2013年7月2日火曜日

アレックス・アベラ『ランド 世界を支配した研究所』

 

今回はアレックス・アベラの『ランド 世界を支配した研究所』を取り上げます。


この本はRAND研究所について、その成り立ちから現在に至るまでを描いたノンフィクションです。RANDというのは「Research and Development」(研究と開発)の略に由来した名称で主に米国の国防に関わる研究をしているシンクタンクです。米国の軍事的覇権を構築するのに多大な功績を残した知る人ぞ知る研究所です。特徴としてはすべてを数値化して合理的にするという“合理性の帝国”とも言われた徹底した姿勢です。そして、何よりも特筆すべきはRANDの中心的人物で希代の戦略家アルバート・ウォルステッターの存在です。

多くの日本人は彼のことを知らないかもしれませんが、彼こそは核の戦略家と呼ばれ、今日の核の世界の基礎を築いた人物のひとりです。本書はRAND研究所の歩みを描いたものではあるのですが、これをウォルステッターの歩みと言い換えてもいいくらいウォルステッターはRANDを語る上で欠かせない中心的人物なのです。ただ、このウォルステッターは筋金入りのタカ派ではあるものの、なかなかユニークな人物でもあります。というのも、元々、彼は数学者でした。学生の頃の彼はニューヨーク市立大学シティカレッジの数理論理学の学生で、彼の論文を見たアインシュタインは「私がこれまで読んだものとしては、数理論理学の最も明快な外挿法である」と誉めて、自宅に彼を招いたというエピソードもあるくらいなのです。その一方で、彼には現代アートをこよなく愛する芸術愛好家としての側面もありました。彼自身、絵を描いたりしていたようですし、モダンアートの最新作のチェックはもちろんのこと、芸術史家マイヤー・シャピロの助手を務めたり、ル・コルビジェが東海岸に来たときにはガイド兼ドライバーをしたこともあったそうです。しかし、彼にはもう1つ隠された過去があって、これは随分後になって明らかになったのですが、実は学生の頃、彼は共産主義の分派集団「革命労働者党同盟」という地下組織に所属していたことがあったそうです。この集団は新トロッキー主義の集団だったようです。いずれにしても彼のこんな過去がもしバレていたアメリカの安全保障の要職に就くことなど絶対になかったでしょう。しかし、幸か不幸かまったくバレることなく、彼はRANDの要職を全うします。アメリカにとってこれは絶対にプラスだったと私などは思います。これについては面白いエピソードがあります。赤狩りの頃、ハリウッドを追われた脚本家夫婦をウォルステッターの自宅に泊めたのですが、案の定、FBIが嫌がらせの電話を夜中にしてきたのです。FBIは電話で「何をたくらんでいるんだ?」とか「誰とわるだくみをしているんだ?」とか当人に関わる周囲の人物に誰彼と関係なく詰問して嫌がらせするわけです。このFBIからの嫌がらせを恐れて周囲の人々が当人たちから離れてゆくように仕向けるわけですね。(フィリップ・K・ディックの小説『アルベマス』にも似たようなシーンがありましたね。)ところが、ウォルステッターはおもむろに電話に出ると「二人は私の友人です。あなたの質問に答える必要はありません。もうこれで十分質問に答えているでしょう。二度と電話しないで下さい」と堂々と言ってのけたのでした。核という国家の最高機密を扱う人間がFBIに逆らったのです。しかも、彼は、昔、共産主義の地下組織に属していたという過去があるにも関わらずです。なかなか大胆というか、怖いもの知らずというか、それにもまして国家権力などに囚われない自由な精神というか、彼の役職を考えるとなかなか不思議なメンタリティに感じられます。しかし、彼は別に二重人格とか表裏があるいうわけでは決してありません。むしろ、まっすぐな人格だったようにさえ感じられます。そういう人物がいったいどのような思想に基いて核の世界を築いたのか、非常に興味深いと思いませんか?この本はそういう疑問を解きほぐしてくれるので、そういう点でもこの本は読むに値する文献だと思います。

さて、この本は他にも面白い言及がなされています。例えば、マッドサイエンティストの象徴にもなっているハーマン・カーンについても書かれています。スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』で狂気の科学者ストレンジラブ博士のモデルとなった人物です。また、RANDが設立されるきっかけになったのは実は東京大空襲にあったことや、ベトナム戦争時の国防長官として有名なマクナマラとRANDとの関わりなどについても書かれています。さらにかの悪名高きネオコンとの関係についても書かれています。このように、この本はアメリカの知られざる中枢を知るには欠かせない一冊だと思います。是非、読んでみて下さい。

追記
アメリカにはウォルステッターのように歴史に残る優秀なテクノクラートというのがいます。彼以外にも、記事の中でも出てきましたが、ロバート・マクナマラがいます。マクナマラはベトナム戦争の失敗があるためにアメリカ国内では随分低い評価をされているようですが、優秀さという点では彼ほど優秀なテクノクラートはいなかったのではないでしょうか?しかも単に頭の良い優秀さだけでなく、その軍曹風な風貌とは裏腹に知的な教養人であり、人格的にもとても優れた人物だったと思います。だからと言って、彼が指揮したベトナム戦争が許されるわけではありませんし、その指揮において間違いも犯しています。ベトナムに兵力を逐次投入して多大な犠牲を出したのはマクナマラの責任ではあるでしょう。しかし、予算改革など彼が残した業績は極めて優れたものだったと言わざるをえないと思います。また、国防長官を辞職した後は世界銀行の総裁になって貧困の撲滅に尽力したとも言われています。ともかく、20世紀のアメリカの覇権を築くにあたっては優れたテクノクラートがアメリカにはいたのです。日本人はまだまだ多くのことを彼らから学ぶことができると思います。

