2013年4月25日木曜日

細田守監督『おおかみこどもの雨と雪』

 
 
遅ればせながら、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』をようやく見たので感想を書いておきます。以下に感想を断片的に列挙してゆきます。



1.メタモルフォーゼ
まず、アニメの基本的な表現でメタモルフォーゼというのがありますが、この作品では人間から狼へ変身するというメタモルフォーゼがスマートに描かれていて「さすがアニメならでは表現だなあ」と感心しました。実写では不自然だったり、気味悪かったりするメタモルフォーゼがアニメでは微笑ましく楽しく見ることができました。

2.CG技術
山とか雨水とか霧とかのCG技術が私には不思議とリアルに感じられました。作品を観ていたときに「これはCGだ」と分かるのですが、だからといって「CGだってバレてるからダメ」というわけではありませんでした。CGだと分かるのですが、その描写が私には妙にリアルに感じられたのです。観ていたとき「これは実写を混ぜているんだろうか?」と思ったくらいです。おそらく、効果として使っている部分のCGだと思うのですが、それがなぜか現実に感じたものと同じようにリアルに感じさせました。たぶん、今までも使われてきたCG技術で特に変わった技術を用いていないのではないかと思うのですが、コンピュータの処理能力の向上でしょうか、なぜかリアルに感じました。

3.シングルマザーの子育ての大変さ
シングルマザーの子育てと言っても花の子育ては狼人間の子育てなので普通の人間の子育てとはちょっと違いますが、それでもそういった特殊な設定にすることでかえってシングルマザーの子育ての大変さが浮き彫りになったように思います。特にシングルマザーが社会から孤立してしまう環境というのが見えるのですが、ただ、この作品の主人公・花はそれを眉間にシワを寄せて苦労するというのではなく、苦労しながらも楽しく子育てしているので孤立することによる陰鬱なイメージを和らげていました。(それから、子供たちが部屋をおもいっきり散らかしたり、あるいは、雪が冷蔵庫と家具の隙間に座ったりと子供らしさが微笑ましかった。いや、子育てしている親としては大変だと思うけど(笑)。)

4.学校
学校という場が同調圧力などヒトを一定の枠にはめ込んでしまうのが見えました。雨が学校に馴染めなかったり、上級生にいじめられたりする場面は狼人間に限らず、普通の人間にもあることです。また、雪が他の女の子と趣味嗜好が違うのも同調圧力の一種だと思います。帰国子女にそういった趣味嗜好の違いがあるケースがあると思います。このように学校教育は規範ができる反面、自由な精神が阻害されてしまいます。果たして学校教育というのは本当に良い教育なのでしょうか?

5.農家
この作品は数あるアニメ作品の中では比較的リアルな農家を描いた作品だったのではないでしょうか。多くの作品は牧歌的に、あるいはエコロジカルに描いたりする作品が多いと思います。宮崎駿などはそういったイメージが強いです。しかし、それに比べて本作は比較的リアルな農家を描いていたと思います。

6.物語の分析
さて、いよいよ作品分析です。この物語の主軸について考えます。先に答えを言うと、この物語は異類婚姻譚を混じえた魔法昔話の一種で、魔法昔話の現代的な変形だと思います。

まず、異類婚姻譚とは何でしょうか?異類婚姻譚とは人間と人間以外との生き物が結婚するお話で、例えば日本の昔話で言えば人間と鶴が結婚する『鶴の恩返し』などがそうです。異類婚姻譚は人間にはない異類の特殊なパワーが話のポイントになります。おそらく、動物が持つ特殊能力がそういったお話を発想させるのだと思います。例えば、犬は人間には聞こえない犬笛を聞くこともできるし、人間には分からない微かな臭いも犬は嗅ぎ分けられます。動物と深く関わって生きていた昔の人たちは動物には人間にない特殊な力を持っているとたびたび感じたことでしょう。

次に魔法昔話ですが、魔法昔話の典型的なパターンは人間社会で生きてゆくのに行き詰まった者が絶望の果てに森に迷い込んで死にそうになるのですが、そこで魔女や魔法使いから魔法の不思議なパワーを授かり、再び人間社会に戻ってその不思議なパワーを使って成功するという話が多いです。実は異類婚姻譚も動物のパワーという不思議なパワーを授かって、その不思議なパワーで成功するという場合もありますので、異類婚姻譚も一種の魔法昔話に分類されるかもしれません。

