2010年5月8日土曜日

オタクの話

確かに「純文学は真面目に考え、アニメは最初から真面目に考えようとしない」というのはあります。私もガンダムを題材にガンダムオタクの人に真面目な話をしたら、「たかがガンダムにそんな意味をくみ取るなんて」と呆れられてしまった経験がありますね。

その人は私より詳しくガンダムを知っているのに「じゃあ、あなたはそんな他愛も無いガンダムに夢中になっているのはムダではないの?他愛も無いと思われていることにも、実は大切な意味があるから、世間から他愛もないと見なされているものでも自分は一生懸命取り組むんじゃないの?」と思ったのですが

ところで、その人はガンダムオタクだったけど、一方でミリタリーマニアでした。もともと、『ガンダム』は富野由悠季がハインラインの『宇宙の戦士』(←端的に言えば保守系)を批判的に捉えて創作したはずのものでした。それなのに、結果的には、『ガンダム』は保守系の作品として捉えられるという皮肉

なので、「小説は真面目に、アニメは遊び半分で」という批評を看過していると、先のような歪められた形で通ってしまう。まあ、物語の解釈は人それぞれなので、それも仕方ないことではあるのですが・・・。でも、「そうじゃないんだよ」という情報も必要だと思います。

ただし、オタク的なものが逆流するのはどうかとは思います。オタク的なものがそれまでの伝統文化を破壊するのってあります。ただ、生命の進化と一緒でそれも自然淘汰なのかもしれませんが、でも、やはり、年寄りの自分としては(笑)、ひと言、言いたくなります(笑)。歳取るのって嫌ですね。

そういう意味では「生物の絶滅を防ぐ」という行為は進化論に反した行為かもしれません。実際、昆虫の世界ではどんどん新しい種が生まれては消えていっているとか。未だに知られていない種類の昆虫がたくさんジャングルにはいるらしいし。

話を戻すと「アニメを正当に評価しない」という日本の体質は昔からあって、例えば、浮世絵とかもそうじゃないかと思います。西洋で芸術として高く評価されたから、逆に浮世絵の芸術性が日本でも認められたわけで、西洋で認められていなければ、単なる好事家の枕絵になっていたかもしれません。

今でも日本の浮世絵収集家、あ、春画収集家と言った方がいいのかも、は、江戸時代からのオタクの系譜といっていいのかもしれません。そうなると「アニメを正当に評価しない」という日本の体質は伝統文化なのかもしれません(笑I)。あ!それじゃあ、いけない!

それと『宇宙の戦士』の映画版『スターシップ・トゥルパーズ』も原作の『宇宙の戦士』を批判的に捉えて、皮肉った内容になっているのですが、これが映画を見た人には皮肉と気づかない人がけっこういました。先に言ったガンダムオタクの人もその一人でした。「どこが皮肉なの?」と真顔で聞かれて吃驚

思わず絶句したのですが、いざ、説明しようとした私も「あれ?あれって皮肉じゃあなかったのかしら?」と自分に自信が持てなくなってしまいました(笑)。案外、あれを作ったアメリカ人の方が平和な考えをしているのかもしれません。ちょっと悩んでしまいました。

なので、個人や市民、国や政府は分けて考えないといけないと思います。ただ、いざとなったら、普段は善い人なのに悪いことをしちゃうという場合もあります。普段は虫も殺せぬ優しい人なのに、いざ、戦争に行くと一生懸命働いちゃう感じだと思います。

なので、個人レベルの思考と国レベルの思考など様々な階層があるのだと思います。なので、私は中国を批判してますが、それは国レベルであって個人レベルではありません。個人は別だと思います。国レベルの話は拙論『日本の未来戦略』参照http://www.neoaca.com/critique

GoogleVoiceについて

グーグルのサービス「Goggles」は画像内のテキストを翻訳できるらしい。翻訳したい画像の文字をキャプチャして翻訳するらしい。そういえば、YouTubeでもキャプションを翻訳するサービスがあったような気がする。キャプチャとキャプションは微妙に違うかな・・・。

