2013年4月25日木曜日

細田守監督『おおかみこどもの雨と雪』

 
 
遅ればせながら、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』をようやく見たので感想を書いておきます。以下に感想を断片的に列挙してゆきます。



1.メタモルフォーゼ
まず、アニメの基本的な表現でメタモルフォーゼというのがありますが、この作品では人間から狼へ変身するというメタモルフォーゼがスマートに描かれていて「さすがアニメならでは表現だなあ」と感心しました。実写では不自然だったり、気味悪かったりするメタモルフォーゼがアニメでは微笑ましく楽しく見ることができました。

2.CG技術
山とか雨水とか霧とかのCG技術が私には不思議とリアルに感じられました。作品を観ていたときに「これはCGだ」と分かるのですが、だからといって「CGだってバレてるからダメ」というわけではありませんでした。CGだと分かるのですが、その描写が私には妙にリアルに感じられたのです。観ていたとき「これは実写を混ぜているんだろうか?」と思ったくらいです。おそらく、効果として使っている部分のCGだと思うのですが、それがなぜか現実に感じたものと同じようにリアルに感じさせました。たぶん、今までも使われてきたCG技術で特に変わった技術を用いていないのではないかと思うのですが、コンピュータの処理能力の向上でしょうか、なぜかリアルに感じました。

3.シングルマザーの子育ての大変さ
シングルマザーの子育てと言っても花の子育ては狼人間の子育てなので普通の人間の子育てとはちょっと違いますが、それでもそういった特殊な設定にすることでかえってシングルマザーの子育ての大変さが浮き彫りになったように思います。特にシングルマザーが社会から孤立してしまう環境というのが見えるのですが、ただ、この作品の主人公・花はそれを眉間にシワを寄せて苦労するというのではなく、苦労しながらも楽しく子育てしているので孤立することによる陰鬱なイメージを和らげていました。(それから、子供たちが部屋をおもいっきり散らかしたり、あるいは、雪が冷蔵庫と家具の隙間に座ったりと子供らしさが微笑ましかった。いや、子育てしている親としては大変だと思うけど(笑)。)

4.学校
学校という場が同調圧力などヒトを一定の枠にはめ込んでしまうのが見えました。雨が学校に馴染めなかったり、上級生にいじめられたりする場面は狼人間に限らず、普通の人間にもあることです。また、雪が他の女の子と趣味嗜好が違うのも同調圧力の一種だと思います。帰国子女にそういった趣味嗜好の違いがあるケースがあると思います。このように学校教育は規範ができる反面、自由な精神が阻害されてしまいます。果たして学校教育というのは本当に良い教育なのでしょうか?

5.農家
この作品は数あるアニメ作品の中では比較的リアルな農家を描いた作品だったのではないでしょうか。多くの作品は牧歌的に、あるいはエコロジカルに描いたりする作品が多いと思います。宮崎駿などはそういったイメージが強いです。しかし、それに比べて本作は比較的リアルな農家を描いていたと思います。

6.物語の分析
さて、いよいよ作品分析です。この物語の主軸について考えます。先に答えを言うと、この物語は異類婚姻譚を混じえた魔法昔話の一種で、魔法昔話の現代的な変形だと思います。

まず、異類婚姻譚とは何でしょうか?異類婚姻譚とは人間と人間以外との生き物が結婚するお話で、例えば日本の昔話で言えば人間と鶴が結婚する『鶴の恩返し』などがそうです。異類婚姻譚は人間にはない異類の特殊なパワーが話のポイントになります。おそらく、動物が持つ特殊能力がそういったお話を発想させるのだと思います。例えば、犬は人間には聞こえない犬笛を聞くこともできるし、人間には分からない微かな臭いも犬は嗅ぎ分けられます。動物と深く関わって生きていた昔の人たちは動物には人間にない特殊な力を持っているとたびたび感じたことでしょう。

次に魔法昔話ですが、魔法昔話の典型的なパターンは人間社会で生きてゆくのに行き詰まった者が絶望の果てに森に迷い込んで死にそうになるのですが、そこで魔女や魔法使いから魔法の不思議なパワーを授かり、再び人間社会に戻ってその不思議なパワーを使って成功するという話が多いです。実は異類婚姻譚も動物のパワーという不思議なパワーを授かって、その不思議なパワーで成功するという場合もありますので、異類婚姻譚も一種の魔法昔話に分類されるかもしれません。