余談ですが、分析哲学をアカデミズムという狭いフィールドで学ぶよりは、ウォルステッターやマクナマラのような人物がどのように思考し、どのように行動したか、そして、その結果、どのような結果になったかを学ぶ方がより実践的な分析哲学になるのではないかという気が私にはしています。学問としての分析哲学は、所詮、狭い枠組みの中でのゲームに過ぎないように私には感じられるのです。もちろん、それはそれで優れた思考の軌跡であり、学問的には一定の価値があるとは思います。しかし、極端に言えば、結局はアカデミズムという狭い世界での勝った負けたのゲームにしか過ぎないのではないでしょうか。実験室の中のような不自然に純粋に保たれた空間ではなくて、すべてが入り乱れて何が起こるか分からないリアルな世界において分析哲学的な思考を実践に結びつけて役立ててゆくためには、むしろ彼らの軌跡を追う方が役立つのではないでしょうか。

2013年7月1日月曜日

アンドリュー・ニコル『ガタカ』

 

今回はアンドリュー・ニコル監督の『ガタカ』を取り上げます。なお、ネタバレで書きますので未見の方はご注意下さい。


物語は近未来SFです。未来では遺伝子操作で優れた才能を持ったものだけが生まれてくるようになっています。ところが、主人公ヴィンセントは父と母が車の中でそのときの気分でセックスしてしまったために生まれてきた自然な子供でした。調べてみるとヴィンセントは心臓に問題があってあまり長生きできそうになかったり近眼になったりなど様々な問題を抱えた人間であることが分かりました。彼は育てられますが、メガネをかけ身長もあまり伸びないのでした。その後、彼には遺伝子操作で生まれた優秀な弟が出来ますが、弟の方が身長が高かったり運動神経が優れていたりします。ヴィンセントは勉強やスポーツなど弟と何を競っても敵いませんでした。しかし、そんなヴィンセントには夢がありました。それは宇宙飛行士になるという夢でした。彼は夢中で宇宙飛行士になる勉強をします。しかし、試験のとき遺伝子検査が行われ、ヴィンセントはあえなく失格になってしまいます。ショックを受けた彼は家を飛び出して姿をくらませてしまいます。しかし、実はヴィンセントは宇宙飛行士になる夢を諦めたわけではなくて、別人になりすますことによって宇宙飛行士になろうと決意したのでした。そして、闇医者と契約を結び、さらに優秀な遺伝子を持つものの事故で障害者になってしまったジェロームという青年とも契約を結んで、彼から遺伝子を提供してもらうことでヴィンセントはジェロームになりすますのでした。そして、航空宇宙局に局員としてまんまと潜り込むことに成功します。しばらくするとヴィンセントは成績優秀で宇宙飛行士としてタイタンの探査船の宇宙飛行士に選ばれます。大喜びしたヴィンセントですが、喜んだのも束の間、宇宙局内で殺人事件が起こります。ヴィンセントたちの上司が殺されたのです。そこでヴィンセントのまつ毛が見つかり、彼は正体がバレそうになります。さらに驚いたことに殺人事件を捜査しにきた刑事はなんとヴィンセントの弟だったのです。ヴィンセントはなんとか正体がバレないように苦心します。そして、ジェロームの協力もあってヴィンセントはなんとか正体を隠しおおせます。一方、殺人事件は真犯人が捕まり、ヴィンセントの正体がバレる恐れも完全に無くなります。しかし、ヴィンセントの正体を見抜いた弟が彼を待ちかまえます。ついにヴィンセントは弟と対決します。それも命を賭けて。夜の海で彼らは競泳をします。その結果、何をやっても敵うはずのなかった弟にヴィンセントは勝利します。ヴィンセントは喜びを胸に秘めて宇宙船に乗り込み、ついに地球を後にします。(他にも物語の中で恋人のアイリーンとのロマンスやジェロームとの友情が描かれています。)

さて、この作品で言いたかったことは遺伝子がすべてを決定するわけではなく、挑戦や努力で人は乗り越えられるのだということを表面的には表していると思います。遺伝子がすべてを決めるというような優生学のいい加減さや予定調和的な決定論的世界観に対して強烈な批判を浴びせているのだと思います。確かにそれはそうで、私も異論はないのですが、しかし、私が面白いと思うのはそこではなく、ただ一点、ヴィンセントと弟との対決がとても面白いと思うのです。

ヴィンセントと弟との対決、それは遠泳です。どちらが遠くまで泳げるかを競い合うのです。子供の頃に二人はやはり同じ遠泳で競い合ってヴィンセントは弟に負けています。遺伝的に身体能力が勝る弟が勝ったのは当たり前でした。しかし、ヴィンセントは宇宙飛行士になりたいという一心でずっとトレーニングを続けてきました。今もなりすますことによって宇宙局に潜り込んでいるくらい思いが強いわけですから。さて、二人は一斉に海に飛び込んで遠くへ遠くへと泳いで行きます。大人になった二人ですから、子供の頃とは違って、岸から遠く離れてはるかに遠くへと泳いで行きます。海は夜の闇に包まれて真っ暗です。岸の明かりがどんどん遠ざかります。弟は次第に息が上がってゆき不安にかられ始めます。こんなに遠くまで泳いでしまったら岸に戻れないのではないかとどんどん不安に駆られます。しかし、それでもヴィンセントは泳ぐことを止めません。どんどん前へと泳いでゆきます。弟はヴィンセントに戻ろうと声を掛けますが、ヴィンセントには届きません。弟は不安ながらも泳ぎますが、ついに力尽きて溺れてしまいます。そのとき、前を泳いでいたヴィンセントは弟に気づき、弟を助けて岸に戻ります。岸で息を吹き返した弟はヴィンセントにあんなに遠くまで泳いだら戻れなくなると思ったといいます。それに対してヴィンセントは戻ることなんてこれっぽっちも考えていなかったと答えます。