さて、本作『おおかみこどもの雨と雪』ですが、これら魔法昔話に当てはめて考えるとどうなるでしょうか?魔法昔話の典型例で考えれば、普通なら

絶望して死にかける→魔法を手に入れる→魔法によって成功する

というのが典型パターンのはずですが、この『雨と雪』の場合はちょっと違います。魔法のパワーを手に入れるのですが、それが実生活に役立つことはほとんどありません。この物語を異類婚姻譚と考えても同じです。狼の特殊能力は人間の生活にはほとんど役立ちません。せいぜい裏の畑が野生動物に荒らされなくなるくらいです。近所の農家がイノシシに畑が荒らされているのに花の畑だけがイノシシに荒らされないで済むのはイノシシが狼人間がいるのを恐れて花たちの畑に近づかないからだと思います。しかし、実生活で役立つのせいぜいそれくらいで、それ以外は特殊能力はほとんど役立ちません。かえって正体がバレる原因になりかねません。つまり、現代社会においては魔法や動物の特殊能力は昔話の主人公たちを成功させたようには役立たなくなっているのです。かつて魔法は富や名声をもたらしましたが、現代では無意味な代物になっているのです。

さて、雪と雨は狼人間のままでは社会に受け入れられません。彼らには人間として生きるか、狼として山に住むかのどちらかしかありません。結局、雪と雨はそれぞれ違った選択をします。どちらが良い悪いではありません。彼らにとって生きやすい世界、生きたい世界を選んだだけです。この辺りは人間社会と動物世界のどちらにも軍配を上げておらず、ある意味でフェアな見方かもしれません。例えば宮崎駿を考えてみると、近代文明を捨てて中世社会に逆戻りするような選択をする作品が多いです。『天空の城ラピュタ』とか『未来少年コナン』とかです。まあ、文明に対して批判的であるのは良いのですが、現代文明をまるごと否定して、時代に逆行して中世社会に果たして戻れるのかという疑問はあります。しかし、本作では現代文明を真っ向から否定はしません。文明も自然もどちらにも進むべき可能性が残されています。

ただもし、あえて良し悪しがあるとすれば、それは異類を受け入れられない現代社会が悪いと私は思います。シングルマザーが孤立する社会、あるいはシングルマザーを同じ規格に同調させようとする社会、あるいは同調圧力のある学校やよそ者をすんなりとは受け入れられない農村社会とか、これらは多様性を認めない了見の狭い社会、狭量な社会です。もちろん、狭量な社会の側にも言い分はあります。異分子は社会の規範を守らず、社会に迷惑など神経を逆なでする負担をかけるからです。確かに同質の者同士が規範を守る社会は同質の者たちにとっては住みやすい社会かもしれません。しかし、そうではない自由な精神をもった自由な生き方をする者にとっては規範に縛られた社会は非常に住みにくい社会です。この作品に対して批判的である人たちには、規範に縛られた不自由さのためにストレスを抱えており、逆に花のように自由に生きている人たちに対してヤッカミにも似たような否定的な意識が働いているように私には感じられます。「花のような自由な生き方は現実にはありえない。日本社会では花のような自由な思想や振る舞いは許されるわけがないのだ」というような考えが無意識に働いているように感じられます。ある意味、思考の手足を縛られた自由にものを考えられない不幸な人たちなのかもしれません。

さて、話をまとめると、この『おおかみこどもの雨と雪』という作品は魔法昔話の一種かもしれないが、かつての魔法昔話が魔法によって成功する話だったのが、現代社会では魔法はもはや成功の足しにはならず、逆に社会に居場所がなくなってしまう原因にもなりかねない、役立たずでやっかいな代物というように捉えることができると思います。人間社会が高度にシステマティックに組み上げられているのとは対照的に、狼人間のプリミティブなパワーは実生活に役立つことは何ひとつないのです。しかし、狼人間たちは狼に変身して大地をおもいっきり駆けまわったり、スリリングな狩りを楽しんだりと生き物に本来備わった能力を全開で発揮することができます。狼人間の特殊能力は生きている実感とでもいうようなプリミティブな悦び、原初的な悦びを彼らにもたらしてくれます。人間は文明を築いて生きやすい環境を作ってきましたが、そういった悦びをなくして果たして本当に生きる意味があるのかと狼人間は私たち人間に問いかけているように私には感じられます。狼人間には人間社会で生きるという道以外に生きる実感を得るために山に還るという選択肢がありました。しかし、私たち人間には狼に変身して山に還るという選択肢はありません。生きる実感を取り戻すためにはどうすれば良いのか、私たちはよく考えなければならないと思います。

