2013年4月25日木曜日

細田守監督『おおかみこどもの雨と雪』

 
 
遅ればせながら、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』をようやく見たので感想を書いておきます。以下に感想を断片的に列挙してゆきます。



1.メタモルフォーゼ
まず、アニメの基本的な表現でメタモルフォーゼというのがありますが、この作品では人間から狼へ変身するというメタモルフォーゼがスマートに描かれていて「さすがアニメならでは表現だなあ」と感心しました。実写では不自然だったり、気味悪かったりするメタモルフォーゼがアニメでは微笑ましく楽しく見ることができました。

2.CG技術
山とか雨水とか霧とかのCG技術が私には不思議とリアルに感じられました。作品を観ていたときに「これはCGだ」と分かるのですが、だからといって「CGだってバレてるからダメ」というわけではありませんでした。CGだと分かるのですが、その描写が私には妙にリアルに感じられたのです。観ていたとき「これは実写を混ぜているんだろうか?」と思ったくらいです。おそらく、効果として使っている部分のCGだと思うのですが、それがなぜか現実に感じたものと同じようにリアルに感じさせました。たぶん、今までも使われてきたCG技術で特に変わった技術を用いていないのではないかと思うのですが、コンピュータの処理能力の向上でしょうか、なぜかリアルに感じました。

3.シングルマザーの子育ての大変さ
シングルマザーの子育てと言っても花の子育ては狼人間の子育てなので普通の人間の子育てとはちょっと違いますが、それでもそういった特殊な設定にすることでかえってシングルマザーの子育ての大変さが浮き彫りになったように思います。特にシングルマザーが社会から孤立してしまう環境というのが見えるのですが、ただ、この作品の主人公・花はそれを眉間にシワを寄せて苦労するというのではなく、苦労しながらも楽しく子育てしているので孤立することによる陰鬱なイメージを和らげていました。(それから、子供たちが部屋をおもいっきり散らかしたり、あるいは、雪が冷蔵庫と家具の隙間に座ったりと子供らしさが微笑ましかった。いや、子育てしている親としては大変だと思うけど(笑)。)

4.学校
学校という場が同調圧力などヒトを一定の枠にはめ込んでしまうのが見えました。雨が学校に馴染めなかったり、上級生にいじめられたりする場面は狼人間に限らず、普通の人間にもあることです。また、雪が他の女の子と趣味嗜好が違うのも同調圧力の一種だと思います。帰国子女にそういった趣味嗜好の違いがあるケースがあると思います。このように学校教育は規範ができる反面、自由な精神が阻害されてしまいます。果たして学校教育というのは本当に良い教育なのでしょうか?

5.農家
この作品は数あるアニメ作品の中では比較的リアルな農家を描いた作品だったのではないでしょうか。多くの作品は牧歌的に、あるいはエコロジカルに描いたりする作品が多いと思います。宮崎駿などはそういったイメージが強いです。しかし、それに比べて本作は比較的リアルな農家を描いていたと思います。

6.物語の分析
さて、いよいよ作品分析です。この物語の主軸について考えます。先に答えを言うと、この物語は異類婚姻譚を混じえた魔法昔話の一種で、魔法昔話の現代的な変形だと思います。

まず、異類婚姻譚とは何でしょうか?異類婚姻譚とは人間と人間以外との生き物が結婚するお話で、例えば日本の昔話で言えば人間と鶴が結婚する『鶴の恩返し』などがそうです。異類婚姻譚は人間にはない異類の特殊なパワーが話のポイントになります。おそらく、動物が持つ特殊能力がそういったお話を発想させるのだと思います。例えば、犬は人間には聞こえない犬笛を聞くこともできるし、人間には分からない微かな臭いも犬は嗅ぎ分けられます。動物と深く関わって生きていた昔の人たちは動物には人間にない特殊な力を持っているとたびたび感じたことでしょう。

次に魔法昔話ですが、魔法昔話の典型的なパターンは人間社会で生きてゆくのに行き詰まった者が絶望の果てに森に迷い込んで死にそうになるのですが、そこで魔女や魔法使いから魔法の不思議なパワーを授かり、再び人間社会に戻ってその不思議なパワーを使って成功するという話が多いです。実は異類婚姻譚も動物のパワーという不思議なパワーを授かって、その不思議なパワーで成功するという場合もありますので、異類婚姻譚も一種の魔法昔話に分類されるかもしれません。