読者の皆さんは「一体これのどこが面白いの?」と不思議に思うかもしれません。なぜ、私がこれが面白いかというとここには青年の思想や、ひいては宇宙開発にチャレンジする思想が表れていると思うからです。青年の思想は失うもののない思想です。もし、家族を支える夫なら、危険な真似はできません。妻や子供のことを考えると死ぬわけにはいかないからです。しかし、青年は違います。失うものはありません。一途に突っ走ることができるのです。それは革命の思想でもあるのです。革命は既存の権力体制を転覆して新しい権力を打ち立てることですが、青年は既存の権力を転覆する起爆剤の役割を果たします。どんなに綿密な計画を練っても無謀な青年たちがいなければ実行力に欠け、革命は成り立たないのです。青年がいてこその革命なのです。

また、宇宙開発の思想にも青年の思想は流れています。宇宙開発はNASAを代表として今でこそ華やかな科学技術のスター的存在です。しかし、宇宙開発の初期は試行錯誤の中で多くのひとが死んでゆきました。実験と挑戦の中で死んでいったのです。ソ連がガガーリン少佐をボストーク1号で宇宙空間に打ち上げることに成功しますが、それまでに無数の挑戦者たちが死んでいます。表には出てきていませんが、無数の犠牲者が宇宙開発の歴史には捧げられています。(ガガーリン少佐自体、帰還後、訓練中に事故で亡くなっています。)しかし、どうしてそこまでして人類は宇宙開発に向かうのでしょうか?その理由としては人工衛星からの情報で天気予報や衛星通信など生活を便利にするためという理由もあるとは思います。しかし、私が一番の理由として考えているのは生存圏の拡大です。人類の生存圏を地球という一惑星から、さらに宇宙空間へ、別の惑星へと拡大するためだと考えています。生物の戦いは生存圏の拡大の戦いでもあったのではないでしょうか?水中から陸へ、陸から空へと生命は生存圏を拡大してきたと思います。そして、ついに宇宙空間へと拡大して地球以外の惑星でも、あるいは、人工衛星の中でも人間が生きていけるように生存圏を拡大しようとしているのだと思います。しかし、それを実現するためにはどうしても犠牲を必要とするのです。犠牲を恐れず、前だけを見て突き進んでゆく、そういう青年の思想に私は深く感動するのです。生命は自己保存の本能を持っているはずですが、それすら捨てて、ただひたすら宇宙を目指すのです。そこに生物を超えたものを私は感じて感動するのです。


竹宮恵子の漫画に『エデン2185』というSFマンガがあります。このマンガはエデン2185という別の惑星へ移民するために地球を遠く離れて航行している宇宙船の物語です。主人公シド・ヨーハンは父母を持たず、試験管を母体として生まれ、コンピュータを養父として育った青年です。彼の宇宙船の中での生涯の物語です。そのエピソードの中で最も印象深いのがシドが反乱者を鎮圧する事件です。宇宙船の中で少人数による反乱が起こります。彼らの目的は地球へ帰ること。長い宇宙船での生活に嫌気が指し、望郷の念にかられて地球に帰りたくなったのでした。彼らの犯行声明を聞いた市民たちも動揺しはじめます。市民たちも口にこそ出しませんでしたが、望郷の念をずっと抱き続けてきたからです。市民たちは反乱グループをどうするかで喧々諤々の意見を戦わせます。しかし、いずれも決定力に欠けています。なぜなら、自分たちの意見を主張する者も百パーセントの自信を持っていなかったからです。結論が出ないまま時間だけが過ぎてゆきます。しかし、そのときです。シドは反乱グループに会いたいと申し出ます。しかもたった一人で。反乱グループはたった一人であることに油断すると同時に仲間が増えると考えてシドを迎え入れます。しかし、シドは反乱グループに加わるために来たのではありませんでした。シドは単身で乗り込むと反乱グループを撃ち殺し、生き残ったものもハッチを開けて宇宙空間へ放り出してしまいます。たった一人で反乱グループを皆殺しにしてしまったのです。しかも少しも躊躇することなく冷酷に殺します。このシドの無謀で冷酷な行為に市民は驚きますが、次第に落ち着きを取り戻し、再びエデン2185へ向かう旅に出ます。シドはなぜこのような行為に及んだかというと許せなかったのです。一度地球を捨てて、すべてを断ち切って飛び出したのに、今さら後ろ髪を引かれるように、後戻りすることをシドは許せなかったのです。いったん飛び出したなら、たとえ死んでしまおうとも自分の意志を貫かねばならない。自分たちはイカロスかもしれない。しかし、それでも勇気ひとつを友にして飛び出さなけれならない。シドにはそういう覚悟があったのです。そのため、彼は反乱グループを許せなかったし、自分たちの意志を鈍らせる市民たちを許せなかったので、反乱グループをひとりで皆殺しにするという暴挙に出たのです。このようにシドにも青年の思想を見て取ることができると思います。