7.駆けまわることの楽しさ
さて、最後にこの作品で印象的なものがあります。それは駆けまわることの楽しさです。私の個人的な体験ですが、私は田舎育ちで犬も飼っていましたのでこの感覚はよく分かります。冬に犬を連れて近くの田んぼに行って一緒に駆け回ったことが何度もあるからです。駆けまわるときの犬の楽しそうなことといったらありません。犬が本当に活き活きとしているのです。目がキラキラと輝き、ハアハアという息から充実感が滲み出ています。全力で地面を蹴って駆けること、肉体を躍動させることがどんなに楽しいか犬もよく分かっています。雨と雪、そして花も雪の中を駆けまわって最後に笑って地面に寝っ転がりますが、本当に笑いがこみ上げ来るくらい駆けることが楽しいのです。この作品では、他にも狩りをすることの楽しさを描いた場面もあります。狩りをすることも駆けることと同様に、いえ、もしかしたら、それ以上に楽しいかもしれません。ここではこれ以上説明しませんが、狩り、狩猟の楽しさを知るためには動物文学を読むことをお勧めします。バイコフやシートン、あるいはトルストイにそういった狩猟の楽しさを伝える作品があります。



追記
文章全体を書き終わって改めて考え直してみたら、オーソドックスに見れば、この物語は魔法昔話というよりは異類婚姻譚の一種といった方が正確だと思う(爆)。もう面倒だから文章を書き換えないけど(苦笑)。

2013年4月22日月曜日

アート鑑賞について

アート鑑賞についてちょっと気になったので書いておきます。

アートを鑑賞することで人は何をしているのでしょうか?その答えは意味を見つけ出しているのです。そのアート作品を鑑賞することでそこから何らかの意味を見つけ出しているのです。見つけ出された意味はその人だけの意味かもしれませんし、他の鑑賞者と同じ意味を見出しているかもしれません。いずれにしても、どちらでも構いません。他人にとって意味がなくても、その人にとって意味があればそれで良いのです。その人にとってはそれがアート作品です。たとえ他人にとっては意味のないガラクタであっても!また、例えばAとBの2つのアート作品があったとします。そのどちらが優れているかなどというのはあまり意味がありません。私にとってはAの作品の方が重要な意味があったとしても、他人にとってはBの作品の方が重要かもしれません。アート作品の意味は人それぞれで違ってくるからです。ともかく、アート鑑賞において人々がやっていることは自分の感覚器官を開いてアート作品から意味を感じ取っているのです。そして、見い出された意味がその人にとって新しい意味であれば、驚きを伴った喜びになるわけです。

さて、そういったアート鑑賞において大事なことは何かというと自分の感覚のチャンネルを偏見や先入観や固定観念にとらわれずに開いておくことです。といっても、そんなに無理をしなくてもかまいません。肩の力を抜く程度だと考えていいでしょう。それに、多少の偏りがあったとしても大丈夫です。むしろ、それがフックとなって何らかの意味を作品から引っ掛けてきて、ひいては自分自身の精神分析になる場合もあるからです。ともかく、基本的には固定的なものの見方に囚われずに自由なものの見方ができるようにしておくことです。アートの鑑賞の仕方が分からない人の中で勉強熱心なタイプの人はわざわざアート作品の解説書などを読んで、解説書の見方を頭に叩き込んだ上で当のアート作品を鑑賞したりする場合があります。せっかくアートを鑑賞しても解説書通りの見方しか出来ない人がいます。さらには解説書が提示している見方しか認めずに、その見方に沿わない作品を貶したりする人までいます。そうなっては本末転倒です。本来、アート作品は頭脳を柔軟にするものです。未知なモノに対してそこから意味を引き出せるように柔軟に心のチャンネルをひねられるようにするためのものです。ラジオのチューナーをひねって周波数を合わせるように作品の意味に合わせるように心のチャンネルをひねるのです。ところがそうせずに最初から決まり事でもあるかのように決まった見方に凝り固まってしまったのではアート鑑賞をする意味がありません。(もちろん、そういうのが分かった上で解説書を比較のためや自分の見落としを補うために利用するのはかまいません。しかし、最初からその見方しかなないと決めつけて解説書通りの見方しか出来ないようであれば、解説書を見ずに作品を鑑賞して、まずは作品から何かを感じるとることから始めることをお勧めします。)

さて、では、心のチャンネルをひねるとはどういうことでしょうか?これは言葉で説明するのはなかなか難しいことです。例えば、森の中に入ってたくさんのセミが鳴いていたとしましょう。そのとき、ある珍しい種類のセミが鳴いているのに気付いたとします。それを一緒にいる仲間に伝えるとき、どんな音が聞こえるかを伝えることはできます。しかし、その音を聞き分けるためにどのように聞くかというのを伝えることはできません。単に耳を澄ましてよく聞いて下さいとしか言えません。聞き分け方というのは自分でチャンネルを合わせるしかないのです。といっても、これではあんまりですので、もう少し説明を試みます。たとえば、諺に「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というのがあります。これは幽霊が見えて恐ろしく感じたのですが、よくよくその幽霊を見てみると、なんのことはない枯れたススキが幽霊のように見えただけだった、所詮、幽霊なんておらず、単に枯れたススキが錯覚で幽霊のように見えただけだったという話です。しかし、これは逆にいうと枯れたススキに幽霊という意味が宿ったということができます。つまり、単なる枯れたススキであっても見方を変えれば、それは幽霊に見えたりするわけです。これをアート鑑賞に喩えていえば、ガラクタの寄せ集めに過ぎなかった作品がそこに何らかの意味を帯びてアート作品になったということが言えるわけです。心のチャンネルをひねるとはそのように見方を柔軟に変えられることなのです。