さて、本作『おおかみこどもの雨と雪』ですが、これら魔法昔話に当てはめて考えるとどうなるでしょうか?魔法昔話の典型例で考えれば、普通なら

絶望して死にかける→魔法を手に入れる→魔法によって成功する

というのが典型パターンのはずですが、この『雨と雪』の場合はちょっと違います。魔法のパワーを手に入れるのですが、それが実生活に役立つことはほとんどありません。この物語を異類婚姻譚と考えても同じです。狼の特殊能力は人間の生活にはほとんど役立ちません。せいぜい裏の畑が野生動物に荒らされなくなるくらいです。近所の農家がイノシシに畑が荒らされているのに花の畑だけがイノシシに荒らされないで済むのはイノシシが狼人間がいるのを恐れて花たちの畑に近づかないからだと思います。しかし、実生活で役立つのせいぜいそれくらいで、それ以外は特殊能力はほとんど役立ちません。かえって正体がバレる原因になりかねません。つまり、現代社会においては魔法や動物の特殊能力は昔話の主人公たちを成功させたようには役立たなくなっているのです。かつて魔法は富や名声をもたらしましたが、現代では無意味な代物になっているのです。

さて、雪と雨は狼人間のままでは社会に受け入れられません。彼らには人間として生きるか、狼として山に住むかのどちらかしかありません。結局、雪と雨はそれぞれ違った選択をします。どちらが良い悪いではありません。彼らにとって生きやすい世界、生きたい世界を選んだだけです。この辺りは人間社会と動物世界のどちらにも軍配を上げておらず、ある意味でフェアな見方かもしれません。例えば宮崎駿を考えてみると、近代文明を捨てて中世社会に逆戻りするような選択をする作品が多いです。『天空の城ラピュタ』とか『未来少年コナン』とかです。まあ、文明に対して批判的であるのは良いのですが、現代文明をまるごと否定して、時代に逆行して中世社会に果たして戻れるのかという疑問はあります。しかし、本作では現代文明を真っ向から否定はしません。文明も自然もどちらにも進むべき可能性が残されています。

ただもし、あえて良し悪しがあるとすれば、それは異類を受け入れられない現代社会が悪いと私は思います。シングルマザーが孤立する社会、あるいはシングルマザーを同じ規格に同調させようとする社会、あるいは同調圧力のある学校やよそ者をすんなりとは受け入れられない農村社会とか、これらは多様性を認めない了見の狭い社会、狭量な社会です。もちろん、狭量な社会の側にも言い分はあります。異分子は社会の規範を守らず、社会に迷惑など神経を逆なでする負担をかけるからです。確かに同質の者同士が規範を守る社会は同質の者たちにとっては住みやすい社会かもしれません。しかし、そうではない自由な精神をもった自由な生き方をする者にとっては規範に縛られた社会は非常に住みにくい社会です。この作品に対して批判的である人たちには、規範に縛られた不自由さのためにストレスを抱えており、逆に花のように自由に生きている人たちに対してヤッカミにも似たような否定的な意識が働いているように私には感じられます。「花のような自由な生き方は現実にはありえない。日本社会では花のような自由な思想や振る舞いは許されるわけがないのだ」というような考えが無意識に働いているように感じられます。ある意味、思考の手足を縛られた自由にものを考えられない不幸な人たちなのかもしれません。

さて、話をまとめると、この『おおかみこどもの雨と雪』という作品は魔法昔話の一種かもしれないが、かつての魔法昔話が魔法によって成功する話だったのが、現代社会では魔法はもはや成功の足しにはならず、逆に社会に居場所がなくなってしまう原因にもなりかねない、役立たずでやっかいな代物というように捉えることができると思います。人間社会が高度にシステマティックに組み上げられているのとは対照的に、狼人間のプリミティブなパワーは実生活に役立つことは何ひとつないのです。しかし、狼人間たちは狼に変身して大地をおもいっきり駆けまわったり、スリリングな狩りを楽しんだりと生き物に本来備わった能力を全開で発揮することができます。狼人間の特殊能力は生きている実感とでもいうようなプリミティブな悦び、原初的な悦びを彼らにもたらしてくれます。人間は文明を築いて生きやすい環境を作ってきましたが、そういった悦びをなくして果たして本当に生きる意味があるのかと狼人間は私たち人間に問いかけているように私には感じられます。狼人間には人間社会で生きるという道以外に生きる実感を得るために山に還るという選択肢がありました。しかし、私たち人間には狼に変身して山に還るという選択肢はありません。生きる実感を取り戻すためにはどうすれば良いのか、私たちはよく考えなければならないと思います。

