2013年5月15日水曜日

小説1

私はネットのチェックも一段落したのでラップトップのスクリーンから目を離して椅子の背もたれに背中を反らした。マホガニー製の机に所狭しと積まれて幾本もの支柱のようになって積み上がった書物の柱を見ながら、その中からハイデガーの『存在と時間』を見つけてライフワークである哲学研究が進んでいないことに軽く舌打ちしながら私は椅子を壁の方へ廻した。そして、壁に飾られたラファエル前派風の油彩画を眺めながら、ハイデガー研究のためにもう少しヘルダーリンを読まなければと思うのだった。しかし、あいにく書斎には『ヒュペーリオン』は置いていなかったので地下の書庫へ探しにいった。そして、ヘルダーリンの詩集や彼について書かれた研究書を何冊か抱えながら、ついでにパウル・ツェランの詩集も小脇に抱えて書斎に戻ってきた。いつものことだが、目についたツェランの方が気になったのでツェランから紐解こうと抱えた本たちをデスクに置こうとしたら、机の上に無造作に投げ出されてあったタブレットに目が止まった。いや、正確にはタブレットに表示されていたニュースに目が止まったのだ。私は書類をかき分けて机の上に本をドサッと置いてタブレットを拾い上げた。そして、手に持ったタブレットに目をやりながら椅子に腰掛けるとロッキングチェアのように深くもたれながらタブレットを天井に向けて記事を読み始めた。

そこには人気政治家のHが出ていた。Hは弁護士出身でテレビ番組に出て人気を博した人物だ。彼は日本の政治家にしては若く、また覇気に溢れており、その独断的で歯切れの良い口上で敵対勢力を攻撃することから、日頃から不満を溜めた日本の労働者階級から高い支持を集めていた。その記事はHが米兵の性犯罪を減らすために風俗の利用を奨めたもので、その女性蔑視的な発言が内外から大きく批判されていたのだった。私はため息混じりにタブレットを机の上に投げ出して、そのまま天井を眺めながら思索に耽った・・・。

かつては一億総中流と言われた日本も今や産業構造の転換がなされ、主力産業が製造業から知識産業にシフトし、その結果、人々は資産家階級と労働者階級に二分化された。かつてはもう一つの上流階級と言われた官僚も今では規制に雁字搦めに縛られて労働者階級に身をやつしていた。当然ながら資産家階級が日本経済をリードした。経済を支配しているのは資産家階級なのだから、資産家階級が日本経済をリードするのは簡単なことだった。だが、政治は経済ほど簡単ではなかった。というのも政治は民主主義であり、選挙の鍵を握る労働者階級が気まぐれで予測不可能だったからだ。彼らに合理的な政策を説いても彼らの無知を是正しないかぎり理解は得られなかった。結局、決め手となるのはカネかその時々で移り変わる大衆心理だった。そして、大衆心理というやつは厄介で、こいつをコントロールするにはどうすればいいか、まるで見当がついていなかった。いや、コントロールどころか分析すらできていなかった。だが、放置しておくわけにも行かなかった。なぜなら、衆愚政治によってどれだけ経済的な損失を被ったことか計り知れなかった。どうあっても理性のもとで民主主義という理想を損なうことなく政治をコントロールせねばならなかった。これは労働者階級の利益にも繋がることなのだ。

私は気分を変えようと天井から書棚に目を向けた。ぼうっと書棚を眺めていると一冊の本が目に止まった。浅田彰の『構造と力』だ。だが、いま、気になったのはその副題だった。「記号論を超えて」。そう言えば記号論があったなと私は思った。文化を分析する手法に記号論があった。そういえば、山口昌男がいたなと私は立ち上がって書棚に並んでいる背表紙に指をさして彼の著書を探した。そうやって見つかったのは『知の祝祭』だった。私はパラパラと本をめくり、次の一節を見つけて、自分の意図が間違いではなかったことを確かめた。

文化を対象とする研究は、ますます文化と反文化の弁証法的なかかわり合いに向って開かれていく筈です。構造理論、記号論というのは決して新しがり屋の視点ではなくて、文化を全体として両面的にとらえる立場として登場してきたし、そういうふうに開拓される領域ではないかと思われます。
山口昌男『文化における中心と周縁』
文化と反文化の弁証法!私の頭にはすでにAと反Aの五行論的な相生相剋が閃いていた。マッチが擦られたように目の前が開けた。記憶回路が開かれて連鎖的に関連事項が思い出された。そうそう、山口昌男はクリステヴァとの対談の中で「私と貴女は同じことを研究していたんですね」と言っていたのを思い出した。クリステヴァか・・・。私はさらにクリステヴァの本を探した。すぐに『セメイオチケ』と『詩的言語の革命』が見つかった。その近くにトウイニャーノフの『詩的言語とは何か』もあった。ほとんど世間から忘れ去られた書物たちだ。だが、だからといって使いものにならないわけではない、私はそう思った。もともとクリステヴァの記号論はシクロフスキーやヤコブソンなどモスクワ言語学サークルから出発した理論、そう、ロシア・フォルマリズムが出発点だった。クリステヴァはそれをさらに洗練されたものに変えた。言葉の意味が発生する場に、まるで心の奥深くに潜水艇のソナーを降ろすかの如く降りたって量子力学さながらに超ミニマムな微粒子が実体とも虚像ともつかぬ絡み合いから意味が発生する様を、まさにそのプロセスを解き明かそうとしたものだった。シニフィアンとシニフィエのコズミックダンス・・・。その超微細な動きを捉えようと集中した沈思黙考はまるで禅の無の境地ですらあったように思う。一方、山口昌男は文化人類学というフィールドで自らがトリックスターのように振る舞うことで場を揺さぶり沸騰させ、文化のダイナミックな側面を捉えることに成功していた。もし、社会現象としての日本の政治を捉えるなら、山口昌男の記号論が有効なのではないか?

確信にも似た手応えを感じながらそんなことを考えていたら空腹を感じてきたので私は軽食をとることにした。私はキッチンへ行ってチーズとクラッカーを載せた皿とワインをもって書斎に戻った。ワインを一口飲みながら、哲学研究のはずがいつの間にか文化分析に変わってしまったことに苦笑いした。そのとき、屋外の駐車場に車が止まる音がした。私は窓のカーテンを半分ほど引いて外を見た。駐車場には赤いローバーミニが停まっており、そこからジーンズにハイヒールを履いた若い女性が降りてくるのが見えた。

ナオミだった。

つづく