さて、本作『おおかみこどもの雨と雪』ですが、これら魔法昔話に当てはめて考えるとどうなるでしょうか?魔法昔話の典型例で考えれば、普通なら

絶望して死にかける→魔法を手に入れる→魔法によって成功する

というのが典型パターンのはずですが、この『雨と雪』の場合はちょっと違います。魔法のパワーを手に入れるのですが、それが実生活に役立つことはほとんどありません。この物語を異類婚姻譚と考えても同じです。狼の特殊能力は人間の生活にはほとんど役立ちません。せいぜい裏の畑が野生動物に荒らされなくなるくらいです。近所の農家がイノシシに畑が荒らされているのに花の畑だけがイノシシに荒らされないで済むのはイノシシが狼人間がいるのを恐れて花たちの畑に近づかないからだと思います。しかし、実生活で役立つのせいぜいそれくらいで、それ以外は特殊能力はほとんど役立ちません。かえって正体がバレる原因になりかねません。つまり、現代社会においては魔法や動物の特殊能力は昔話の主人公たちを成功させたようには役立たなくなっているのです。かつて魔法は富や名声をもたらしましたが、現代では無意味な代物になっているのです。

さて、雪と雨は狼人間のままでは社会に受け入れられません。彼らには人間として生きるか、狼として山に住むかのどちらかしかありません。結局、雪と雨はそれぞれ違った選択をします。どちらが良い悪いではありません。彼らにとって生きやすい世界、生きたい世界を選んだだけです。この辺りは人間社会と動物世界のどちらにも軍配を上げておらず、ある意味でフェアな見方かもしれません。例えば宮崎駿を考えてみると、近代文明を捨てて中世社会に逆戻りするような選択をする作品が多いです。『天空の城ラピュタ』とか『未来少年コナン』とかです。まあ、文明に対して批判的であるのは良いのですが、現代文明をまるごと否定して、時代に逆行して中世社会に果たして戻れるのかという疑問はあります。しかし、本作では現代文明を真っ向から否定はしません。文明も自然もどちらにも進むべき可能性が残されています。

ただもし、あえて良し悪しがあるとすれば、それは異類を受け入れられない現代社会が悪いと私は思います。シングルマザーが孤立する社会、あるいはシングルマザーを同じ規格に同調させようとする社会、あるいは同調圧力のある学校やよそ者をすんなりとは受け入れられない農村社会とか、これらは多様性を認めない了見の狭い社会、狭量な社会です。もちろん、狭量な社会の側にも言い分はあります。異分子は社会の規範を守らず、社会に迷惑など神経を逆なでする負担をかけるからです。確かに同質の者同士が規範を守る社会は同質の者たちにとっては住みやすい社会かもしれません。しかし、そうではない自由な精神をもった自由な生き方をする者にとっては規範に縛られた社会は非常に住みにくい社会です。この作品に対して批判的である人たちには、規範に縛られた不自由さのためにストレスを抱えており、逆に花のように自由に生きている人たちに対してヤッカミにも似たような否定的な意識が働いているように私には感じられます。「花のような自由な生き方は現実にはありえない。日本社会では花のような自由な思想や振る舞いは許されるわけがないのだ」というような考えが無意識に働いているように感じられます。ある意味、思考の手足を縛られた自由にものを考えられない不幸な人たちなのかもしれません。

さて、話をまとめると、この『おおかみこどもの雨と雪』という作品は魔法昔話の一種かもしれないが、かつての魔法昔話が魔法によって成功する話だったのが、現代社会では魔法はもはや成功の足しにはならず、逆に社会に居場所がなくなってしまう原因にもなりかねない、役立たずでやっかいな代物というように捉えることができると思います。人間社会が高度にシステマティックに組み上げられているのとは対照的に、狼人間のプリミティブなパワーは実生活に役立つことは何ひとつないのです。しかし、狼人間たちは狼に変身して大地をおもいっきり駆けまわったり、スリリングな狩りを楽しんだりと生き物に本来備わった能力を全開で発揮することができます。狼人間の特殊能力は生きている実感とでもいうようなプリミティブな悦び、原初的な悦びを彼らにもたらしてくれます。人間は文明を築いて生きやすい環境を作ってきましたが、そういった悦びをなくして果たして本当に生きる意味があるのかと狼人間は私たち人間に問いかけているように私には感じられます。狼人間には人間社会で生きるという道以外に生きる実感を得るために山に還るという選択肢がありました。しかし、私たち人間には狼に変身して山に還るという選択肢はありません。生きる実感を取り戻すためにはどうすれば良いのか、私たちはよく考えなければならないと思います。