以前、読書会で取り上げたドゥルーズが精神活動において哲学、科学、アートという3つの軸を考えていましたが、アートだけはちょっと特殊な軸で知性で捉えられる類のものではありません。それは無限に対して開かている人間の感覚であって、知性で捉えるのではなくて、詩に感応するような感受性で捉えるものだと思います。ところが、どうも若い人の中にはアートも哲学とか科学とかの知的道具の捕獲網で捉えて標本ケースに並べて分類しようとしている人がいるようです。しかし、それはアートの楽しみ方としてはあまり好ましくありません。実際、そういったコレクションはやれなくはありませんが、そういったやり方はアートを鑑賞して新しい意味を発見するという楽しみを半減させてしまう恐れがあります。なぜなら、すぐに「ああ、これは以前に見たあの作品と同じ意味だな」となってしまい、以前、発見した意味に落ち込んでしまいやすいからです。アート鑑賞の楽しみは新しい意味の発見です。意味世界を更新することが楽しいのです。ですから、そのためにはアートの分類や整理をするのではなく、忘却する方が本当は良いのです。私たちは、日々、整理して分類しています。それは言語や知性にとってとても大切なことです。しかし、それには例外があってアートだけはあまり整理や分類を細かくやる必要はありません。いい加減であったりテキトーであったりで良いのです。いいえ、もっと言えば、忘れていてさえいても良いのです。

私たちはあらゆる物事、森羅万象を科学や論理学で理路整然と並べて、この世界や頭の中の言語世界を整理整頓して、この世から名付けえぬ何かを排除しています。
終いにはその名付けえぬ何かがまるで存在しないと思い込んだり、あるいは、その存在にまったく気付かなくなってさえしてしまいます。しかし、世界は人間が知覚できる以上に広く深いもので謎に満ちています。人間は所詮人間で、人間が知覚しているのは世界のごく一部に過ぎません。ただ、名付けえぬ何かにまったく触れられないかというとそうではなくて、ほんの少し触れられる可能性があります。それは何かというと、それこそがアートであり、知性の裂け目なのだと思います。なぜ、アートだけが名付けえぬものに触れられるのでしょうか。おそらく、アートという知性の裂け目はワームホールのようなもので無限や別次元につながっているのではないかと思います。ですから、知性の破れ目を残しておくことも実は大切なことなんだと思いますよ。随分、トンデモナイ話をしてしまいましたが、トンデモナイ話も自由な精神、詩心がなせるワザなのではないでしょうか。

2012年10月30日火曜日

ネオアカ読書会 第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』


ドゥルーズ=ガタリ『哲学とは何か』の読書会と目次と資料をブログにアップしておきます。

1.ネオアカ読書会第1回ドゥルーズ『哲学とは何か』



2.目次

目次

序論 こうして結局、かの問は・・・・・・

Ⅰ 哲学
1 ひとつの概念とは何か
2 内在平面
3 概念的人物
4 哲学地理

Ⅱ 哲学 -科学、論理学、そして芸術
5 ファンクティヴと概念
6 見通しと概念
7 被知覚態、変様態、そして概念

結論 カオスから脳へ

3.プレゼン資料
資料は画像をクリックすると新しいウィンドウでプレゼンテーションが開始されます。






4.書籍



以上、どうぞよろしくお願いします。

2012年10月12日金曜日

差異と生命


前回はリゾームについて考えました。今回はドゥルーズの主要な諸概念、差異、反復、イデア、非実在論、強度について考えてみようと思います。しかし、いずれも難解な概念ですので理解は一筋縄ではいきそうもありません。そこで今回は話を分かりやすくするために生命という補助線を引いて考えてみることにします。これらの諸概念は生命について言っている、あるいは、生命からこれらの諸概念を抽出したと考えれば、かなりスッキリした理解が得られるのではないかと思います。ただし、ここで述べる生命ですが、次の仮定を前提条件にします。それは「生命には魂がある」という仮定です。なんだか非科学的な仮定ですが、話を分かりやすくするために今回はあえて用いることにします。
 
(1)差異
さて、まず、ドゥルーズの差異といえば、微分dy/dxが想像されます。微分は限りなく小さい微分量dxやdyを考えます。それら微分量の比を計測することで接線の傾きを導き出します。ドゥルーズの分析はまさに微分的です。各計測点で微分することによって曲面の傾き具合を含めた全体像を浮かび上がらせるような手法です。中沢新一がドゥルーズの分析を「微分係数から大域構造を見る」と言っていますが、まことに言い得て妙です。