青年の思想にはいろいろなものを読み取ることができると思います。『ガタカ』のように遺伝子に対する挑戦であったり、宇宙開発のように地球圏の生物であるという限界に対する挑戦であったりもします。イカロスのように空を飛ぶことへの挑戦でもあったりもしますし、革命のように旧権力に対する挑戦でもあったりもします。様々なものへの挑戦が青年の思想には込められているとは思いますが、私が青年の思想に最も思うのは人間という限界づけられたものへの挑戦だと思います。例えば、マルクス主義も社会主義を経て共産主義に飛躍するとき人間は今ある人間の限界を超えて新しいタイプの人間に進歩するのだと考えました。レーニンの『国家と革命』でも人間は共産主義の最終的な段階で進化すると書かれています。つまり、人間という枠組みに限界づけられたものから、より優れた存在へと進化するのだと考えたわけです。そういった考えに対する賛否はともかく、彼らの根本に流れているのも青年の思想だと思います。確かに、今さら共産主義だのと笑っちゃうかもしれません。しかし、科学技術の思想も、今あるものを越えてゆこうとする意味においては青年の思想だといえなくもないと思います。人は今よりもより良くなれるのだと考えるのはすべて青年の思想だと言えるかもしれません。歴史を振り返ったとき、確かに文明は進歩してきた側面は否定できないと思います。進歩史観を無批判に称揚することはできませんが、しかし、進歩してきた事実もまた否めないと思います。これからも人間が進歩してゆくつもりなら、私たちはイカロスを笑えないのではないでしょうか。いえ、もっと言えば、私たちは第二、第三のイカロスとして犠牲を厭わず、前に進む強い意志を持たねばならないのではないでしょうか。いつの時代でも時代を切り拓いてきたのは、限界づけられたものを乗り越えようとする、この青年の思想なのではないでしょうか。そんなことを考えると『ガタカ』のヴィンセントが後を振り返らずに宇宙船の窓からただまっすぐに宇宙の彼方を見つめる気持ちが分かるような気がするのでした。

2013年6月30日日曜日

中沢新一『チベットのモーツァルト』


今回は中沢新一の『チベットのモーツァルト』を取り上げます。

私とこの本との出会いは1989年頃です。浅田彰を知ったのと同じタイミングで数学者の森毅経由で中沢新一のことを知りました。私が最初にを買った中沢新一の本は『虹の理論』でした。次に買ったのが河出文庫から出たばかりの『イコノソフィア』です。そして、その次に買ったのがこの『チベットのモーツァルト』と『雪片曲線論』でした。中沢新一の本はどの本も面白くて、当時は本当に夢中になって読みました。いえ、今でもたまに開いては読み返すことがあります。

さて、この『チベットのモーツァルト』ですが、中沢新一の処女作なのですが、本当に内容がいっぱい詰まった中身の濃~い本です。作家は処女作が最高傑作だとよく言いますが、中沢新一の場合も、もしかしたら、この『チベットのモーツァルト』を超えるような著作は希有なのではないでしょうか?また、私は単行本で買ったので分かりますが、中沢新一の本は装丁がどれも洒落ていてカッコイイです。もし、これから本を買われる方は可能であれば、是非、単行本で購入されることをお薦めします。


目次
本の調律
孤独な鳥の条件―カスタネダ論
チベットのモーツァルト―クリステヴァ論
極楽論
風の卵をめぐって
病のゼロロジック―暴力批判論
マンダラあるいはスピノザ的都市
夢見の技法
丸石の教え
視覚のカタストロフ―見世物芸のために
着衣の作法 脱衣の技法
ヌーベル・ブッディスト
砂漠の資本主義者


さて、内容ですが、どの章も極めて難解です。現代思想に関してある程度の基礎知識を必要とします。ですが、ガチガチの論理による読み難さはありません。むしろ、知性の知的センスを要求されます。感受性の鋭さと言い換えてもいいかもしれません。非常にソフトでしなやかな文章で三段跳びで石の上をポン、ポン、ポンとジャンプしながら軽快に飛び移ってゆくような高速な論理展開です。また、美しい伸びのある優美な文章でもあります。ですが、そこで展開されている知はデジタルで強靭です。彼以外の知性と彼を比べたら、真空管と量子コンピュータとの差があるくらい知性の差を感じます。内容は現代思想という最先端の知性とチベット密教という東洋の叡智がクロスしたもので私にはたいへん魅力的に感じられましたが、昨今の日本ではあまり受けないかもしれません。書かれた当時はまだチベット密教を感性として分かる下地が日本人にはかろうじてあったかもしれませんが、今の日本は完全に近代化されたので、そういう感性は根こそぎ抜き取られて根絶やしになってしまったと思います。しかし、現代思想について言及された部分だけを取り出して読んでもそこには天才的な閃きがあると思います。是非、読んでみることをお薦めします。

なお、どの章もお薦めなのですが、あえて選ぶとすれば、『チベットのモーツァルト-クリステヴァ論』と『病のゼロロジック-暴力批判論』でしょうか。『極楽論』も本人が細野晴臣との対談本『観光』で一番出来が良かったと言っていたのでお薦めかもしれません。しかし、クリステヴァ論と暴力批判論は現代思想にとって極めて重要な論考になっていると思いますので是非読んでみることをお薦めします。ここで言及されていることを現代の哲学者は何ひとつ超えられてはいません。いえ、むしろ、後退しているくらいです。一見、現代思想のテキストは流行の旬が過ぎたように思われるかもしれませんが、案外、ここに書かれているのは流行とは関係のない哲学にとって普遍的な内容だと思います。