7.駆けまわることの楽しさ
さて、最後にこの作品で印象的なものがあります。それは駆けまわることの楽しさです。私の個人的な体験ですが、私は田舎育ちで犬も飼っていましたのでこの感覚はよく分かります。冬に犬を連れて近くの田んぼに行って一緒に駆け回ったことが何度もあるからです。駆けまわるときの犬の楽しそうなことといったらありません。犬が本当に活き活きとしているのです。目がキラキラと輝き、ハアハアという息から充実感が滲み出ています。全力で地面を蹴って駆けること、肉体を躍動させることがどんなに楽しいか犬もよく分かっています。雨と雪、そして花も雪の中を駆けまわって最後に笑って地面に寝っ転がりますが、本当に笑いがこみ上げ来るくらい駆けることが楽しいのです。この作品では、他にも狩りをすることの楽しさを描いた場面もあります。狩りをすることも駆けることと同様に、いえ、もしかしたら、それ以上に楽しいかもしれません。ここではこれ以上説明しませんが、狩り、狩猟の楽しさを知るためには動物文学を読むことをお勧めします。バイコフやシートン、あるいはトルストイにそういった狩猟の楽しさを伝える作品があります。



追記
文章全体を書き終わって改めて考え直してみたら、オーソドックスに見れば、この物語は魔法昔話というよりは異類婚姻譚の一種といった方が正確だと思う(爆)。もう面倒だから文章を書き換えないけど(苦笑)。

2013年4月22日月曜日

アート鑑賞について

アート鑑賞についてちょっと気になったので書いておきます。

アートを鑑賞することで人は何をしているのでしょうか?その答えは意味を見つけ出しているのです。そのアート作品を鑑賞することでそこから何らかの意味を見つけ出しているのです。見つけ出された意味はその人だけの意味かもしれませんし、他の鑑賞者と同じ意味を見出しているかもしれません。いずれにしても、どちらでも構いません。他人にとって意味がなくても、その人にとって意味があればそれで良いのです。その人にとってはそれがアート作品です。たとえ他人にとっては意味のないガラクタであっても!また、例えばAとBの2つのアート作品があったとします。そのどちらが優れているかなどというのはあまり意味がありません。私にとってはAの作品の方が重要な意味があったとしても、他人にとってはBの作品の方が重要かもしれません。アート作品の意味は人それぞれで違ってくるからです。ともかく、アート鑑賞において人々がやっていることは自分の感覚器官を開いてアート作品から意味を感じ取っているのです。そして、見い出された意味がその人にとって新しい意味であれば、驚きを伴った喜びになるわけです。

さて、そういったアート鑑賞において大事なことは何かというと自分の感覚のチャンネルを偏見や先入観や固定観念にとらわれずに開いておくことです。といっても、そんなに無理をしなくてもかまいません。肩の力を抜く程度だと考えていいでしょう。それに、多少の偏りがあったとしても大丈夫です。むしろ、それがフックとなって何らかの意味を作品から引っ掛けてきて、ひいては自分自身の精神分析になる場合もあるからです。ともかく、基本的には固定的なものの見方に囚われずに自由なものの見方ができるようにしておくことです。アートの鑑賞の仕方が分からない人の中で勉強熱心なタイプの人はわざわざアート作品の解説書などを読んで、解説書の見方を頭に叩き込んだ上で当のアート作品を鑑賞したりする場合があります。せっかくアートを鑑賞しても解説書通りの見方しか出来ない人がいます。さらには解説書が提示している見方しか認めずに、その見方に沿わない作品を貶したりする人までいます。そうなっては本末転倒です。本来、アート作品は頭脳を柔軟にするものです。未知なモノに対してそこから意味を引き出せるように柔軟に心のチャンネルをひねられるようにするためのものです。ラジオのチューナーをひねって周波数を合わせるように作品の意味に合わせるように心のチャンネルをひねるのです。ところがそうせずに最初から決まり事でもあるかのように決まった見方に凝り固まってしまったのではアート鑑賞をする意味がありません。(もちろん、そういうのが分かった上で解説書を比較のためや自分の見落としを補うために利用するのはかまいません。しかし、最初からその見方しかなないと決めつけて解説書通りの見方しか出来ないようであれば、解説書を見ずに作品を鑑賞して、まずは作品から何かを感じるとることから始めることをお勧めします。)