また、グーグルは街を丸ごと超高速のブロードバンドにする事業もやっている。電話もテレビも情報のラインはこれ1本で済むということなのだろうか。が、それもあるが、電話をタダにする話もあったように思う。グーグルボイスだ。

電話といえばスカイプがあったと思うが、グーグルボイスはもっと凄いらしい(笑)。←ありがちな言い方だなあ。ともかく、最大の特徴は意味を理解してくれるようになるだろうことだ。もし、意味を理解してくれるようになったら、本当に凄いと思う。←また、ありがちな表現をしてしまった。

コマンド入力が音声入力に変わる、なんてことじゃない。おそらく、同時翻訳が可能になるのではないだろうか。それが実現すると凄いと思う。人と人を隔てるものに、言葉の壁がある。つまり、言語の違いだ。もし、グーグルが自動で自然な同時通訳が可能になれば、意思の疎通が今よりも遥かに容易になる。

それはすなわち国境の壁を崩すことに成功するということではないだろうか?国と国がいがみ合うとき、相手のことをよく知らないことが大きな原因のひとつだと思う。自動同時通訳で異なる言語でも簡単にコミュニケーションが可能になれば、ともかくお互いをよく知ることが可能になる。

そして、ネットがあるから、距離の隔たりは関係なくなっている。つまり、本当に容易に外国人とコミュニケーションが可能になる。昔、エスペラント語、世界共通言語を作って異なる言語同士でもコミュニケーションを図りやすくしようという運動があった。ちなみに、考えた人はポーランド人医師だ。

だが、グーグルが自動同時通訳を作れば、エスペラントは要らなくなる。それに人々は自分の母国語を守ることも可能になる。いくら便利にするためとはいえ、世界の言語を1つの同じものにするわけにはいかないだろう。自分たちの文化もあるのだし。それらを守ることがグーグルの同時通訳なら可能になる。

グーグルボイスが意味をつかみ出すために、どうやら大量にデジタル化したグーグルブックスのデータが役立つらしい。なるほど、あれだけ大量のテキストデータがあれば、意味を取り出すことに役立てられるのかもしれない。意味ほど難しいものはないのに、グーグルはそれを可能にしてしまうかもしれない。

ところで、グーグルはアメリカから生まれた。そのアメリカは見方を変えれば亡命者の国だ。皆、自分の故郷の国を喪失して、自分の暮らす新たな国としてアメリカにやってきた。以前の国への反省からアメリカは世界に先駆けて良い国であろうとする国といえるかもしれない。世界の国の中で最も新しい国だ。

アメリカは国という組織形態の中で過去の伝統を引きずらない新しさを取り入れられる国だ。だが、国という組織形態に縛られていることは他の国と変わりはない。国という組織の限界だ。そこにグーグルとう新しい組織形態が芽吹いた。

グーグルはほどんどネットそのものになろうとしている。グーグルパブリックDNSもそのひとつの表れではないだろうか。そして、ネットには国境はない。アメリカから芽吹いたグーグルはその根をネットに沿って広げ、グーグルは世界を包み込んで、グーグルは世界中に存在しようとしている。

グーグルの自動通訳によって国境の壁は消え、国家の違いも形骸化するかもしれない。もちろん、国はそれぞれ、その国独自の国家体制・社会体制を敷けばいい。だが、そこに住まう人でその体制が気に入らなければ、移動すれば良くなるのではないか。実際、二重国籍はどんどん増えている。

21世紀において、国家に代わる新しい組織形態としてグーグルが生まれたのではないか。21世紀の人類社会では、国家は存在するが、人々は国家を選択可能になるのではないか。そうなれば、国民を抑圧するような国家権力は半ば無効化されるのではないだろうか。

そんなグーグルが巨大な国家権力である中国と衝突したのは必然だと言える。グーグル対中国。そして、その間に挟まれている日本。日本の未来はどこにあるのだろう?拙論『日本の未来戦略』を参照していただきたい!(笑)←手前味噌だなあhttp://www.neoaca.com/critique