さて、最近の若者からは中沢新一は宗教的な内容を含むために低く評価されているかもしれません。ですが、現代思想の部分だけを取り上げてみても、他の論客は彼の足元にも及ばないと思います。喩えて言えば浅田彰が秀才だとしたら、中沢新一は天才です。ただし、天才とバカは紙一重というように彼にもちょっとそんな面があると思います。彼の知性の速さが彼を軽薄に見せてしまうのかもしれません。また、実際、彼の知性をまったく理解できない人たちがいるのも事実です。なぜ、そうなるのかは上手くは説明できませんが、ドゥルーズが人間の知性を科学と哲学と芸術の3つのベクトルに分けましたが、彼らには芸術という方面への感受性が欠けているのではないかと思います。彼らはとても論理的でニュートン力学のように明晰なのですが、しかし、もし彼らが昔に生まれていたら、果たして彼らは無限という概念を創出しえただろうか、あるいは、詩というものを創出できただろうかと少し疑問に思います。なにかそういった方面への知覚や感受性が彼らには欠けているのではないかと思います。ともかく、こんな話をしてもあまり生産的ではありません。それよりも、むしろ、私たちのアンテナの感度を上げて彼の知性が描くなめらかで優美な軌跡を感じ取ることができるように耳を澄ました方が良いと思います。扉はまだ開かれてはいません。感性の扉を開いてドアを押し広げたとき、私たちの目の前にはこれまで見たことのない色鮮やかで生気に溢れた世界があることにはじめて気づくと思います。

2013年6月29日土曜日

フィリップ・K・ディック『ユービック』

 

今回はフィリップ・K・ディックの『ユービック』を取り上げます。なお、最初にお断りしておきますが、ネタバレで話しますので未読の方はご注意下さい。
 

さて、この物語は読んでいる最中は謎に満ちていましたが、読み終わってみれば、物語はとてもシンプルで「なあんだ、そういうことか!」と言った感じになります。しかし、よくよく考えてみると、この作品には実にユニークなディック特有の世界観や人間観が詰まっています。読み終わって全体を振り返ったとき、「なるほど!作者のディックが言いたかったのはそういうことか!」と大きくうなずくことになります。

まず、あらすじは次のようなストーリーです。超能力者と超能力者の超能力を無効にする力を持った不活性者たちがいる未来社会です。そこでは超能力者が超能力を使って社会に悪影響を働きかけるという問題のある社会です。そのため、悪い超能力者を捕まえることを専門とする会社があり、日夜、超能力者と戦っています。さて、超能力者を捕まえる会社で働く主人公チップは超能力者を狩るために不活性者たちを月に集結します。しかし、事前に超能力者たちに察知され、超能力者たちが仕掛けた爆弾でチップと不活性者たちは多大な損害を負います。チップたちのチームは半数を失い、残りの半数の多くは負傷します。チップたちは這々の体で地球に帰ります。ところが、帰ってきた地球では妙な現象が起こるのことに気づきます。それは時間退行現象といってその名の通り彼らの周囲の物の時間が退行してゆきます。(←この辺は本書でご確認下さい。)そして、一人ひとりが死んでゆくのです。彼らは逃げまわった挙句、チップの勤める会社の社長ラシターに救われます。一体、何が起こっているのでしょうか?実はチップたちは超能力者の仕掛けた爆弾でやられてしまい、生き残っていたと思っていたが、実は大怪我のために半死状態でコールドスリープされていたのです。しかし、コールドスリープされた人たちは、夢を見ているような状態で意識があり、その意識の世界をまるで現実の世界のように暮らしているのです。ところが、半死者たちの中にも特殊能力を持った者がいて、そいつはチップたちの意識を惑わす特殊能力を持った半死者だったのです。そのため、半死者となっていたチップたちは襲われ、時間退行現象という能力者の術中にはまってしまったのでした。しかし、この時間退行現象に対抗するものが1つだけありました。それがユービックだったのです。ユービックとはスプレーで、唯一時間退行現象を無効にすることができる力を持っています。ただし、だからといってユービックで敵の半死者を倒すことはできません。単に時間退行現象を相殺するだけの力です。結局、チップたちはこの意識の世界でも超能力者と戦った現実世界と同じように狩ったり狩られたりする者としての戦いが繰り広げられるのでした。

さて、この作品で描かれた世界観はひとことで言うと捕食的世界です。それは地球の生物たちを見ても分かるように生き物たちは基本的に捕食の関係にあります。例えば、蚊を食べるトンボ、トンボを食べる小鳥、小鳥を食べる鷲というように様々なところに食物連鎖があります。そして、人間の世界も超能力者と不活性者というように捕食の関係になっているのです。また、私たちの資本主義社会も似ていると思います。市場というフィールドで繰り広げられるのは企業たちの競争です。そこでも企業同士で捕食的世界が繰り広げられています。企業は利益を上げることに血眼になり、ついには企業合併で他の企業を飲み込んでしまいます。あるいは、競合相手を廃業に追い込んだりします。資本主義社会における企業も捕食的世界を生きているのです。この作品ではそういった資本主義の未来社会でも新たに超能力者を加えた捕食的な世界になっており、さらに半死状態の世界までもが食うか食われるかの捕食的世界を演じているのです。どこまでも続く捕食的世界・・・。人間はいつまでも、たとえ半死状態になっても、この捕食的世界で食うか食われるかを生き続けねばならないのです。