さて、では、心のチャンネルをひねるとはどういうことでしょうか?これは言葉で説明するのはなかなか難しいことです。例えば、森の中に入ってたくさんのセミが鳴いていたとしましょう。そのとき、ある珍しい種類のセミが鳴いているのに気付いたとします。それを一緒にいる仲間に伝えるとき、どんな音が聞こえるかを伝えることはできます。しかし、その音を聞き分けるためにどのように聞くかというのを伝えることはできません。単に耳を澄ましてよく聞いて下さいとしか言えません。聞き分け方というのは自分でチャンネルを合わせるしかないのです。といっても、これではあんまりですので、もう少し説明を試みます。たとえば、諺に「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というのがあります。これは幽霊が見えて恐ろしく感じたのですが、よくよくその幽霊を見てみると、なんのことはない枯れたススキが幽霊のように見えただけだった、所詮、幽霊なんておらず、単に枯れたススキが錯覚で幽霊のように見えただけだったという話です。しかし、これは逆にいうと枯れたススキに幽霊という意味が宿ったということができます。つまり、単なる枯れたススキであっても見方を変えれば、それは幽霊に見えたりするわけです。これをアート鑑賞に喩えていえば、ガラクタの寄せ集めに過ぎなかった作品がそこに何らかの意味を帯びてアート作品になったということが言えるわけです。心のチャンネルをひねるとはそのように見方を柔軟に変えられることなのです。

以前、読書会で取り上げたドゥルーズが精神活動において哲学、科学、アートという3つの軸を考えていましたが、アートだけはちょっと特殊な軸で知性で捉えられる類のものではありません。それは無限に対して開かている人間の感覚であって、知性で捉えるのではなくて、詩に感応するような感受性で捉えるものだと思います。ところが、どうも若い人の中にはアートも哲学とか科学とかの知的道具の捕獲網で捉えて標本ケースに並べて分類しようとしている人がいるようです。しかし、それはアートの楽しみ方としてはあまり好ましくありません。実際、そういったコレクションはやれなくはありませんが、そういったやり方はアートを鑑賞して新しい意味を発見するという楽しみを半減させてしまう恐れがあります。なぜなら、すぐに「ああ、これは以前に見たあの作品と同じ意味だな」となってしまい、以前、発見した意味に落ち込んでしまいやすいからです。アート鑑賞の楽しみは新しい意味の発見です。意味世界を更新することが楽しいのです。ですから、そのためにはアートの分類や整理をするのではなく、忘却する方が本当は良いのです。私たちは、日々、整理して分類しています。それは言語や知性にとってとても大切なことです。しかし、それには例外があってアートだけはあまり整理や分類を細かくやる必要はありません。いい加減であったりテキトーであったりで良いのです。いいえ、もっと言えば、忘れていてさえいても良いのです。

私たちはあらゆる物事、森羅万象を科学や論理学で理路整然と並べて、この世界や頭の中の言語世界を整理整頓して、この世から名付けえぬ何かを排除しています。
終いにはその名付けえぬ何かがまるで存在しないと思い込んだり、あるいは、その存在にまったく気付かなくなってさえしてしまいます。しかし、世界は人間が知覚できる以上に広く深いもので謎に満ちています。人間は所詮人間で、人間が知覚しているのは世界のごく一部に過ぎません。ただ、名付けえぬ何かにまったく触れられないかというとそうではなくて、ほんの少し触れられる可能性があります。それは何かというと、それこそがアートであり、知性の裂け目なのだと思います。なぜ、アートだけが名付けえぬものに触れられるのでしょうか。おそらく、アートという知性の裂け目はワームホールのようなもので無限や別次元につながっているのではないかと思います。ですから、知性の破れ目を残しておくことも実は大切なことなんだと思いますよ。随分、トンデモナイ話をしてしまいましたが、トンデモナイ話も自由な精神、詩心がなせるワザなのではないでしょうか。

2013年4月20日土曜日

雑感 ボストン爆弾テロ事件から民主党の独自カラーまで

ボストン爆弾テロ事件。犯人は負け組で社会を逆恨みしての犯行ということか。ただ、犯人の弟の方は医科大学の学生というのなら、明確に負け組とは言えないと思うので、動機が不明瞭に思う。兄の方はどういう境遇なのだろうか?ニュースではチェチェン人と言っているが、実際は他所を転々としている。

犯人たちはスターリン時代にキルギスに強制移住させられたチェチェン人の末裔でキルギスで生まれ、その後、コーカサスのタゲスタン共和国に移り、さらにトルコに移住して、7、8年前に米国に移住してきたらしい。兄は思春期、弟は少年時代に米国に来ていると思う。どちらかというと米国育ちだろう。

よく分からないのは彼らの保護者は誰だろう?両親はロシアにいるし、インタビューに答えている親戚も一緒には住んでいなかったようだし・・・。強制移住といえば、昔、ソ連時代によくポーランド人が中央アジアに強制移住させられていたように思う。記憶違いかもしれないが。

たぶん、イスラムとかアルカイダとかは今回の事件に関係ないんだろう。むしろ、負け組というのがその主な動機になっているのではないだろうか?しかし、負け組勝ち組で区分けする単純な思考が社会の一部に一定量定着したということだろうか。負け組勝ち組と分けるそんな単純なものではないと思うが。

犯人の弟は医科大学に通っていたはずだが、米国の大学はかなり高額の授業料のはずでどこからそんなお金が出ていたのだろうか?裕福だったのか、それとも奨学金だろうか?負け組のイメージとはちょっと違うように感じる。あるいは授業料を払えなくなって退学しそうだったとか?