さて、ドゥルーズが若い頃に第一線で活躍していた哲学者といえばサルトルです。ドゥルーズ自体はサルトルからは思想的な影響は受けていないようですが、それでもサルトルがその時代を代表する哲学者であったことには違いないと思います。そのサルトルですが、彼の実存主義には有名な「実存は本質に先立つ」というテーゼがありました。行動の前では本質よりも実存が立ち上がるという考えです。例えば、昔、金属バット殺人事件というのがありましたが、普段は金属バットの本質は野球の道具ですが、それがいざ殺人に使われた瞬間、金属バットは人殺しの道具に変わってしまいます。このように本質(野球の道具)が実存(殺人の道具)に取って代わられることを「実存は本質に先立つ」と言います。しかし、では、どの瞬間に本質が実存に取って代わられるのか、それを近代科学的に捉えようとすると動きを連続写真に分解して分析することになるかもしれません。つまり、連続写真の前後の差異を計測することでどの時点で本質が実存に取って代わられるか捉えようとするのです。ドゥルーズは映画を愛しましたが、ドゥルーズの差異というのはこのように動的変化を連続写真に分解することに由来しているのかもしれません。

ちょっと話は逸れますが、下図は階段を下りる裸婦の連続写真とマルセル・デュシャンの『階段を下りる裸体』の図です。写真の発明によって対象を正確に模写することに意味の無くなった画家たちは写真では捉えられない対象の真理を描こうとしました。この『階段を下りる裸体』はそういった意味で階段を下りる裸婦をトータルに一枚の絵で捉えようとした試みと言えるでしょう。この例で言えば、ドゥルーズの差異は各写真での微分係数を析出して対象の全体を捉えるようなものだと思います。







ともかく、ドゥルーズの差異はどこまでも分解・微分して計測しようとする科学的な態度だっと思います。サルトルの実存主義は哲学よりも行動が現実を切り開くと言っているようで、ある意味哲学の敗北を意味しそうですが、ドゥルーズはその行動すら細かく分析することで行動(動的変化)をも哲学の範疇に捉えようとした試みと言えるかもしれません。


ドゥルーズの差異の由来について上記で推測を述べましたが、もう1つの由来があると思います。それは単子(モナド)です。限り無くゼロに近い微分量は言うまでもなく微分の発明者ライプニッツのモナドです。モナドとは何かと考えた場合、モナドとアトムの違いについて考えるとモナドについてイメージが浮かび上がってくると思います。まず、アトムですが、アトムは原子という小さい粒、物質の最小単位です。ところが、モナドの場合、その大きさは、dxやdyと表されるように、まちまちで恣意的でさえあります。アトムは元素の周期表で表されるようにスタティックな単位です。まさにツリー的な位置づけです。それに対してモナドは流動的な単位で一体何なのか、いまひとつ分かりません。しかし、もし1つ似たようなものを上げるとすれば、それは生命の単位ではないでしょうか。例えば、細胞を1つの生命の単位とした場合、その大きさはまちまちです。モナドがまちまちなのと似ています。モナドとは生命の単位として考えられないでしょうか。

ところで、生命はある意味差異の機械だと言えると思います。何故かというと生命体は自己と自己以外とを分別するからです。図にすると下図のようなものです。自己と外部とを区別します。また、外部から物質を取り込んで自己の一部とするか、あるいは、不必要なものとして外部に排出するなど、自己と自己以外に分別しています。まさに、生命は自己と自己以外とに分別する=差異するマシンでもあるのです。ちなみに、これは言語の作用ともよく似ています。言葉Aが浮かび上がった瞬間、表出していませんが非Aも生成しています。逆な言い方をすれば、言葉Aを生成した瞬間、非Aは存在しないものとして殺害されています。このように脳の言語機能も差異のマシンです。










話が混乱してきました(笑)。少し整理すると、ドゥルーズの差異はライプニッツのモナドであり、モナドは生命の最小単位として考えられないかということです。そして、生命そのものもそれ自体差異するマシンではないかと言うことです。

さて、以上で述べたように差異には2つの側面があると思います。1つは科学的な分析としての差異です。もう1つは生命の基本機能としての差異です。以下の文章では後者の生命の基本機能としての差異に関わる概念になります。

(2)反復
差異の次は反復ですが、普通に考えると「ドゥルーズはどうして反復なんて取り上げたの?」という感じが否めませんが、生命という補助線を入れると分かりやすくなるのではないでしょうか。ドゥルーズは「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」と言います。これは何を言っているのでしょうか?これを聞いて思い当たる具体的なイメージとしては細胞分裂、あるいは、生命体の繁殖です。上図を有機スープの海(非A)とそこに生まれた原初の生命体Aとしますと、生命体Aは細胞分裂して生命体A1と生命体A2に分かれ、さらにそれらがどんどん分裂して増殖してゆきます。あるいは、細胞分裂について考えてみると、下図のように受精卵にどんどん仕切りができて1つだった細胞がどんどん分裂して複数の細胞に分化してゆきます。このように細胞は自己と外界を分け隔てますが、細胞分裂はさらに自己と他者を分け隔てて増殖してゆきます。