7.駆けまわることの楽しさ
さて、最後にこの作品で印象的なものがあります。それは駆けまわることの楽しさです。私の個人的な体験ですが、私は田舎育ちで犬も飼っていましたのでこの感覚はよく分かります。冬に犬を連れて近くの田んぼに行って一緒に駆け回ったことが何度もあるからです。駆けまわるときの犬の楽しそうなことといったらありません。犬が本当に活き活きとしているのです。目がキラキラと輝き、ハアハアという息から充実感が滲み出ています。全力で地面を蹴って駆けること、肉体を躍動させることがどんなに楽しいか犬もよく分かっています。雨と雪、そして花も雪の中を駆けまわって最後に笑って地面に寝っ転がりますが、本当に笑いがこみ上げ来るくらい駆けることが楽しいのです。この作品では、他にも狩りをすることの楽しさを描いた場面もあります。狩りをすることも駆けることと同様に、いえ、もしかしたら、それ以上に楽しいかもしれません。ここではこれ以上説明しませんが、狩り、狩猟の楽しさを知るためには動物文学を読むことをお勧めします。バイコフやシートン、あるいはトルストイにそういった狩猟の楽しさを伝える作品があります。



追記
文章全体を書き終わって改めて考え直してみたら、オーソドックスに見れば、この物語は魔法昔話というよりは異類婚姻譚の一種といった方が正確だと思う(爆)。もう面倒だから文章を書き換えないけど(苦笑)。

2013年4月22日月曜日

アート鑑賞について

アート鑑賞についてちょっと気になったので書いておきます。

アートを鑑賞することで人は何をしているのでしょうか?その答えは意味を見つけ出しているのです。そのアート作品を鑑賞することでそこから何らかの意味を見つけ出しているのです。見つけ出された意味はその人だけの意味かもしれませんし、他の鑑賞者と同じ意味を見出しているかもしれません。いずれにしても、どちらでも構いません。他人にとって意味がなくても、その人にとって意味があればそれで良いのです。その人にとってはそれがアート作品です。たとえ他人にとっては意味のないガラクタであっても!また、例えばAとBの2つのアート作品があったとします。そのどちらが優れているかなどというのはあまり意味がありません。私にとってはAの作品の方が重要な意味があったとしても、他人にとってはBの作品の方が重要かもしれません。アート作品の意味は人それぞれで違ってくるからです。ともかく、アート鑑賞において人々がやっていることは自分の感覚器官を開いてアート作品から意味を感じ取っているのです。そして、見い出された意味がその人にとって新しい意味であれば、驚きを伴った喜びになるわけです。

さて、そういったアート鑑賞において大事なことは何かというと自分の感覚のチャンネルを偏見や先入観や固定観念にとらわれずに開いておくことです。といっても、そんなに無理をしなくてもかまいません。肩の力を抜く程度だと考えていいでしょう。それに、多少の偏りがあったとしても大丈夫です。むしろ、それがフックとなって何らかの意味を作品から引っ掛けてきて、ひいては自分自身の精神分析になる場合もあるからです。ともかく、基本的には固定的なものの見方に囚われずに自由なものの見方ができるようにしておくことです。アートの鑑賞の仕方が分からない人の中で勉強熱心なタイプの人はわざわざアート作品の解説書などを読んで、解説書の見方を頭に叩き込んだ上で当のアート作品を鑑賞したりする場合があります。せっかくアートを鑑賞しても解説書通りの見方しか出来ない人がいます。さらには解説書が提示している見方しか認めずに、その見方に沿わない作品を貶したりする人までいます。そうなっては本末転倒です。本来、アート作品は頭脳を柔軟にするものです。未知なモノに対してそこから意味を引き出せるように柔軟に心のチャンネルをひねられるようにするためのものです。ラジオのチューナーをひねって周波数を合わせるように作品の意味に合わせるように心のチャンネルをひねるのです。ところがそうせずに最初から決まり事でもあるかのように決まった見方に凝り固まってしまったのではアート鑑賞をする意味がありません。(もちろん、そういうのが分かった上で解説書を比較のためや自分の見落としを補うために利用するのはかまいません。しかし、最初からその見方しかなないと決めつけて解説書通りの見方しか出来ないようであれば、解説書を見ずに作品を鑑賞して、まずは作品から何かを感じるとることから始めることをお勧めします。)