話は違うが、欧米先進国の若者の失業はどこも深刻で、(スペインは特に酷い)、彼らの鬱積したストレスは相当なものだと思う。ただ、日本は戦後の経済成長があったから今頃、脱工業化の悩みが噴き出してきたけど、欧州などは80年代からじわじわと来ていた悩みではないだろうか?

今の中国はかつての日本のように経済成長の真っ最中で楽しい盛りだと思う。もちろん、経済成長に伴うストレスの多い社会にはなっているだろうけど。一方、日本は急激に他の欧米先進国のような失業の問題が浮上してきたのだと思う。英国などはイギリス病といわれるように戦後からずっと悩んでいるが。

何が言いたいのかというと、以上のように考えると、日本の経済低迷の悩みは欧米先進国からすれば、今までずっと続いてきた悩みであり、日本も同じようにそれに加わりつつあるということだと思う。欧米先進国と同じように生き残りを模索しなければならない。ただし、米国だけは一部例外がある。

それは米国は今だにGDP世界一位であり、その原動力は金融とITだということだ。特殊な産業という例外を除くと、それ以外の職種はどれも低賃金であまり豊かとは言えない。そういう部分では他の欧米先進国と同じで悩みを抱えている。今回のボストン爆弾テロ事件の負け組もその中の一部だと思う。

たぶん、日本は米国の真似は無理だと思う。米国のような世界中の移民を受け入れる多様な社会を日本は真似できないと思うからだ。米国には優秀な人材が集まる。それ相応の報酬も得られるし、言語も英語で共通だし。日本はそうはいかない。また、金融もITも日本が苦手とする分野ではないだろうか。

優秀な個人は世界市場に打って出ればいい。つまり、米国へ行って活躍すればいい。そういう脱出口はある。そういう意味ではアメリカンドリームは素晴らしいと思う。少なくとも他の国にはそういう夢、チャンスは用意されていない。ただし、その一方でフリーフォールといわれるように底なし沼だ。

ある意味、それはハイリスク・ハイリターンなのだろう。日本は緩やかな衰退が自然な落とし所ではないだろうか。元々、日本は近代以前は貧しい国だったのだし。

「政治が悪い」「社会が悪い」といって責任を単純に他に押し付けてしまうのはたやすい。もちろん、機会均等や公平公正な制度を政治に求め続けることは必要だ。でも、なにもかも責任を政治に押し付けるのはどうか。グローバルな市場で競争に勝つための個々の努力は必要だと思う。世界中の人に言える。

いずれにしても、そして、言い古された感は否めないが、価値観の多様性が要ると思う。負け組勝ち組で単純に区分けする考え方はややもすれば、人々に多大なストレスを与える要因になりかねない。実際、経済力は生きる上での制約にもなっているのだが、それ以上に精神的に踏みつけているように思う。

話は違うが、民主党が自民党を破って政権交代を成し得たのは民主党の人気があったからではなく、反自民が強かったからだ。積極的な民主党支持ではなく、反自民の結果から消去法的に民主党に支持が集まったからに過ぎない。今、野党に転落した民主党に必要なのは民主党独自のビジョンだと思う。

今、株価は期待だけで上がっている。しかし、実際の企業業績は良くなっていない。また、政府の要請に応えて自動車業界はボーナスを満額回答した。しかし、エコカー減税で税金で自動車業界を支援したのだから、それを給料に還元しないのでは税金ドロボーになるから政府の要請を断れなかったに過ぎない。

今はアベノミクスが成功しているように思われるかもしれないが、実体経済は決して良くなく、おそらく、その反動がくると思う。そこで話は戻るが、民主党には民主党の独自のカラーを出してもらいたいと思う。

私が考える民主党の独自カラーは社会福祉の充実だ。誰もが景気回復、強い日本経済の復活を望んでいるだろう。しかし、先程も述べたように正直なところ、日本のポテンシャルはそんなに高くない。それよりは社会福祉を充実させた方が良いと考える。景気回復は自民党が掲げればいい。