つまり、これが「反復とは差異を反復することであり、差異とは反復される差異である」ということの意味です。細胞たちが自己と他者を分け隔てて差異を反復することであり、さらに細胞分裂が展開される反復される差異なのです。フラクタルL-systemのように自己相似的に反復されるのです。

さらにドゥルーズは「世界は1つであり、無限の差異である」とも言っています。もし、世界が生命のない物質だけの世界ならもっとスタティックな分類になったでしょう。しかし、生物が存在することによって世界は多様性に富んだ無限に差異を反復する動的な世界となっていると言えます。生命は植物や動物や細菌など様々な形態をとって生き残りを図っています。例えば、地球を人工衛星から俯瞰して見ている図を想像して下さい。地球という球体を生命が覆っています。まるでシャーレに繁殖する微生物のようです。生命という単位では球体表面である世界は1つであり、同時に様々な形態をとる生命群は生命の無限の差異であると言えるでしょう。








(3)イデア
さて、反復の次はいよいよイデア(=理念)です。ドゥルーズは「イデアは個体以前の差異である」と言います。これは一体どういう意味でしょうか?再び、A非Aの図に戻ります。仮にAを生命体、非Aを有機スープとします。Aと非Aは物質的にはどちらも同じ物質です。なぜなら生命体Aは有機スープから物質を抽出して組成しなおして自らを形成しました。しかし、Aは生命であり、非Aは無生物の物質に過ぎません。同じ物質であるにも関わらず、この違いはどこから生じるのでしょうか?つまり、生物を生物たらしめているものは何か?生命の本質とは何か?生命のイデアとは何か?ということです。

別の言い方をしましょう。自動車の部品(車体やタイヤやエンジン、それと燃料のガソリン)を寄せ集めて組み立てればそれは自動車として動き出します。しかし、生物の場合、部品を寄せ集めてもそれは生物の死体が出来上がるに過ぎません。メアリー・シェリーが描いた『フランケンシュタイン』と同じようにクリーチャーに生命を吹きこまなければ生物としては動き出しません。それでは生物と無生物を分けるものは一体何でしょうか?

ここで、最初の言葉「イデアは個体以前の差異」に戻って、図に基づいて考えてみます。もし、図から物質をすべて取り除いたとします。するとそこに残るものは何でしょうか?通常の3次元空間から物質を取り除いても何も残りません。ただの空っぽの空間だけが残ります。しかし、そこで、物質もろとも3次元空間をも取り除いた空間を考えてみましょう。そこに残った場は3次元空間とは別の次元の世界と考えられます。下図はそこに残った場のイメージです。









そこに残るものこそ、個体以前の差異、生命のイデアと考えられます。すなわち、物質も3次元空間も取り除いた後、別次元の空間に残るものこそ、個体以前の差異、つまり、生命のイデアではないでしょうか。

(4)非実在論
さて、上記で別次元の世界を考えました。それは私達が住む3次元空間の世界ではない世界です。3次元に住む私たちにとっては別次元は日常的な世界には存在しない非実在の世界です。つまり、ドゥルーズの非実在論もこの別次元の世界を言っています。日常的な感覚からすれば、非実在の世界を仮定することは途方もない空想のように思えます。しかし、科学ではけっこうそういった世界を考えたりしています。例えば、数学で扱う虚数です。虚数は実数としては存在しない数です。下図のように、実際には存在しない数・複素数を想定することで私たちの科学は成り立っているところがあります。また、物理学でも3次元以上の次元について実際に存在するのではないかという説もあります。とはいえ、3次元空間しか認識できない私たち人間が別次元については知りようがないので、この話はここではあまり深入りしません。しかし、可能性としては否定できないところがあります。