2010年5月7日金曜日

普天間問題その2

普天間基地移設問題について。徳之島が移設に反対を表明するのは理解できる。だが、沖縄にこれ以上基地を押し付けるのは不公平だろう。基地問題は日本全体の問題だ。鳩山だけに責任を押しつけるのは間違っていると思う。

しかし、鳩山が徳之島と話し合いたいというのに、徳之島が話し合いを拒否するのは民主主義の精神に反するのではないか。問題に対して話し合いをするのが民主主義だろう。その話し合いを拒否するのは民主主義の精神に反するようにも感じる。

したがって、基地問題が日本全体の問題なのだから、国民投票にすべきではないだろうか?まず、地理的条件から候補地を徳之島以外に、あと2つ追加する。そして、3つの候補地から国民投票によって選ぶというのは、どうだろうか?地元の利益を優先するのはどこも同じだ。基地問題は国の問題だ。

3つの候補地から国民全体がその中から選べば、国民自身にも選んだ責任を感じられるようになるだろう。日本全体の問題なのだから、その責任を国民一人一人が感じるべきではないのか?それが民主主義というものではないだろうか?

鳩山ひとりに基地問題の責任を負わせて国民は知らん顔をするのは、民主主義ではないだろう。この問題が政府と候補地が話し合って決められるような問題ではないだろう(もちろん、受け入れる候補地があれば別だが、まず無いだろう)。そうであれば、国民投票で決めて然るべき問題ではないだろうか。

徳之島の町長のように「話し合いを拒否して後は知らない。沖縄だけが苦しめばいいだろう」というのでは不公平だろう。もし、国民投票で3候補地が決まれば、地元の首長は基地が地元に来ることによる、日本のデメリットをアピールせざるをえないのではないだろうか?

また、もし、国民投票が規定の投票率に達しない場合は、政府に決定権が委ねられたとしてしまえばいいではないか。棄権した者は決定できなかったというのはあるだろう。いずれにしても、基地問題は日本全体の問題として考えるべきではないだろうか?それが民主主義ではないのだろうか。

もちろん、これまでツイートした考えは、基地を国外に移設できなかった場合の話しだが。

2010年5月5日水曜日

ひろゆき×勝間和代から日本のIT企業まで

ひろゆきと勝間の対談が話題になっているらしい。


1.勝間和代について
私は勝間女史に関しては特に興味はない。強いて言えば、良いキャリアを持っているのに、やっていることは啓発セミナーになっているのではないかと思う。例えば、経営コンサルの大前研一は経営コンサルの合間に人材育成のために経営セミナーをやっている感じがするのに対して、勝間女史は啓発セミナーを主業務としてやっているように感じられる。そして、内容は啓発セミナーであって、経営セミナーではないのではないかと思う。良いキャリアなのに不思議だ

2.ひろゆきについて
ひろゆき氏はある種のリアリズムを基づいた経営哲学によって会社を運営していると思う。それは旧来の日本には余り無かった経営スタイルであるため、批判も多いが良い面もある。荒っぽく言えば、アメリカ的な自由な雰囲気がある。氏を批判するのは自由だし、氏が自分の思うままに会社運営するのも自由だ。

3.2ちゃんについて
ただ、今はひろゆき氏の2ちゃんもニコ動も劣勢ではないかと思う。ツイッターとUSTにその地位を脅かされているのではないだろうか。ツイッターのコメントがUSTに反映されるのは大きい。また、若者の2ちゃん離れも大きい。2ちゃんはひと世代前は辛辣な辛口コメントが多かったが、今はコミュニケーション不全の若者が多いのではないか。つまり、極端に言えば、話ができない相手が多くて、コミュニケーションが成立しなくなったのではないだろうか?ある種、ユーザの傾向が変わったのかもしれない。また、ニコ動も弾幕というコメントは2ちゃんのような辛口コメントだったからこそ、有意義だったが、それが凡庸な悪態になったのではユーザが興ざめしてしまう。そして、ログインや入場制限がユーザに制限をかけてしまっている。たしかにツイッターもログインが必要だが、これを窓口に議論は継続できる。

