎないのだけれど、それでも精一杯に一生懸命に生きる人間の姿なのです。

さて、この『ユービック』はフィリップ・K・ディックの入門書としては最も適した作品のひとつだと思います。非常に分かりやすくディックの世界を堪能できると思います。ディックの他の作品と共通する世界観や人間観が描かれていると思います。もちろん、SF的要素も十分に楽しめると思います。ですので、SFが苦手という方もディックの小説をまだ読んだことがないという方も、是非、『ユービック』を一読してみて下さい。

あ、それから、この『ユービック』だけでディックのすべての面が捉えられるというわけではありません。ディックにはもっと奥深い他の側面があって、それは哲学的だったり、サイケデリックであったり、神学的であったり、神秘主義的であったりします。いわゆる幻視者としてのディックです。それは『聖なる侵入』に代表されるヴァリスシリーズやインタビュー集『ラスト・テスタメント』の世界です。これらについても、このブログで追々取り上げてゆきたいと思います。

2013年6月28日金曜日

基地問題における鳩山由紀夫に対する評価について

最近、鳩山由紀夫に関連して思ったことをここに書いておく。また、自分の方針を一部変更したこともここに記す。世間の一般的な反応をやや腹立たしく思ったために言葉が荒々しくなったことを断っておく。

(なお、文中の沖縄米軍基地問題は正しくは普天間基地県外移設問題なのだが、方向性としては基地撤退には違いないので、分かりやすく考えるために米軍基地撤退として考えた。そもそも県外移設すらできないのなら、米軍基地撤退など到底無理な話だろう。ともかく、ここで話しているのは大筋の話だ。言葉の正確さを保っていたのでは話は膨大な量に膨らんでしまう。ともかく、大筋の話だ。)

まず、鳩山由紀夫に対する世間と私の評価について書かなければならないが、その前に私の立場を書いておく。私は基本的には米軍基地は日本から撤退すべきだと考えている。理由は日本は独立国であり、基本的に独立国は他国の軍隊の駐留を認めるべきではないからだ。自分の国は自分の国の軍隊で守る、これが大原則だ。ただし、場合によっては駐留を認めるという例外はあるだろう。例えば、アフガン戦争のときにカザフスタンは基地を米軍に貸した。そのような場合は許されるが、平時に常駐するというのはありえない。歴史的経緯で言えば、第二次世界大戦で日本は米国の敵国であり、敗戦したために米軍が駐留したのが発端だった。それは理解できる。しかし、あれから50年以上も経過しており、なおかつ近隣諸国と友好関係も結んでいるのに米軍が常駐しなければならない理由はない。実質的には防共のために米軍を常駐させたのだが、それは理由にならない。独立国がどのような政治体制を敷くかは独立国の自由だ。まして日本は共産化することはもはやあり得ない。したがって、米軍が日本に駐留する正当な理由はない。

さて、上記のように私の立場を明確にした上で、次に鳩山由紀夫について私の評価を述べる。鳩山由紀夫の方向性としては沖縄米軍基地を撤退させる方向で動いていた。普天間基地県外移設を公言して真剣に取り組んでいた。しかし、国のトップである首相の鳩山由紀夫にも県外移設は実現できなかった。彼は県外移設を実現すると公言したにも関わらず、実際には実現できなかったために責任をとって辞任した。その後、彼のあとを継いだ首相たちはどうだったか?菅直人にしろ、野田佳彦にしろ、沖縄米軍基地問題に真剣に取り組もうとはしなかった。米軍基地撤退が現実に実現できるとは考えなかったからだ。もちろん、自民党に政権交代して安倍晋三が首相になってからは、米軍基地容認の立場だから撤退どころの話ではない。こうなってみると、誰が一番米軍基地撤退に向けて真剣に取り組んだかというと鳩山由紀夫以外にいないという結論になる。