さて、このような捕食的な世界を生きる人間はどのような人間なのでしょうか?答えは簡単で大き過ぎもせず、小さ過ぎもしない、等身大の大きさの人間なのだと思います。なんのことか分かりにくいかもしれませんね。簡単に言えば本作の主人公チップや社長のラシターのような普通の人たちです。アメリカ社会で働く普通の人々といった方が良いかもしれません。ここで少しアメリカ社会について考えてみましょう。例えば、世界で一番労働時間の長い国はどこか分かりますか?もしかしたら、日本と答えた方もいるかもしれませんが、正解はアメリカです。アメリカは世界の人々から拝金主義だの資本主義の権化だのと嫌われることが多いですが、実は世界で一番の働き者の国でもあるのです。とはいえ、世界で一番の働き者でありたいなどとアメリカ国民は望んでいないかもしれませんが。ともかく、どんどん仕事をできるような環境にするためか、アメリカの大都市はどんどん眠らなくなっているみたいで、いわば24時間営業になりつつあるようです。それだけ人々はローテーションを組んでこまめに働いているのではないでしょうか?でも、そんなに働くと誰しもくたびれてきますよね。ヨレヨレの服みたいに肉体だけでなく、精神もくたびれてくるのではないでしょうか?ディックの小説に出てくる人たちも実はそういった人たちが多いのではないでしょうか?くたびれているとは言っても行き詰まったということではなくて、それでも仕事を滞らないように回してゆくという感じでしょうか。ディックの小説は主にパルプ・マガジンと呼ばれる娯楽誌に掲載されることが多かったそうです。読者は仕事で疲れているので、あまり深く考えずに軽く読んで楽しめるような読み物が多かったと思います。ですから、大衆小説と同じで出てくる登場人物がみんな読者たちと同じ等身大の人間で人情とちょっとしたロマンスと冒険があるような話が多かったのではないでしょうか。そういった人々が活躍する場を現代社会ではなくSFに置き換えたのがディックの小説のように感じます。ディックの人間観はそういった現代社会で忙しく働いて色褪せた日常生活を送る普通の人々なのです。ディックの人間観が最もよく表れていると私が思うのは、ディックの他の作品になるのですが、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の序文で述べられた文章です。(ちなみにこの『三つの聖痕』はディック的要素が万遍なく詰まったディック小説です。)以下、序文です。

つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切りぬけられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?

この序文にディックの人間観がよく表れていると思います。ハードボイルドのように格好つけることもなく、深刻ぶることもなく、ときに俗物的な面もさらしたり、惨めな気持ちでへこんでしまったり、笑顔で話しながら頭の片隅でちゃっかりと金銭の計算をしていたり、ひとりよがりなロマンスの妄想をしたり、ディックに出てくる人間はごくありふれたアメリカの労働者の姿なんだと思います。

これは他の作家と比較してみるとより鮮明に分かると思います。例えば、サイバーパンクの雄ウィリアム・ギブスンとは明らかに違います。ギブスンの場合、主人公たちはアウトローでアナーキストです。個人の力で組織に立ち向かうハッカーです。『ニューロマンサー』のケイスや『カウント・ゼロ』のボビーのような電脳カウボーイです。ところが、ディックの場合、主人公は組織に属するサラリーマンです。ギブスンの主人公が青年や少年だったら、ディックの主人公は『電気羊』のデッカードのようにくたびれた中年です。俳優で喩えたら前者がキアヌ・リーブスで後者がブルース・ウィリスです。私としては、できればギブスンの描く格好いいアウトローになりたかったものですが、現実にはそうも行かず(笑)、そうなると仕事に忙しく追われるディックの描くくたびれた中年になるのが現実で、(才能のある若者は是非ギブスンの方を目指して下さい。)、私たちに近いそういった登場人物に共感するかもしれません。もちろん、パルプ・マガジンの需要として読者が共感しやすくするためにわざとそういった人物を描くようにしたのかもしれませんが。

ともかく、SFで描かれる未来は輝かしいユートピアか恐ろしいディストピアになりがちで、そこで描かれる人間像もどちらか一方に偏ったタイプの人間になりがちです。しかし、ディックの描く人間は、どんなにテクノロジーが発達した未来になっても、現代社会を生きる私たちと同じように仕事と生活に追われるという、まるで現代人である私たちと同じ人間の姿なのです。そして、目の前の困難に対して、ちっぽけな力しか持たない人間がそのちっぽけな力にも関わらず、自分でやれるだけのことはやるという、宇宙や神から見たら愚かでちっぽけな存在に過ぎないのだけれど、それでも精一杯に一生懸命に生きる人間の姿なのです。

さて、この『ユービック』はフィリップ・K・ディックの入門書としては最も適した作品のひとつだと思います。非常に分かりやすくディックの世界を堪能できると思います。ディックの他の作品と共通する世界観や人間観が描かれていると思います。もちろん、SF的要素も十分に楽しめると思います。ですので、SFが苦手という方もディックの小説をまだ読んだことがないという方も、是非、『ユービック』を一読してみて下さい。

あ、それから、この『ユービック』だけでディックのすべての面が捉えられるというわけではありません。ディックにはもっと奥深い他の側面があって、それは哲学的だったり、サイケデリックであったり、神学的であったり、神秘主義的であったりします。いわゆる幻視者としてのディックです。それは『聖なる侵入』に代表されるヴァリスシリーズやインタビュー集『ラスト・テスタメント』の世界です。これらについても、このブログで追々取り上げてゆきたいと思います。