4.劣勢の日本のIT企業
ところで、動画共有サービスは日本発のものが少ないと思う。ニコ動やGyaOやアメーバビジョンがあるが、その他はあるのだろうか?動画検索しても引っ掛かるのは海外のサイトが多いのではないか?日本では動画共有サイトを運営する日本企業が育たなかったのかもしれない。先日、ライブドアが韓国企業に買収される発表があった。先述したように2ちゃんもニコ動もツイッターやUSTに押されている。検索サイトはGoogleやYahooだ。ブログではてなやアメーバは日本企業だが、FC2やライブドアは外資だ。日本ではIT企業は育たなかったかもしれない。ウェブでは、意外と中国や韓国のIT企業が強い。日本は若者が企業して大きくしたIT企業があまり育たなかったかもしれない。しかし、IT産業が大きくなった今、これから起業しても、買収されることはあっても、そこが基幹になる可能性は低い。日本のIT企業は尽く外資のIT企業に乗っ取られるかも。もし、中国と米国が対立したとき、日本のIT企業が中国系に独占されていれば、日本からグーグルを追い出すかもしれない。そのとき、日本は百度を選択させられるかもしれない。百度は、当然、中国政府が言論統制しているのだから、日本も中国の言論統制下に置かれるかもしれない。だが、考え方によって同じかもしれない。もし、野中広務の言うことが真実なら、今までの自民党政権下では、官房機密費という税金を自民党に有利になるように世論操作するために政治評論家にバラまかれていたことになる。中国が検閲によって言論統制するように、日本は評論家によって世論操作していた。アジア人は中央政府の統制下におかれることを是とする国民性があるのかもしれない。もし、欧米なら、官房機密費で世論操作していたとバレようものなら、極めて大きなスキャンダルになると思う。中国の言論統制や日本の世論操作が、それほど騒がれないのは、アジア的気質があるからかもしれない。中国政府の言論統制を他人事と思っていると、知らぬ間に自分たちもその統制下に置かれていることになるかもしれない。それは北朝鮮の国民と同じような立場になるということだ。もし、私が中国政府なら、百度を、実質的な国家管理下に置き、アジアのグーグルにして、アジア全体の言論統制に使うだろう。

日本ではIT産業を上手に育てられなかった。そして、ウェブの言論プラットフォームは米国か中国の企業に委ねられるかもしれない。両者が対立したとき、日本はどうなるだろうか・・・。

2010年5月4日火曜日

『ゲーデル的脱構築』について

ネットを散見していたら、2、3日前からゲーデルが話題になっていたみたい。「ゲーデル的脱構築」とかが俎上に上がっていた。私の記憶では、当時でもおおむねスルーされたような気がする。ただし、それでも気持ちだけは分かるから、それをどう繋げるかをみんなで思案していたんじゃないかと思う。

ゲーデルの不完全性定理については自己言及型パラドックスによって感覚的な理解がしやすいと思う。また、対角線論法による説明でも昨今は理解しやすくなったと思う。そもそも不完全性定理のおおよそ意味するところを理解しているからこそ、グレッグ・イーガンのSF小説が面白いと感じるのでは。
 
ソーカル事件に過剰反応し過ぎだと私は思う。もっと自由に科学から概念を借用して使っていいと思う。確かに詭弁に利用されたり、誤用するリスクはあるのだけど、そのリスクを避けるために、思考の自由をそぎ落としてしまうのは、やはり、もったいないと思う。真偽・真贋はある程度自己責任で判断。

また、科学は仮説を立てて試行錯誤するのだから、そこには失敗が数多く含まれている。見方を変えれば、ニセ科学は失敗を成功と勘違いしているとも言えるかもしれない。とにかく、科学を真理だけだと崇拝するのはちょっと違うと思う。