(5)強度
さて、いよいよ強度です。ですが、強度について考える前に、生命についてもう一度考えてみます。生命は様々な形態をとって生まれてきます。動物や植物や細菌など様々な形に姿を変えてこの世に生まれてきて生き残りをかけて闘います。私たち人間もその中の1つに過ぎません。しかし、すべての生物が生き残るわけではありません。絶滅する生物もいます。逆に新たに出現する新しい種もいたりします。例えば、昆虫について考えてみます。今現在もアマゾンの密林では新しい種類の昆虫が生まれており、その一方でそういった新しい種の昆虫たちも私たちに知られることなく知らぬ間に絶滅しているものもあるそうです。進化というと試行錯誤のすえの完成への道というようなイメージを持っている人もいるかもしれませんが、実際は、むしろ、ランダムにいろいろなタイプの生命形態をこの世に送り出して、その中からうまく生き残ったものだけが環境に適応した生物だったという方が近いのではないでしょうか。つまり、結果として、生き残った生物は環境に適応した合理的な生物であって、絶滅した生物は残念ながら環境に適応できなかった不合理な生物ということになるのではないでしょうか。つまり、あくまで結果論なのです。生命全体として見れば、進化は生き残りをかけた試行錯誤の連続です。合理・不合理に関わらず生命は多様な形態をとってこの世に生まれてきます。失敗も含めて多様な生命を生み出す原理は一体何でしょうか?実はそれこそ生まれいづる可能性の濃さ、潜在性の濃度というべき強度ではないでしょうか?

ドゥルーズは強度について「質・量以前の即自的差異」と言っています。強度は質以前・量以前の差異であり、即自的な差異であるというのです。強度は質や量など実在の測定は不可能なのです。逆に言えば、強度は非実在の空間で考えねばなりません。その異次元の中で、即自的ですので一種のエネルギー場を想定し、その中で濃度が高くなるところが生命が生まれる可能性の高いところではないでしょうか。イメージすると下図のようなエネルギー場を考えて、色の濃い点、濃度の高い箇所が生命が生まれいづる可能性の高い点と言えるのではないでしょうか。(下図でいえば、赤色の濃い部分です。)














このように考えると強度とは非実在空間における潜在性の濃度ということができるのではないでしょうか。(ところで、濃度に濃淡があるイメージは数直線で無限の濃度について考えてみると分かりやすいかもしれません。連続体仮説に従えば、数直線には無限の濃度の濃淡があります。)


(6)人工生命としての概念
さて、差異、反復、イデア、非実在論、そして、強度とドゥルーズの諸概念についてようやく説明し終わりました。ここからはオマケの話です。ここまで生命を補助線に話をしてきました。ここからは脳の世界について少しだけ考えてみます。というのも脳の生み出す世界も実は生命の世界にとてもよく似ているからです。多くの方が「えっ!どういうことですか?」と意外に思われるかもしれません。そこで分かりやすい例としてSF作家グレッグ・イーガンの小説『ディアスポラ』の一節「ワンの絨毯」を取り上げます。「ワンの絨毯」ではある惑星に原生生物がいるのですが、その原生生物の体は一種の電子回路のような構造になっており、その電子回路にはソフトウェアが存在しているというのです。そして、そのソフトウェアは一種の生命世界を形成しており、そこには多様な生命の生態系があり、生物が棲息する世界が繰り広げられているというのです。いわば人工生命の超高度版といったところでしょうか。この話をドゥルーズに結びつけると、ドゥルーズの著書『哲学とは何か』でドゥルーズは哲学とは概念を制作することだと言っています。ドゥルーズのいう概念は上記で述べてきた生命ととてもよく似ていると思うのです。そして、もしその概念がひとり歩きするようになれば、この「ワンの絨毯」の人工生命のような存在になるのではないかと思えるのです。つまり、概念イコール人工生命ではないかと思うのです。もっと飛躍して言えば、「ワンの絨毯」の原生生物がソフトウェアの生命世界を作るように、人間は大脳で概念という人工生命を作り出しているのではないかと思うのです。ただ、まあ、概念が自らの意思をもって一人歩きすることはないのでちょっと違いますが・・・。ただ、大脳というものが3次元空間にフラクタルに展開する神経細胞なのだとしたら、フラクタル次元として3次元をわずかに超えるかもしれず、そこから異次元が流入して、概念が一人歩きすることがあるかもしれませんね。例えば、ミュージシャンが作曲のときに「降りてくる」とか言いますからね(笑)。あるいは、自動筆記とか(笑)。話がオカルトめいてきたので、この話はこの辺りで止めておきます。ただ、この脳や生命世界の話はドゥルーズ=ガタリ最後の著書『哲学とは何か』の最終章に深く関わってくる話です。


さてさて、今回はドゥルーズの主要な諸概念を説明するために「生命には魂がある」という、ややオカルティックな前提条件で話を進めてしまいました。しかし、複素平面に置き換えて分かりやすくするというラプラス変換的な思考法としてご容赦下さい。また、実際、生命についてはまだまだ分からないことが多くあります。iPS細胞の研究で山中教授がノーベル賞をとって世間は騒いでいますが、まだまだ生命については謎が多いです。物理学的な観点からは生命はまだ説明できていません。ですので、推測がオカルト的だからといって否定するのではなく、あらゆる可能性を否定せずにその可能性を追求するという態度が大切ではないでしょうか。そういった中から創造的進化を遂げる概念も生まれてくるかもしれませんからね。もちろん、絶滅する概念もありますが(笑)。(誤解を招かないように言っておくと、ドゥルーズは生き残る生物だけでなく絶滅する生物も含めて生まれてくることが可能な生命を尊重したのだと思います。合理・不合理に関係なく、強度の高まるところリゾームのより集まったところに生まれいづる生命を愛でたのだと思います。)