2013年6月28日金曜日

基地問題における鳩山由紀夫に対する評価について

最近、鳩山由紀夫に関連して思ったことをここに書いておく。また、自分の方針を一部変更したこともここに記す。世間の一般的な反応をやや腹立たしく思ったために言葉が荒々しくなったことを断っておく。

(なお、文中の沖縄米軍基地問題は正しくは普天間基地県外移設問題なのだが、方向性としては基地撤退には違いないので、分かりやすく考えるために米軍基地撤退として考えた。そもそも県外移設すらできないのなら、米軍基地撤退など到底無理な話だろう。ともかく、ここで話しているのは大筋の話だ。言葉の正確さを保っていたのでは話は膨大な量に膨らんでしまう。ともかく、大筋の話だ。)

まず、鳩山由紀夫に対する世間と私の評価について書かなければならないが、その前に私の立場を書いておく。私は基本的には米軍基地は日本から撤退すべきだと考えている。理由は日本は独立国であり、基本的に独立国は他国の軍隊の駐留を認めるべきではないからだ。自分の国は自分の国の軍隊で守る、これが大原則だ。ただし、場合によっては駐留を認めるという例外はあるだろう。例えば、アフガン戦争のときにカザフスタンは基地を米軍に貸した。そのような場合は許されるが、平時に常駐するというのはありえない。歴史的経緯で言えば、第二次世界大戦で日本は米国の敵国であり、敗戦したために米軍が駐留したのが発端だった。それは理解できる。しかし、あれから50年以上も経過しており、なおかつ近隣諸国と友好関係も結んでいるのに米軍が常駐しなければならない理由はない。実質的には防共のために米軍を常駐させたのだが、それは理由にならない。独立国がどのような政治体制を敷くかは独立国の自由だ。まして日本は共産化することはもはやあり得ない。したがって、米軍が日本に駐留する正当な理由はない。

さて、上記のように私の立場を明確にした上で、次に鳩山由紀夫について私の評価を述べる。鳩山由紀夫の方向性としては沖縄米軍基地を撤退させる方向で動いていた。普天間基地県外移設を公言して真剣に取り組んでいた。しかし、国のトップである首相の鳩山由紀夫にも県外移設は実現できなかった。彼は県外移設を実現すると公言したにも関わらず、実際には実現できなかったために責任をとって辞任した。その後、彼のあとを継いだ首相たちはどうだったか?菅直人にしろ、野田佳彦にしろ、沖縄米軍基地問題に真剣に取り組もうとはしなかった。米軍基地撤退が現実に実現できるとは考えなかったからだ。もちろん、自民党に政権交代して安倍晋三が首相になってからは、米軍基地容認の立場だから撤退どころの話ではない。こうなってみると、誰が一番米軍基地撤退に向けて真剣に取り組んだかというと鳩山由紀夫以外にいないという結論になる。

ちなみに、ここで、「いや、社民党や共産党が米軍基地撤退を訴えている」と主張する意見があるかもしれない。しかし、これは意味がない。なぜなら、米軍基地撤退を実現するためには、その前に実現しなければならないことがあるのだが、残念ながら彼らはそれを絶対にクリアーできない。それは彼らが政権与党になることだ。しかし、社民党や共産党が政権与党になることは絶対にありえない。米軍基地撤退よりも彼らが政権与党になる方が実現可能性が低い。もちろん、連立して政権与党に入る可能性はある。しかし、それとて与党に横から口出しするのが関の山で実質的な決定権は彼らにはない。これは社民党が実証済みだ。社民党は県外移設を主張したがまったく受け入れられず連立与党から離脱するハメになった。したがって、彼らがいくら米軍基地撤退を訴えても、実際にそれを実現する力は彼らにはないのだ。実績がそれを証明している。すなわち、彼らは評価の対象外だ。もちろん、彼らが米軍基地撤退を訴えるのは自由だ。しかし、それを私が支持政党を選択する指標の1つに加えることはもはやない。なぜなら、不可能なことは指標に入れても仕方ないからだ。

私が腹立たしく思うのは米軍基地撤退派が鳩山由紀夫を低く評価することだ。自民党のような反対派が鳩山由紀夫を低く評価するのは理解できる。なぜなら、米軍基地を本気で撤退させようとしたからだ。反対派とは真逆の方向だ。ところが、撤退派の人まで鳩山由紀夫を低く評価する。これは不当な評価だと思う。上記でも述べたように最も米軍基地撤退に尽力した政治家は鳩山由紀夫だけなのに、それをまるで恩を仇で返すようにして彼を低く評価するのだ。彼らは「他の政治家ならきっと米軍基地撤退をできたはずだ」と考えているのかもしれない。ところが、そんな政治家はどこにも存在していない。どこにも存在していない者と比較して鳩山由紀夫を低く評価している。実に間違った考え方だと思う。

さらにおかしなことがある。沖縄県民だ。沖縄県民は基地撤退にあれだけ尽力した鳩山由紀夫を非難しておきながら、その後の選挙で基地容認派の自民党を選択しているのだ。これは明らかに沖縄県民は米軍基地容認を選んだことになる。鳩山由紀夫にダメ出ししておきながら、その直後に真逆の基地容認に転ずる。結局、「撤退を試みたけどダメだった。仕方ないので容認派に転ずる」という思考のプロセスがあったのだろう。つまり、沖縄県民は基地容認という現実的な選択をしたということだろう。