自民党は景気回復を唱えればいい。しかし、自民党の政策は金持ちや企業優遇で、低所得者層には直接のメリットはない。自民党の論理は景気が良くなれば、低所得者層も底上げされるという論理だ。確かにそういった効果をまったく期待しないではない。しかし、あっても実際にはそれはかなり遅れると思う。

それよりは民主党は社会福祉の充実を打ち出して、直接的に低所得者層の底上げを狙えばいい。確かに広く薄くになってしまうかもしれないが、それでも多少なりとも低所得者層に支援はとどく。自民のやり方ではいつ低所得者層にメリットが還元されるか分からない。むしろ、生活が苦しくなるかもしれない。

以上、述べたことは非常に単純な見立てであり、他の先進国でも見られる傾向だと思う。保守とリベラルで見られる傾向だと思う。日本もそれで良いと私は思う。有権者はそういった単純な2つの選択肢から自分が良いと思う方を選べば良い。景気回復が目の前にチラツキ過ぎて民主党の独自性が出せなかった。

民主党が低所得者層に向けて社会福祉の充実を柱に据えるのは良いとして、問題は民主党の支持基盤だ。公務員と労働組合。彼らはかつては中流だった。しかし、今はどうか?中の上か、ぎりぎり上に位置づけられるか?もし、支持基盤が上に位置づけされるなら社会福祉の充実と支持基盤にズレがあると思う。

多くの経済学者が自分の主張するような政策を実際に政府が行えば、まるで日本の経済が世界一位になるバラ色の未来が到来するかのように言うが、もし、その主張通りに実行してたとえ成功したとしても、実際にはそんな未来はやって来ない。せいぜい少し良くなるだけだ。影響は微々たるものだと思う。

何が言いたいかというと日本のポテンシャルはもはやそんなに高くない。今まで蓄積した資産でなんとか経済大国にしがみついているだけだ。だから、あまり無茶な未来は夢見ない方が良いと思う。そう考えれば、微々たるメリットしかないかもしれないが社会福祉の充実の方が現実的な政策かもしれないのだ。

今、民主党は離党者をどんどん出して風前の灯火状態だ。これは今まで積極的な民主党支持では無かったからだ。積極的な民主党支持を作り出すためにも民主党は独自のカラー独自の政策独自のビジョンを出さなければいけない。それが今ツイートしたような日本経済のビジョン、社会福祉の充実だと私は思う。


2013年4月11日木曜日

雑感 アベノミクスから人文の衰退まで

世間はアベノミクスで騒いでいるけど、あまり感心しない。なぜなら、実体経済が伴っていないからだ。円安になったからといって景気が回復すると本気で考えているのだろうか?安い人件費の新興国の製品と高い人件費の日本の製品が円安くらいで逆転できるだろうか?しかし、株価など期待で上がっている。一方で原材料費のコストも上がっている・・・。

日本経済についての私の見方はNEOACA創刊号で述べたときと変わっていない。むしろ、その後の展開がどうなるかがそろそろ見えてきたのではないかと思う。まず、これまでの流れだが、中国などの新興国に日本の製造業が奪われて経済大国日本が低迷するというのが私の見立てだ。その後はITや金融などの知識産業に移行することで多少の生き残りを図るというのが今後の流れだと思う。ここで「多少の生き残り」と言ったのは、知識産業では勝ち組は少数で負け組は多数になるからだ。つまり、多くの人たちは負け組に入ってしまうだろう。だから、知識産業に移行することは「みんながハッピーになれる最良の選択肢」ではなくて、少なくとも「少人数だけは先進国の高い富を手中に入れられる精鋭になれる」という最低限の選択肢でしかないからだ。

さて、そういった移行は徐々に始まっていると思う。その変化はあまり気付かれないかもしれない。なぜなら、少数の勝ち組しかポツポツと生まれ出ないから目に見えてはっきりと移行したとは感じられないからだ。しかし、ほんの少しずつそういった変化は生じていると思う。その一方で負け組も増え続けていると思う。企業の業績不振から正社員など高賃金労働者は減少するだろうし、財政難から増税か物価高で実質賃金の低下が生じると思う。そういう流れが既に始まっているのではないか。

ここで、今後の人文について考えてみる。

日本の人文は近代が支えてきたところがある。どういうことか?近代以前、つまり、近世までは人文は無きに等しかった。あるにはあったが、体系化されたもの、アカデミズムとして階層化されたものは無かったのではないか。それが近代に入って脱亜入欧、西洋に学べということで西洋の知識がどんどんと取り入れられるようになった。ある意味、輸入だった。今もなおその傾向は続いている。しかし、そういった世界のアカデミズムに日本の人文が知的貢献をしたかというと甚だ疑問である。輸入する一方で新たな知の一角を世界のアカデミズムに築くということは無かったように感じる。