さて、では、心のチャンネルをひねるとはどういうことでしょうか?これは言葉で説明するのはなかなか難しいことです。例えば、森の中に入ってたくさんのセミが鳴いていたとしましょう。そのとき、ある珍しい種類のセミが鳴いているのに気付いたとします。それを一緒にいる仲間に伝えるとき、どんな音が聞こえるかを伝えることはできます。しかし、その音を聞き分けるためにどのように聞くかというのを伝えることはできません。単に耳を澄ましてよく聞いて下さいとしか言えません。聞き分け方というのは自分でチャンネルを合わせるしかないのです。といっても、これではあんまりですので、もう少し説明を試みます。たとえば、諺に「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というのがあります。これは幽霊が見えて恐ろしく感じたのですが、よくよくその幽霊を見てみると、なんのことはない枯れたススキが幽霊のように見えただけだった、所詮、幽霊なんておらず、単に枯れたススキが錯覚で幽霊のように見えただけだったという話です。しかし、これは逆にいうと枯れたススキに幽霊という意味が宿ったということができます。つまり、単なる枯れたススキであっても見方を変えれば、それは幽霊に見えたりするわけです。これをアート鑑賞に喩えていえば、ガラクタの寄せ集めに過ぎなかった作品がそこに何らかの意味を帯びてアート作品になったということが言えるわけです。心のチャンネルをひねるとはそのように見方を柔軟に変えられることなのです。

以前、読書会で取り上げたドゥルーズが精神活動において哲学、科学、アートという3つの軸を考えていましたが、アートだけはちょっと特殊な軸で知性で捉えられる類のものではありません。それは無限に対して開かている人間の感覚であって、知性で捉えるのではなくて、詩に感応するような感受性で捉えるものだと思います。ところが、どうも若い人の中にはアートも哲学とか科学とかの知的道具の捕獲網で捉えて標本ケースに並べて分類しようとしている人がいるようです。しかし、それはアートの楽しみ方としてはあまり好ましくありません。実際、そういったコレクションはやれなくはありませんが、そういったやり方はアートを鑑賞して新しい意味を発見するという楽しみを半減させてしまう恐れがあります。なぜなら、すぐに「ああ、これは以前に見たあの作品と同じ意味だな」となってしまい、以前、発見した意味に落ち込んでしまいやすいからです。アート鑑賞の楽しみは新しい意味の発見です。意味世界を更新することが楽しいのです。ですから、そのためにはアートの分類や整理をするのではなく、忘却する方が本当は良いのです。私たちは、日々、整理して分類しています。それは言語や知性にとってとても大切なことです。しかし、それには例外があってアートだけはあまり整理や分類を細かくやる必要はありません。いい加減であったりテキトーであったりで良いのです。いいえ、もっと言えば、忘れていてさえいても良いのです。

私たちはあらゆる物事、森羅万象を科学や論理学で理路整然と並べて、この世界や頭の中の言語世界を整理整頓して、この世から名付けえぬ何かを排除しています。
終いにはその名付けえぬ何かがまるで存在しないと思い込んだり、あるいは、その存在にまったく気付かなくなってさえしてしまいます。しかし、世界は人間が知覚できる以上に広く深いもので謎に満ちています。人間は所詮人間で、人間が知覚しているのは世界のごく一部に過ぎません。ただ、名付けえぬ何かにまったく触れられないかというとそうではなくて、ほんの少し触れられる可能性があります。それは何かというと、それこそがアートであり、知性の裂け目なのだと思います。なぜ、アートだけが名付けえぬものに触れられるのでしょうか。おそらく、アートという知性の裂け目はワームホールのようなもので無限や別次元につながっているのではないかと思います。ですから、知性の破れ目を残しておくことも実は大切なことなんだと思いますよ。随分、トンデモナイ話をしてしまいましたが、トンデモナイ話も自由な精神、詩心がなせるワザなのではないでしょうか。