ちなみに、ここで、「いや、社民党や共産党が米軍基地撤退を訴えている」と主張する意見があるかもしれない。しかし、これは意味がない。なぜなら、米軍基地撤退を実現するためには、その前に実現しなければならないことがあるのだが、残念ながら彼らはそれを絶対にクリアーできない。それは彼らが政権与党になることだ。しかし、社民党や共産党が政権与党になることは絶対にありえない。米軍基地撤退よりも彼らが政権与党になる方が実現可能性が低い。もちろん、連立して政権与党に入る可能性はある。しかし、それとて与党に横から口出しするのが関の山で実質的な決定権は彼らにはない。これは社民党が実証済みだ。社民党は県外移設を主張したがまったく受け入れられず連立与党から離脱するハメになった。したがって、彼らがいくら米軍基地撤退を訴えても、実際にそれを実現する力は彼らにはないのだ。実績がそれを証明している。すなわち、彼らは評価の対象外だ。もちろん、彼らが米軍基地撤退を訴えるのは自由だ。しかし、それを私が支持政党を選択する指標の1つに加えることはもはやない。なぜなら、不可能なことは指標に入れても仕方ないからだ。

私が腹立たしく思うのは米軍基地撤退派が鳩山由紀夫を低く評価することだ。自民党のような反対派が鳩山由紀夫を低く評価するのは理解できる。なぜなら、米軍基地を本気で撤退させようとしたからだ。反対派とは真逆の方向だ。ところが、撤退派の人まで鳩山由紀夫を低く評価する。これは不当な評価だと思う。上記でも述べたように最も米軍基地撤退に尽力した政治家は鳩山由紀夫だけなのに、それをまるで恩を仇で返すようにして彼を低く評価するのだ。彼らは「他の政治家ならきっと米軍基地撤退をできたはずだ」と考えているのかもしれない。ところが、そんな政治家はどこにも存在していない。どこにも存在していない者と比較して鳩山由紀夫を低く評価している。実に間違った考え方だと思う。

さらにおかしなことがある。沖縄県民だ。沖縄県民は基地撤退にあれだけ尽力した鳩山由紀夫を非難しておきながら、その後の選挙で基地容認派の自民党を選択しているのだ。これは明らかに沖縄県民は米軍基地容認を選んだことになる。鳩山由紀夫にダメ出ししておきながら、その直後に真逆の基地容認に転ずる。結局、「撤退を試みたけどダメだった。仕方ないので容認派に転ずる」という思考のプロセスがあったのだろう。つまり、沖縄県民は基地容認という現実的な選択をしたということだろう。

私は原理的に、かつ、心情的には沖縄米軍基地は撤退すべきだと考えている。しかし、それは現実的ではないということが鳩山由紀夫の試みで分かった。もはや米軍基地撤退は大きく世界情勢が変わらない限り、変わることはないだろうと思う。政治は現実的に考えて取り組まねばならないと考えている。したがって、米軍基地撤退に関して、もはや、私の政策課題にこれを組み込むことはしない。実現不可能なことは政策課題に入れても仕方がないからだ。支持政党を選ぶときの政策課題に米軍基地問題を加えることはもはやない。また、私は民主党を支持しているので、民主党のマニフェストに米軍基地撤退を明記するようなことはしてほしくない。加えるとしても、それはかなり先の課題として加えるにとどめてもらいたい。先というのはおそらく10年20年ではないだろう。もっともっとずっと先ではないかと思う。いつになるのかは分からない。なぜなら、日本国内の事情で変わることはないからだ。変わるとすれば、米国や他の諸外国の事情で変わるだろう。残念だが、日本に米軍基地撤退を決める実質的な決定権はない。

私は長い間、米軍基地撤退派であり、口先だけでなく、実現すべく実際に試みたいとずっと思っていた。そして、そのチャンスが鳩山由紀夫首相のときに巡ってきた。しかし、残念ながら、そのチャンスは活かせなかった。基地問題は一歩も進まなかった。彼を応援したけれどダメだった。かつて私は試みもせずに諦めるのはおかしいと思っていた。何もせずに最初から諦めるひとに批判的だった。だが、私の場合は鳩山由紀夫を応援することで基地撤退を試みたけどダメだったということだ。何もせずに諦めたわけでなく、やってみたけれどダメだったという試みた事実がある。つまり、私が基地撤退が不可能だと判断する理由は、何もせずに想像で判断したのではなく、実際に試みてみた上での判断だ。想像ではなく、事実に基づく判断だということだ。