今、日本経済が下降に向かっている中で人文の輸入というのがどうなるかと考えた場合、おそらく、経済の低迷に比例して輸入も低迷してゆくと思う。ただ、世界の人文知自体の生産性が低迷しているので、輸入の減少はそれほど目立たないかもしれない。ところで、日本は昔から実用にはカネを払っても、非実用的な学問にはカネを払わなかった。日本で非実用的な学問が発達しなかった歴史がそれを物語っている。経済が低迷すれば、脱亜入欧のために近代から続いていた惰性的な投資も減らざるを得なくなると思う。つまり、人文アカデミズムの衰退が今後ますます進行すると思う。

さて、話を戻そう。日本経済は衰退する。それが徐々にか急にかは分からない。そのスピード感は人それぞれの立場によって変わると思う。影響を受けやすい人は急に感じるし、影響を受けにくい人は徐々に変わると感じるだろうからだ。しかし、着実に日本経済はかつて貿易立国だった頃と比べて衰退し続けるだろう。経済格差について自由について多くの日本人に苦い思いを突きつけるかもしれない。とはいえ、その不満を政府に向かわせることをしないと思う。今のところ、多くの日本人は不公平感を持っていないように思うからだ。ただ、世代が進めば、生まれながらの経済格差に対して不公平感を抱くようになる可能性はある。だが、現時点では、まだそれはないと思う。

確かに資本主義は完璧ではない。修正すべき箇所はこれからも多々あるだろう。しかし、現時点で資本主義そのものをダメなものとして否定するのは無理があるのではないか?グローバル経済を真っ向から否定する人もいる。しかし、その代替案は果たして合理的に機能する仕組みだろうか?むしろ、否定ではなく、修正が大事ではないだろうか?

ところで、社会システムの補強も要は選択肢を増やすということになるのではないか?確かにただ選択肢を増やせば複雑になる。しかし、それによって個人の自由が保証される。「自分は自分、人は人」だ。もしくは、他人も自分と同じでなければならないというなら同じコミュニティを形成するかだ。

失われた10年、いや、失われた20年ということになるのだろうか?そのように言われてきたけれど、それらの響きには「強さを取り戻す日本経済」、「復活する日本経済」が暗にほのめかされている。しかし、実際はそうではないだろう。もはや復活することはあるまい。歴史を振り返れば、世界の工場は、はじめ英国だった。その次は米国だった。そして、日本に移り、今は中国が世界の工場となった。東西冷戦下では日本が世界の工場になり得たが、東西冷戦が終わって市場が世界規模になったとき、つまり、グローバリゼーションが始まったとき、世界の工場は日本から中国へ移った。大きな流れで言えば、そのような経済潮流になるのではないだろうか。バブル経済とかインターネットの普及という他の要素もあるが、大きな流れとしてはやはりグローバリゼーションだと思う。

とりとめのない話を長々と書いてきたが、これは前振りで(笑)、言いたいことはこの先にある。私が若者だった頃に求めていたモノと今の若者たちが求めるであろうモノは違う。今の若者たちが求めるのは生き残りのための知恵だろう。端的に言えば、それはライフハックだろう。あるいは経営者養成セミナー的な自己啓発だろう。象徴的に言えば、イケダハヤトや勝間和代だろう。別にそれは悪いことではない。そういう目的を持つのは自由だし、そういう生き方もいい。

一方、人文知の生き残りは社会学として社会にコミットしているけれど、それが今の若者の求めている知恵と結びつくかどうかは微妙だと思う。私などは知的好奇心から知への探求があったけど、今の若者が求めているのは生き残る知恵であって、それ以外の知識は不要な余分でしかない。元に知への探究心がない限り、それら不要な余分が実を結ぶことはないと思う。探究心がない限り、消えてゆく雑学として霧散霧消してゆくと思う。結局、若者は効率良く知識を得るために余計が含まれる人文とかに目もくれることなく、最初からライフハックに飛びつくようになると思う。

人文アカデミズムの衰退と若者の人文知への無関心。そうなると人文知はごく少数の趣味人のものになるのではないか。そして、知が更新されることもなくなり、また参入する人数も少ないならば、興味は自ずと過去の蓄積の参照、掘り起こしに向うのではないか。すなわち、歴史である。