私は原理的に、かつ、心情的には沖縄米軍基地は撤退すべきだと考えている。しかし、それは現実的ではないということが鳩山由紀夫の試みで分かった。もはや米軍基地撤退は大きく世界情勢が変わらない限り、変わることはないだろうと思う。政治は現実的に考えて取り組まねばならないと考えている。したがって、米軍基地撤退に関して、もはや、私の政策課題にこれを組み込むことはしない。実現不可能なことは政策課題に入れても仕方がないからだ。支持政党を選ぶときの政策課題に米軍基地問題を加えることはもはやない。また、私は民主党を支持しているので、民主党のマニフェストに米軍基地撤退を明記するようなことはしてほしくない。加えるとしても、それはかなり先の課題として加えるにとどめてもらいたい。先というのはおそらく10年20年ではないだろう。もっともっとずっと先ではないかと思う。いつになるのかは分からない。なぜなら、日本国内の事情で変わることはないからだ。変わるとすれば、米国や他の諸外国の事情で変わるだろう。残念だが、日本に米軍基地撤退を決める実質的な決定権はない。

私は長い間、米軍基地撤退派であり、口先だけでなく、実現すべく実際に試みたいとずっと思っていた。そして、そのチャンスが鳩山由紀夫首相のときに巡ってきた。しかし、残念ながら、そのチャンスは活かせなかった。基地問題は一歩も進まなかった。彼を応援したけれどダメだった。かつて私は試みもせずに諦めるのはおかしいと思っていた。何もせずに最初から諦めるひとに批判的だった。だが、私の場合は鳩山由紀夫を応援することで基地撤退を試みたけどダメだったということだ。何もせずに諦めたわけでなく、やってみたけれどダメだったという試みた事実がある。つまり、私が基地撤退が不可能だと判断する理由は、何もせずに想像で判断したのではなく、実際に試みてみた上での判断だ。想像ではなく、事実に基づく判断だということだ。

したがって、今後、私は基地撤退に関しては現実的には不可能だという立場に立とうと思う。もちろん、積極的な容認ではなく、仕方なく消極的に容認せざるをえないという立場だ。もし、鳩山由紀夫を貶す基地撤退派のひとが私を説得するつもりならば、鳩山由紀夫以上の実績を上げた政治家で実際の事例を上げて説得してほしいと思う。この世には存在しないのにそれを持ち出してきて、鳩山由紀夫より優れていると主張するのはナンセンスだ。誰だって鳩山由紀夫の欠点を並べることは容易だろう。だが、彼らは存在しない架空の政治家をいくら持ち出したって仕方がないではないか。架空の政治家では欠点を上げることすらできないではないか。政治はそういう夢想家といつまでも付き合ってはいられない。政治は現実と向き合わねばならない。私のことを撤退を諦めたと言って非難するだろうか?だが、実現できないことをいつまでも言うのは不平不満を述べて自分のストレスを解消をしているのと変わらない。寝言を言っているのと同じだ。政治はそんな寝言にいつまで付き合ってはいられない。説得するつもりがないのも結構だ。いつまでも少数野党でいればいいだけの話だ。説得するつもりなら実績を作ることだ。だが、万年少数野党では実績の作りようがない。したがって、実質的にはこの議論は終わっている。

長くなったので私の主張していることが伝わらないかもしれない。そこで、繰り返しになるが、結論をもう一度書いておこう。つまり、結論とはこうだ。私は考え方としては米軍基地撤退派であり、基地問題に対してとった鳩山由紀夫の行動を高く評価している。同時に鳩山由紀夫を低く評価する基地撤退派は現実が見えていない人たちであり、不当に低い評価だと考えている。また、私としては、基地撤退を試みたがそれが成し得ないことが鳩山由紀夫という事例で分かったので、今後はその経験を踏まえて基地撤退は現状では不可能と考え、私の政策課題から外すこととする。以上。

ちなみに、原発に関しても、近々、方向修正しなければならないかもしれない。私の立場は時間をかけて徐々に脱原発を進めるという脱原発派だ。だが、官邸前デモの脱原発派に対する世間の評価はどんどん下がってきているのではないかと思う。評価が下がる理由は選挙後も彼らが自分たちの主張を修正することも推進派と意見を擦り合わせることもしなかったからだと思う。頑なに自分たちの主張だけを押し付けたと思う。しかし、自分たちだけの意見を一方的に押し付けるのはおかしい。民主主義においては異なる意見と折衷案を見出して妥協しなければならないはずだ。それなのに、彼らは自分たちの主張を一歩も譲らない。これでは世間の評価が下がるのも頷ける。もちろん、これは推進派にも言えることだ。だが、推進派は少なくとも妥協する姿勢は見せている。もちろん、上辺だけだとは思うが。だが、それでも民主主義の手続きは踏んでいる。したがって、脱原発派は選挙結果を踏まえて、表現を変えるか、主張を修正するか、すべきだと思う。

(おおげさに言えば、私の言っていることが正しいかどうかは後世の歴史家が評価してくれると思う。後世の評価において当時の人々がいかに愚かだったかということはよくあることだ。ま、現実を変えられなかったという点では私もその愚かな人々とまったく同じなので、愚かさには大した変わりはないんだがね・・・。それにしても、先のことを考えると憂鬱だ。次の参院選では民主党は惨敗して党存続の危機に陥るだろうからだ。だが、その結果、迎える日本の政治はどうか。自民党が圧倒的多数で第二政党が公明党になるだろう。実質的な自民党一党独裁政権だ。しかも、それに対抗する野党も保守系がほとんどでリベラル政党は日本の中では少数派になってしまうと思う。私のようなリベラル政党支持派にはなんとも嘆かわしい話ではないか。)