科学者の頭の中では、1つの正しい仮説の前に99の間違った仮説があったかもしれない。「科学は絶対に正しい」的な感覚はその1つの正しい仮説の部分しか見ていないかもしれない。それは氷山の一角で、その下には99の間違った仮説があったかもしれないのだ。科学者の方が平気で間違ったことを言う。

ゲーデルが神の存在を云々することは特に不思議ではない。それは存在論だからだ。物理学などはもろに存在論だろう。哲学は存在論を構築できなかった。神学は神概念で存在論を構築したが、人々の中で「神が死んだ」感覚では意味を為さなかった。

世界の4大論理学者にゲーデルの他にアリストテレス、フレーゲ、タルスキがいる。タルスキはポーランドの数学者だ。ゲーデルはオーストリア出身でウィーン学団と関わりがある。一方、タルスキはポーランド数学に属する。拙コラムを参照のことhttp://www.neoaca.com/column

万が一、勘違いするかもしれないから言っておくと、「ゲーデル」と「ゲーデル的脱構築」は分けて考えないといけない。で、「ゲーデル的脱構築」は、まあ、雰囲気的な言葉であって、そこに深い意味を求めても仕方ない。そこに意味が無いと知って怒るのも分からないでもないが、やや不粋ではある。

「数学を形式的に矛盾のない体系にする」というヒルベルトの試みがあったのだが、ゲーデルの不完全性定理によって数学の無矛盾の体系化は不可能であることが分かった。不完全性定理に従えば、数学は不完全なのだ。これは「数学には矛盾がない」という世界観に対してコペルニクス的転回を迫られた。

つまり、「数学は矛盾がない完全な体系」ではなく、「数学は、それ自身では無矛盾を示せない不完全な体系である」という大きな数学観の転換を迫られた。

次に、脱構築だが、脱構築とは何かというとテキストの読み替えだ。あるテキストは、通常、Aという内容に読める。しかし、脱構築(あるいは誤読)するとBという内容に読めてしまう(あるいは読んでしまう)。そのとき、場合によっては、Aだと思っていたのが、反対の反Aに読めてしまうものもある。

それが先程の「数学は無矛盾で完全だと思っていたのが、実はそうではなくて不完全だった」という不完全性定理に脱構築が似ているように感じてしまう原因だと思う。脱構築はAをAとは違うBと読み替える作業だけど、たまにAと反対の反Aと読める場合もあるということ。←とても荒っぽく言えば、だが。

良い例が思い浮かばないけど、脱構築じゃなくて誤読で言えば「情けは人のためならず」という言葉がある。本来は「情けは人のためになるから、人に情けをかけなさい」という意味だった。ところが、誤読して「情けをかけると人は怠けるので、人に情けをかけるのは良くない」という反対の意味に捉えられた

「ゲーデル的脱構築」とは、まあ、今、言ったようなそんなニュアンスが含まれている。ただし、別の捉え方も可能なんだけど、それは割愛する。いずれにしても、「ゲーデル的脱構築」というのは、あまり深い意味のない言葉で掘り下げても仕方がない言葉だと思う。

当時はまだ分かり易いテキストもなく、ゲーデルは難解だったから、柄谷が曖昧な意味で、かつ不正確な表現で「ゲーデル的」と使ってしまったとしても、あまり責める気にはなれない。たぶん、当時もそれを承知で話半分で聞いていた人もけっこういたと思う。真面目に悩んだ人もいたかもしれないが(笑)。

ちなみに、「脱構築」はDeconstructionである。一方、似た単語にDestructionがある。これは「破壊」である。というわけで、手前味噌ですが(笑)、こちら、破壊哲学もよろしく!→http://www.neoaca.com/

追記

東浩紀がGW頃からツイッターで話題になっている「ゲーデル的」について言及していた。まあ、おおむね、氏の言っていることが分かる。私が5月4日に言及したことと同じような感じだと思う。今回、話題の流れを傍観していて思ったのは、意味の継承がなされず、途中で断絶しているということだ。

