2013年6月29日土曜日

フィリップ・K・ディック『ユービック』

 

今回はフィリップ・K・ディックの『ユービック』を取り上げます。なお、最初にお断りしておきますが、ネタバレで話しますので未読の方はご注意下さい。
 

さて、この物語は読んでいる最中は謎に満ちていましたが、読み終わってみれば、物語はとてもシンプルで「なあんだ、そういうことか!」と言った感じになります。しかし、よくよく考えてみると、この作品には実にユニークなディック特有の世界観や人間観が詰まっています。読み終わって全体を振り返ったとき、「なるほど!作者のディックが言いたかったのはそういうことか!」と大きくうなずくことになります。

まず、あらすじは次のようなストーリーです。超能力者と超能力者の超能力を無効にする力を持った不活性者たちがいる未来社会です。そこでは超能力者が超能力を使って社会に悪影響を働きかけるという問題のある社会です。そのため、悪い超能力者を捕まえることを専門とする会社があり、日夜、超能力者と戦っています。さて、超能力者を捕まえる会社で働く主人公チップは超能力者を狩るために不活性者たちを月に集結します。しかし、事前に超能力者たちに察知され、超能力者たちが仕掛けた爆弾でチップと不活性者たちは多大な損害を負います。チップたちのチームは半数を失い、残りの半数の多くは負傷します。チップたちは這々の体で地球に帰ります。ところが、帰ってきた地球では妙な現象が起こるのことに気づきます。それは時間退行現象といってその名の通り彼らの周囲の物の時間が退行してゆきます。(←この辺は本書でご確認下さい。)そして、一人ひとりが死んでゆくのです。彼らは逃げまわった挙句、チップの勤める会社の社長ラシターに救われます。一体、何が起こっているのでしょうか?実はチップたちは超能力者の仕掛けた爆弾でやられてしまい、生き残っていたと思っていたが、実は大怪我のために半死状態でコールドスリープされていたのです。しかし、コールドスリープされた人たちは、夢を見ているような状態で意識があり、その意識の世界をまるで現実の世界のように暮らしているのです。ところが、半死者たちの中にも特殊能力を持った者がいて、そいつはチップたちの意識を惑わす特殊能力を持った半死者だったのです。そのため、半死者となっていたチップたちは襲われ、時間退行現象という能力者の術中にはまってしまったのでした。しかし、この時間退行現象に対抗するものが1つだけありました。それがユービックだったのです。ユービックとはスプレーで、唯一時間退行現象を無効にすることができる力を持っています。ただし、だからといってユービックで敵の半死者を倒すことはできません。単に時間退行現象を相殺するだけの力です。結局、チップたちはこの意識の世界でも超能力者と戦った現実世界と同じように狩ったり狩られたりする者としての戦いが繰り広げられるのでした。

さて、この作品で描かれた世界観はひとことで言うと捕食的世界です。それは地球の生物たちを見ても分かるように生き物たちは基本的に捕食の関係にあります。例えば、蚊を食べるトンボ、トンボを食べる小鳥、小鳥を食べる鷲というように様々なところに食物連鎖があります。そして、人間の世界も超能力者と不活性者というように捕食の関係になっているのです。また、私たちの資本主義社会も似ていると思います。市場というフィールドで繰り広げられるのは企業たちの競争です。そこでも企業同士で捕食的世界が繰り広げられています。企業は利益を上げることに血眼になり、ついには企業合併で他の企業を飲み込んでしまいます。あるいは、競合相手を廃業に追い込んだりします。資本主義社会における企業も捕食的世界を生きているのです。この作品ではそういった資本主義の未来社会でも新たに超能力者を加えた捕食的な世界になっており、さらに半死状態の世界までもが食うか食われるかの捕食的世界を演じているのです。どこまでも続く捕食的世界・・・。人間はいつまでも、たとえ半死状態になっても、この捕食的世界で食うか食われるかを生き続けねばならないのです。

さて、このような捕食的な世界を生きる人間はどのような人間なのでしょうか?答えは簡単で大き過ぎもせず、小さ過ぎもしない、等身大の大きさの人間なのだと思います。なんのことか分かりにくいかもしれませんね。簡単に言えば本作の主人公チップや社長のラシターのような普通の人たちです。アメリカ社会で働く普通の人々といった方が良いかもしれません。ここで少しアメリカ社会について考えてみましょう。例えば、世界で一番労働時間の長い国はどこか分かりますか?もしかしたら、日本と答えた方もいるかもしれませんが、正解はアメリカです。アメリカは世界の人々から拝金主義だの資本主義の権化だのと嫌われることが多いですが、実は世界で一番の働き者の国でもあるのです。とはいえ、世界で一番の働き者でありたいなどとアメリカ国民は望んでいないかもしれませんが。ともかく、どんどん仕事をできるような環境にするためか、アメリカの大都市はどんどん眠らなくなっているみたいで、いわば24時間営業になりつつあるようです。それだけ人々はローテーションを組んでこまめに働いているのではないでしょうか?でも、そんなに働くと誰しもくたびれてきますよね。ヨレヨレの服みたいに肉体だけでなく、精神もくたびれてくるのではないでしょうか?ディックの小説に出てくる人たちも実はそういった人たちが多いのではないでしょうか?くたびれているとは言っても行き詰まったということではなくて、それでも仕事を滞らないように回してゆくという感じでしょうか。ディックの小説は主にパルプ・マガジンと呼ばれる娯楽誌に掲載されることが多かったそうです。読者は仕事で疲れているので、あまり深く考えずに軽く読んで楽しめるような読み物が多かったと思います。ですから、大衆小説と同じで出てくる登場人物がみんな読者たちと同じ等身大の人間で人情とちょっとしたロマンスと冒険があるような話が多かったのではないでしょうか。そういった人々が活躍する場を現代社会ではなくSFに置き換えたのがディックの小説のように感じます。ディックの人間観はそういった現代社会で忙しく働いて色褪せた日常生活を送る普通の人々なのです。ディックの人間観が最もよく表れていると私が思うのは、ディックの他の作品になるのですが、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の序文で述べられた文章です。(ちなみにこの『三つの聖痕』はディック的要素が万遍なく詰まったディック小説です。)以下、序文です。

つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切りぬけられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?