2012年9月24日月曜日

ツリーとリゾーム

ドゥルーズ+ガタリの『哲学とは何か』で読書会をやるつもりなのだけど、その前にちょっとは彼らの主な概念についてちょっと勉強しておかなくちゃいけないなあということで、今回はリゾームについて考えてみようと思います。

で、まず、ツリーとリゾームを視覚的にイメージすると下図のようなものになると思います。左がツリー構造で、右がリゾーム構造です。


 

ツリー構造は枝が整然とした階層構造なのに対して、リゾーム構造は枝が横断的に錯綜したネットワーク構造になっています。

で、まあ、ドゥルーズ・ガタリは「これまでは世の中のいろんな知的構築物はツリー構造が多かった。例えば、知の構造とか組織の構造とか。しかし、それは硬直的な見方の産物であって現実にはそぐわないんじゃないか。現実はもっとリゾーム構造っぽい要素も多いんじゃないか。そこでリゾームで世界を捉え直してみる試みをやってみようか」というようなノリで考えたとき、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』に結実したって感じでしょうか。いや、まあ、極端な話ですが。

もう少しイメージが伝わりやすいように話を非常に単純化して考えてみます。

まず、ツリー構造的な価値観の社会を考えてみます。例えば、人々が画一的な価値観を持った世界というのを考えてみます。みんながみんな同じような価値観を持った社会です。具体的には、例えば、高学歴・高収入をみんながみんな目指しているとします。みんながみんな東大や一流企業や大蔵省を目指しているとします。(←いやあ、古い世界観ですね。今となっては隔世の感がありますね。)それを図でイメージすると、頂点が1つの山にみんなが登ろうとしているようなもので、下図のような感じでしょうか。






この山はツリー構造な価値観なので、理路整然として価値観が整列しているので、山の傾斜も滑らかなものとなります。非常にシンプルな山です。

次に、リゾーム構造的な価値観の社会を考えてみます。、リゾーム構造にはツリー構造のような階層はなく、結節点にどれだけリンクが集中するかによって価値観の度合いが決まるものとします。結節点のリンクが多いとそれだけ山が盛り上がります。つまり、山がたくさんある多様な価値観の社会になります。もう少し具体的に言うと、人々は東大や一流企業だけを目指すのではなく、アーティストになることを目指したり、パン屋さんになることを目指したりするように様々な理想像を持ちます。それを図でイメージすると下図のような山がたくさんある図になります。















山ばかりで喩えるとちょっとスタティックなので、別なもので喩えると、波が様々に盛り上がっている海面と喩えることもできると思います。人々の欲望はダイナミックに変化するので海面のように時々刻々と盛り上がりが変化するので海面の方が適当な喩えかもしれませんね。


『千のプラトー』(=千の高原)はこのような状態、盛り上がりである高原がたくさんある状態を指しているのだと思います。そして、人々はこの非線形な曲面の最も高い盛り上がり、最大値を志向するのではなくて、人それぞれがたくさんある盛り上がり、極大値をそれぞれ志向するのが良いのではないかと考えているのではないでしょうか。あ、いや、盛り上がりがたくさん出来る状態、多様な価値観がある状態が望ましいと考えているのだと思います。(ところで、ドゥルーズの手法は傾斜を数値計算する非線形最小二乗法に似ていると思います。)

つまり、多様な価値観の社会やフレキシブルな知のあり様を望み、さらに、そのような世界を構築するのにもリゾーム的な手法(←『千のプラトー』はそのような手法で書かれている)によって実装するというのが彼らの考えだと思います。もちろん、これはある一面的な話であって、他にも彼らが込めた意味・意義はたくさんあるとは思いますが・・・。

なお、ひと昔前の日本は硬直的な価値観の社会でした。戦前の日本は北朝鮮のような社会だったかもしれませんが、戦後高度成長期の日本はどちらかといえば画一的な社会だったと思います。その方が製造業中心の工業社会に適した人材育成に向いていたのでしょうね。しかし、価値観が画一的な社会や硬直的な知の世界では少数派である自由な精神の持ち主は息詰まってしまうので、スキゾフレニックなゲリラ戦を仕掛けるような浅田彰の『逃走論』が生まれたのだと思います。もっともその源流は森一刀斎こと森毅にあると思います。異分野の知を自由自在に横断するネットワーク力・社交力や問題に対して太極拳の化勁のようなフレキシブルな身のこなしなど森毅こそ日本の元祖ドゥルージアンだと思います。