したがって、今後、私は基地撤退に関しては現実的には不可能だという立場に立とうと思う。もちろん、積極的な容認ではなく、仕方なく消極的に容認せざるをえないという立場だ。もし、鳩山由紀夫を貶す基地撤退派のひとが私を説得するつもりならば、鳩山由紀夫以上の実績を上げた政治家で実際の事例を上げて説得してほしいと思う。この世には存在しないのにそれを持ち出してきて、鳩山由紀夫より優れていると主張するのはナンセンスだ。誰だって鳩山由紀夫の欠点を並べることは容易だろう。だが、彼らは存在しない架空の政治家をいくら持ち出したって仕方がないではないか。架空の政治家では欠点を上げることすらできないではないか。政治はそういう夢想家といつまでも付き合ってはいられない。政治は現実と向き合わねばならない。私のことを撤退を諦めたと言って非難するだろうか?だが、実現できないことをいつまでも言うのは不平不満を述べて自分のストレスを解消をしているのと変わらない。寝言を言っているのと同じだ。政治はそんな寝言にいつまで付き合ってはいられない。説得するつもりがないのも結構だ。いつまでも少数野党でいればいいだけの話だ。説得するつもりなら実績を作ることだ。だが、万年少数野党では実績の作りようがない。したがって、実質的にはこの議論は終わっている。

長くなったので私の主張していることが伝わらないかもしれない。そこで、繰り返しになるが、結論をもう一度書いておこう。つまり、結論とはこうだ。私は考え方としては米軍基地撤退派であり、基地問題に対してとった鳩山由紀夫の行動を高く評価している。同時に鳩山由紀夫を低く評価する基地撤退派は現実が見えていない人たちであり、不当に低い評価だと考えている。また、私としては、基地撤退を試みたがそれが成し得ないことが鳩山由紀夫という事例で分かったので、今後はその経験を踏まえて基地撤退は現状では不可能と考え、私の政策課題から外すこととする。以上。

ちなみに、原発に関しても、近々、方向修正しなければならないかもしれない。私の立場は時間をかけて徐々に脱原発を進めるという脱原発派だ。だが、官邸前デモの脱原発派に対する世間の評価はどんどん下がってきているのではないかと思う。評価が下がる理由は選挙後も彼らが自分たちの主張を修正することも推進派と意見を擦り合わせることもしなかったからだと思う。頑なに自分たちの主張だけを押し付けたと思う。しかし、自分たちだけの意見を一方的に押し付けるのはおかしい。民主主義においては異なる意見と折衷案を見出して妥協しなければならないはずだ。それなのに、彼らは自分たちの主張を一歩も譲らない。これでは世間の評価が下がるのも頷ける。もちろん、これは推進派にも言えることだ。だが、推進派は少なくとも妥協する姿勢は見せている。もちろん、上辺だけだとは思うが。だが、それでも民主主義の手続きは踏んでいる。したがって、脱原発派は選挙結果を踏まえて、表現を変えるか、主張を修正するか、すべきだと思う。

(おおげさに言えば、私の言っていることが正しいかどうかは後世の歴史家が評価してくれると思う。後世の評価において当時の人々がいかに愚かだったかということはよくあることだ。ま、現実を変えられなかったという点では私もその愚かな人々とまったく同じなので、愚かさには大した変わりはないんだがね・・・。それにしても、先のことを考えると憂鬱だ。次の参院選では民主党は惨敗して党存続の危機に陥るだろうからだ。だが、その結果、迎える日本の政治はどうか。自民党が圧倒的多数で第二政党が公明党になるだろう。実質的な自民党一党独裁政権だ。しかも、それに対抗する野党も保守系がほとんどでリベラル政党は日本の中では少数派になってしまうと思う。私のようなリベラル政党支持派にはなんとも嘆かわしい話ではないか。)