いくつかの原因がある。意味が断絶してしまったこととソーカル事件の影響がある。しかし、ソーカル事件はもったいないことをしていると思う。思考の自由を自ら奪ってしまっていると思うからだ。ちょっと危うい理解で使っても良いと思うし、その方が却ってニセ科学などに対する警戒心を高めると思う。

意味の断絶が問題。たぶん、東浩紀自身、まだ、一読者だった頃から感じていたことではないかと思う。断絶は90年代半ば頃にはすでに始まっていたと思う。←ちょっと時期を特定するのは自信がないが。それがネットによってはっきりとさらけ出されたと思う。全然、伝わっていなかった、・・・と。

ゼロアカのときに「文学の全体性の回復」みたいな話になっていたと思うが、それとも少し関係してくると思う。意味の断絶を修復して、再び、全体性を回復するというのがあると思う。実は『神話を考える』を読んでいても、意味が断絶しているのをちょっと感じていた。

まあ、私が歳をとって単に過去の事情を少し知っているだけなんだが(笑)。今の若者たちが過去の経緯を知らないのを単に無知と言ってしまうのも、ちょっと酷な気もする。それなりに長い歴史があって、それを若者に知ってて当然というのもちょっと可哀想かなという気がしないでもない。

だが、大きな断絶があって、まるで過去と現在が別世界になってしまっているのには戸惑ってしまう。しかも、あらぬ方向に話が進んでいく。まあ、それを「新しい」と言うのかもしれないが。でも、それを進歩とは思えない。歴史の勉強が必要ではないだろうか。でも、解釈の違いが出てくるんだろうなあ。

昨日、「スコラ坂本龍一の音楽学校」という番組をNHKでやっていた。「若い芽を摘む会」の会長を自認していた坂本龍一が教育に熱心だったのには、皮肉ではなしに感動した。これも意味の継承に努めていると言えると思う。それにしてもミュージシャンは音楽が楽しそうで羨ましい。

あ。「若い芽を摘む会会長」と言っても、要は「厳しい師匠」という意味で、それは後進の育成に熱心だということと同意なので、現在、教育熱心なのと矛盾はしない。スラムダンクの安西監督が「白髪鬼だったのが、優しくなった」みたいなものだと思う。それにしても、教授はカッコいいと思ってしまう。

こんなことを言うと怒られちゃうかもしれないけれど、今の若者は現代アートを云々する前に、現代アートを理解する素地ができていないんじゃないかと思う。近代人のような古いモダンな素地(足場)があって、現代アートを受け止められるのではないかと感じられる。若者はポストモダンなのでそれがない。

『神話が考える』のモダンとポストモダンの区分けに相当するのかもしれない。もう少し、意味の断絶も含めて、その辺りを突っ込んだレビューを書き加える必要があるかな。あ。『神話が考える』の現時点の感想はこちら。http://www.neoaca.com/review


ゲーデルの話題で意味の断絶の話をしたけれど、これはゲーデルの話題に限らず、多くの分野に及んでいると思う。上の世代から今の若者に継承されずに断絶したものは多い。ちょっと気になるのは、メディアに対する不信がある。今の若者はメディアに対する不信があるが、普通の人もいるが、極端な人も多い

ネットが普及したことによって、新聞やテレビなどの従来のマスメディアに対する不信が声高に言われた。これは批判だから、まあ、別に良いのだけれど、効果が効きすぎて、本当に従来のマスメディアをまったく信用しなくなっている人が出はじめている。それはちょっと違うと思う。

「これは絶対に真実しか言わないメディア」「あそこは全部ウソしか言わないメディア」と極端に分けるのではなく、自分自身で判断して疑わしいとグレーに判断した方がいいと思う。確かにメディアによって偏りがある。だから、その偏りを承知していれば、差し引いて考えればいいのではないかと思う。

例えば、Newsweekなんて保守寄りだったと思う。競合はTIMEだったんじゃないかな?斬新な内容も多いけど、眉唾の怪しげな記事も平気でもっともらしく載せていた。そういうのを承知して自分で判断すればいいと思う。そして、自分だけでは確実な判断はできないのだから、あくまで疑うだけだ。