もちろん、そうではなくて、現代とコミットして社会と関わってゆく手もある。ただ、それは社会システムの改善や修正であって、革命ではないと思う。それをあたかも革命のように言うのは詐欺ではないかと思う。ほんの少しの修正であっても、その有意義さを説明する方が良いのではないか。

とりとめもなく長々と書いてきたが、私が興味があるのは修正ではなく、歴史の方だ。

ニューアカの頃のような現代思想のムーブメントはもはや起こらないだろう。また、東西冷戦も終わり、社会システムに対する懸念も一応ケリがついたと思う。日本における人文知は趣味として歴史の中にその楽しみを見出すのではないかと、やや寂しい結論ではあるが冷静になって考えれば、そう思う。

・・・病み上がりの午後に想う

2013年3月26日火曜日

文化系トークラジオLife2013年3月号

文化系トークラジオLifeの『論壇のいま、Lifeのこれから』を聴いたので感想とかつらつらと考えたことを書いておきます。

まず、ラジオの主題は2つで、1つは「論壇について」で、もう1つは4月から隔月放送になるLifeについて「これからのLifeをどうするのか」といった内容でした。

面白かったのは大澤聡で、明治・大正・昭和時代の過去の論壇・文壇事情についての話でした。私としては山口昌男の『内田魯庵山脈』で読んでいたので彼の話は大体分かるような気がしたし、それを補完する意味で面白い話だった。

また、『Lifeのこれから』についてはユルイ社会学って感じが結論だったろうか?これについては出演者が社会学者の鈴木謙介と斎藤哲也・速水健朗・仲俣暁生らライターなので、社会学者は専門は社会学だし、ライターの専門は言うなれば考現学なので、その融合となればユルイ社会学という結論はごく当たり前な結論だと思う。

さて、聴いていて不満だったのは「論壇のいま」のパートで、イデオロギー的な、あるいは、政治経済的な今の状況がまったく話題になっていないことだった。唯一、「東西冷戦の終焉」というのが言われたきりで、そこから後の言及がまったく無かった。当たり前だからわざわざ触れなかったのかもしれないが、やはり、前提条件として、今、自分たちが生きている世界の政治体制や経済体制について一応触れておくべきではなかったろうか。

そこで今の状況について、私なりの見立てだが、簡単に書いておくと
・1989年ベルリンの壁崩壊、1991年ソ連崩壊により東西冷戦構造が崩壊した。 

・東西冷戦構造の崩壊によって東側諸国が西側諸国の市場に組み入れられる、いわゆるグローバリゼーションが始まった。そして、2000年に中国がWTOに加盟して、安価な労働力が中国を世界の工場にする。 2012年には中国は日本のGDPを抜いて世界第2位の経済大国になる。

・一方、日本は製造業が中国に奪われて経済力は下降の一途をたどり、失われた10年と言われたが、10年どころか20年も経済成長が1%という低迷を迎える。

・中国は米国と世界を二分する覇権を目指しており、日本は米国と中国という二大超大国の中間という難しい立場に位置する。(さらにロシアを加えることもできる。)

・東アジアに絞れば、日本、韓国、北朝鮮の三国が微妙な関係にある。

・東西構造崩壊に対して日本の論壇は沈黙してしまった。なぜなら日本の論壇は左翼が多く、社会主義の失敗を素直に認められなかったからだ。

・今後の日本の課題は経済大国から失墜して下降をたどる中で、個人や企業や日本社会がどうやってグローバルな大競争時代を生き抜いてゆくか、である。端的に言えば雇用の問題である。ちなみに他の欧米先進国も同じ悩みを抱えている。
かいつまんで言うと以上のようになるが、他にも中東や北アフリカ、EUやロシアも大いに変化しており、言及出来ていないことも多々あるのを断っておく。

ともかく、世界情勢の現状と今後の日本の課題について言及しないで論壇について語っても仕方がないのではないか。論客の見た目とかトークのうまい下手とか内容ではなく、うわべについていくら語っても一番肝心な内容が疎かにはなっては本末転倒ではないか。もちろん、視覚効果やパフォーマンスを不要と言っているわけではない。いろいろな伝達メディアが発達してきたのだから、それらを使うことを否定することはできない。しかし、何よりも肝心な内容がどうでも良いというような扱いではダメだと思う。

さて、総じて今放送の結論としては、打ち上げやピクニックなどサロンやサロンを通じたネットワークが大事だという話だったと思う。それは本記事でも示した山口昌男の『内田魯庵山脈』でも言っていた話だと思う。さらにこれらを推し進めれば、山口昌男が晩年に著した遊民的な生き方を示した敗者学にも通じると思う。