2013年6月27日木曜日

蒼井そら『ぶっちゃけ蒼井そら』


蒼井そらの『ぶっちゃけ蒼井そら』を読みました。


ぶっちゃけ、ごくフツーの女の子がごくフツーに仕事して、ごくフツーに仕事を通して成長してゆくというごくフツーの働く女性の物語でした。ただし、フツーと違うのは彼女の仕事がAV女優という、ただ一点です。この本はそんな蒼井そらの生い立ちからAVデビュー、さらにAV界のトップアイドルに成長する現在に至るまでの道のりを描いた自伝的エッセイです。さらに自伝だけでなく、彼女のセックス観や恋愛観、人生観までも飾ることなく率直に語られています。

一般に女性がセックス産業やポルノ産業で働くというと多くのひとは「苦海に身を沈める」というような眉をひそめるイメージがありますが、彼女の語り口からはそのような暗さは一切なく、むしろ明るく前向きで自分が一歩一歩前進して成長してゆくのを楽しんでいるという、喜んで学ぶという姿勢が感じられます。その明るさに無理をしているところは感じられず、いろいろと工夫して努力はしていますが、ひたむきというよりはむしろマイペースで頑張っているという感じがします。

そして、AV女優特有の悩みや葛藤も逃げることなく率直に語られています。それは家族との関係や恋人との関係です。家族や恋人にAV女優であることを打ち明けてAV女優という仕事を認めてもらうまでの悩みやAV女優の仕事を続けながら恋人とセックスしてゆくことの悩みなどです。これらの悩みはAV女優たち全員の悩みでもあると思います。これらの悩みに対して万人向けの普遍的な解答というわけではありませんが、蒼井そらという個人としての解答を提示していると言えるでしょう。もちろん、すべてに完璧な解答を出しているわけではなくて、どうしても答えの出ない矛盾もあります。しかし、彼女は無理に矛盾を歪めることをせずに矛盾は矛盾のままに、矛盾を抱えながらAV女優の仕事をしてゆくという、とても健全な自覚を持って取り組んでいます。

そんな彼女の姿勢を見ているとビジネス書でよくある、現場のたたき上げから成功していったビジネスマンたちのサクセスストーリーと似たものを感じます。そういったビジネスマンたちは仕事でどんな苦難があっても明るく前向きで諦めることなく頑張り、それでいてお客様に感謝するという謙虚な気持ちをいつも持っていたりします。彼らは誤って自分を高く評価し過ぎることはなく、他人が驚くほど自分を客観視しており、自分の利点を生かして仕事をし、自分の欠点を冷静に見つめています。蒼井そらはそういった仕事で成功するタイプと多くの共通点を持っていると感じさせます。