できたら、2つの相反する記事にあたる方が全体を俯瞰しやすい。昔なら右と左の両方を見れば、大体、分かりやすかったと思う。まあ、読売新聞と朝日新聞の両方を見るようなものかもしれない。それぞれ傾向(偏り)がある。ところが、どちらかを絶対に正しいと思い込んでしまうと偏って不正確になるかも

だが、ときに決断を迫られるときには両方を選択できないので、1つの行動を選ばなけれならない。そのときにはそれまで積み重ねた経験を総合して判断すればいいと思う。ずいぶん、当たり前のことを書いていると思う。ところが、昨今、良識派や穏健派というのが言論から見られなくなったと感じる。

東西冷戦が終結してグローバリズムが進行したとき、日本は新しい将来像を立てるべきだったが、それができなかった。旧来の体制が強固だったのもあるし、新しい将来像を定めることができなかったのもある。いま、中国に追い抜かれて、はじめて自分たちが足踏みしていたことを実感しているのではないか?

上の世代は旧来の思考を引きずったまま新しいモデルを持てなかった。そのため、言論な中身は停滞した。一方、若者はそんな空疎な言論と実際の現実のズレを見て、言論が無意味で不要だと思ってしまった。言論と現実がリンクしていないとき、言論なんて不要だと思ってしまったのではないか。

そして、将来像を見失った言論はモデルがないため迷走して良識を失っていったのかもしれない。言論が連続性を持っていれば、なだらかな繋がりが保たれるだろうから、良識派や穏健派が残ったのかもしれないが、今やそれは見当たらない。念のためだが、保守は名前こそ保守だが別に良識と関係ない。

ちょと話が長くなりすぎた・・・。ともかく、これ以上の断絶を防ぎ、良識を取り戻すべきだと思う。もちろん、個人は自由で良いのだから、別に良識とやらに囚われる必要はないし、良識に縛るようなことがあってはならない。だが、社会の中にまったく良識派が存在しないのも、いささか問題だと思う。


ゲーデルの不完全性定理の一般的な理解は自己言及型パラドックスで良いと思う。例の「『クレタ人は嘘つきだ』とクレタ人は言った」というやつ。もし、このクレタ人が言ったことが本当なら、『』内は真実になるので、その結果、クレタ人は嘘つきだという結論になる。が、それだと言った人は嘘つきで矛盾

また、クレタ人が嘘つきだとすると、このクレタ人が言っていることも嘘になるので、『』内の話は嘘になるから、結果、クレタ人は正直者という結論になる。しかし、それだと最初のクレタ人は嘘つきだという前提と矛盾してしまう。こういうのを自己言及型パラドックスという。

自分自身で自分が矛盾していないことを証明できないというのが、なんとな~く分かるような気がしませんか?この自分である定理をpとすると、pが矛盾していないことを証明するにはpを含む、より大きな定理が必要になる、らしいです。「クレタ人は嘘つき」だの喩え話の場合は人間を持ってくるのかな?

でも、pより大きな定理をqとしても、そのqが自己矛盾していないのを証明するためには、qよりももっと大きな定理を持ってこなければならない。こうなると、延々とp<・・・と続いてゆく。すると、最後には「数学には数学自身が無矛盾であることを証明できない」ということになる。

だいたい、こんな感じが一般的な理解だったんじゃないかと思う。ウィキを見ると自己言及型パラドックスを使って不完全性定理を説明することをちょっと否定的に書いてある。ただ、これは日本で最初に不完全性定理がポピュラーになったときも言われたことだと思う。でも、一般的にはこの理解で良いと思う

でも、ちょっと自信はない(笑)。間違っているかもしれない(笑)。私はおおざっぱだし、あまり頭が良い方ではない。むしろ、悪い方に入る。実はネオアカのブックレビューを加筆したんだけど、そのとき、本文をちょっと読み直したら、稚拙な文章で恥ずかしくなった。