さて、アダルトビデオは映画と違って幻想をできる限り持続させようと努めます。確かに映画も感情移入できるように幻想を持続させようとはします。しかし、最終的にそこから引き出されるのは物語から一歩引いた客観的な視点です。映画は観客を没入させると同時に映画を見終わったときには観客が客観的な視点を獲得できるように支援しています。ところが、アダルトビデオは違います。アダルトビデオは観客がどこまでも性的に酔い痴れられるように幻想をできる限り持続させようとします。そのため、AV女優たちはアダルトビデオの外でも性的な対象としてのAV女優を演じることになります。インタビューや販売促進会でもAV女優として振る舞うことを要求されます。現実のリアルな人間ではなくて、AV女優という現実には存在しない人間を演じさせられます。このため、現実と幻想を見誤ったユーザーから淫乱や売女などという事実とは異なる罵声を浴びせられたりします。しかし、アダルトビデオが幻想をできる限り持続させることを目的としているので、商売上、それにはあまり大きな声で反論してきませんでした。そのため、AV女優と一般視聴者の間にはある種の情報の非対称が生じることになりました。これはAV女優に限ったことではなくて、セックスワーカーたちにも昔から付きまとってきた問題でした。その非対称が見えざる壁となって、周囲の無理解と間違った認識を生み、これまでAV女優たちやセックスワーカーたちに数多くの悲劇をもたらしてきました・・・。彼女たちは侮辱され蔑まれて人格や人間性を否定され深く傷つけられてきました。私は思います。もう、そろそろそんな哀しい悲劇は止めにしませんか?と。人類の歴史は愚かさの繰り返しですが、一方で確かに進歩してきた面もあると思います。人類は愚かさの中で少しずつですが、前進して問題を解決してきました。ですから、この性にまつわる問題も決して解決できない問題ではないと私は思うのです。そう考えるとこの本は今まで語られてこなかったAV女優側からの情報なのです。今までは聞こえてこなかった壁の向こうからの声です。そこで語られているのはAV女優を演じている偽りの声ではなくて、人間としての真実の声なのです。この蒼井そらの本は、可愛らしい女の子の小さな小さなひと声ですが、しかし、非対称の情報の壁に穴を穿つ、ひとつの大きな突破口ではないかと思います。

2013年6月26日水曜日

ぼくの魂の舗装道路の上で

日本の政治について考えていたら、とても憂鬱な気持ちになってしまった。それというのも、このまま進めば日本はとんでもなく自由のない無慈悲な国になるのではないかと思えたからだ。それはSFが描くところのディストピアそのものではないかと思えてくる。ジョージ・オーウェルが描いたディストピア小説『1984年』のような全体主義国家を思い描いてしまう。人々は一党独裁の下、理性も感情も党に支配され、個としての意識は失われ、ただ党への熱狂的な崇拝だけになる。そして次のような狂ったスローガンを酔い痴れるように声高に叫ぶ。
戦争は平和である。
自由は屈従である。
無知は力である。
「自分たちがそんな風になるなんて、そんなバカなことはありえない」と人々は笑うかもしれない。だが、支配が完全なとき、人々は支配されていることに気づかないものだ。しかも現実の世界は子供じみたSF小説と違って、おそろしく周到で極めて狡猾である。私たちが気付かぬうちに私たちの心を捕らえているかもしれない。彼らは巧みに忍び寄り狡知に長けたやり方で私たちの心を裏側から支配するかもしれない。例えば誰に教えられるわけでもなく、次のようなスローガンをいつの間にか心の奥深くに刷り込まれているかもしれない。
負け組には生きる資格がない。
負け組が自殺するのは自業自得だ。
たとえ毎年3万人の人間が自殺しようが、支配された人々はまるで痛痒を感じなくなっているかもしれない。もしも乗っていた電車で人身事故が起きたとしても仕事に遅れることを舌打ちするだけで死者が出たことを気にも止めないかもしれない。もはや私たちの頭の中は仕事と自分のことだけで一杯になり、理性や感情はシステムに支配され、隣人がいつの間にか減っていても一向に気にもかけず、ただシステムが電子的に動かす数字に一喜一憂し、口座の預金残高が増えることだけに喜びを感じる、そんな風になっているかもしれない。

そんな恐ろしい未来を想像すると、とてもじゃないがやりきれない陰鬱な気持ちになる。今日はそんな狂った気分を反映するようなマヤコフスキーの詩を記しておこう。そして、私の妄想が妄想のままであり続け、決して現実にはならないようにと目を閉じて静かに祈ろう・・・。
踏みつけられたぼくの魂の
舗装道路の上で
狂人たちは歩きながら
ぎこちない文の踵をよじる。
都市たちは
絞め殺され、
雲の首吊り紐の結び目には
塔たちが
頸をかしげて
凍てついたところを、
ぼくはただ一人で行く。
十字路で
警官たちが
磔刑にされたと
泣きわめくために。


マヤコフスキー 『ぼく』