この序文にディックの人間観がよく表れていると思います。ハードボイルドのように格好つけることもなく、深刻ぶることもなく、ときに俗物的な面もさらしたり、惨めな気持ちでへこんでしまったり、笑顔で話しながら頭の片隅でちゃっかりと金銭の計算をしていたり、ひとりよがりなロマンスの妄想をしたり、ディックに出てくる人間はごくありふれたアメリカの労働者の姿なんだと思います。

これは他の作家と比較してみるとより鮮明に分かると思います。例えば、サイバーパンクの雄ウィリアム・ギブスンとは明らかに違います。ギブスンの場合、主人公たちはアウトローでアナーキストです。個人の力で組織に立ち向かうハッカーです。『ニューロマンサー』のケイスや『カウント・ゼロ』のボビーのような電脳カウボーイです。ところが、ディックの場合、主人公は組織に属するサラリーマンです。ギブスンの主人公が青年や少年だったら、ディックの主人公は『電気羊』のデッカードのようにくたびれた中年です。俳優で喩えたら前者がキアヌ・リーブスで後者がブルース・ウィリスです。私としては、できればギブスンの描く格好いいアウトローになりたかったものですが、現実にはそうも行かず(笑)、そうなると仕事に忙しく追われるディックの描くくたびれた中年になるのが現実で、(才能のある若者は是非ギブスンの方を目指して下さい。)、私たちに近いそういった登場人物に共感するかもしれません。もちろん、パルプ・マガジンの需要として読者が共感しやすくするためにわざとそういった人物を描くようにしたのかもしれませんが。

ともかく、SFで描かれる未来は輝かしいユートピアか恐ろしいディストピアになりがちで、そこで描かれる人間像もどちらか一方に偏ったタイプの人間になりがちです。しかし、ディックの描く人間は、どんなにテクノロジーが発達した未来になっても、現代社会を生きる私たちと同じように仕事と生活に追われるという、まるで現代人である私たちと同じ人間の姿なのです。そして、目の前の困難に対して、ちっぽけな力しか持たない人間がそのちっぽけな力にも関わらず、自分でやれるだけのことはやるという、宇宙や神から見たら愚かでちっぽけな存在に過ぎないのだけれど、それでも精一杯に一生懸命に生きる人間の姿なのです。

さて、この『ユービック』はフィリップ・K・ディックの入門書としては最も適した作品のひとつだと思います。非常に分かりやすくディックの世界を堪能できると思います。ディックの他の作品と共通する世界観や人間観が描かれていると思います。もちろん、SF的要素も十分に楽しめると思います。ですので、SFが苦手という方もディックの小説をまだ読んだことがないという方も、是非、『ユービック』を一読してみて下さい。

あ、それから、この『ユービック』だけでディックのすべての面が捉えられるというわけではありません。ディックにはもっと奥深い他の側面があって、それは哲学的だったり、サイケデリックであったり、神学的であったり、神秘主義的であったりします。いわゆる幻視者としてのディックです。それは『聖なる侵入』に代表されるヴァリスシリーズやインタビュー集『ラスト・テスタメント』の世界です。これらについても、このブログで追々取り上げてゆきたいと思います。

2013年6月27日木曜日

蒼井そら『ぶっちゃけ蒼井そら』


蒼井そらの『ぶっちゃけ蒼井そら』を読みました。


ぶっちゃけ、ごくフツーの女の子がごくフツーに仕事して、ごくフツーに仕事を通して成長してゆくというごくフツーの働く女性の物語でした。ただし、フツーと違うのは彼女の仕事がAV女優という、ただ一点です。この本はそんな蒼井そらの生い立ちからAVデビュー、さらにAV界のトップアイドルに成長する現在に至るまでの道のりを描いた自伝的エッセイです。さらに自伝だけでなく、彼女のセックス観や恋愛観、人生観までも飾ることなく率直に語られています。

一般に女性がセックス産業やポルノ産業で働くというと多くのひとは「苦海に身を沈める」というような眉をひそめるイメージがありますが、彼女の語り口からはそのような暗さは一切なく、むしろ明るく前向きで自分が一歩一歩前進して成長してゆくのを楽しんでいるという、喜んで学ぶという姿勢が感じられます。その明るさに無理をしているところは感じられず、いろいろと工夫して努力はしていますが、ひたむきというよりはむしろマイペースで頑張っているという感じがします。

そして、AV女優特有の悩みや葛藤も逃げることなく率直に語られています。それは家族との関係や恋人との関係です。家族や恋人にAV女優であることを打ち明けてAV女優という仕事を認めてもらうまでの悩みやAV女優の仕事を続けながら恋人とセックスしてゆくことの悩みなどです。これらの悩みはAV女優たち全員の悩みでもあると思います。これらの悩みに対して万人向けの普遍的な解答というわけではありませんが、蒼井そらという個人としての解答を提示していると言えるでしょう。もちろん、すべてに完璧な解答を出しているわけではなくて、どうしても答えの出ない矛盾もあります。しかし、彼女は無理に矛盾を歪めることをせずに矛盾は矛盾のままに、矛盾を抱えながらAV女優の仕事をしてゆくという、とても健全な自覚を持って取り組んでいます。

そんな彼女の姿勢を見ているとビジネス書でよくある、現場のたたき上げから成功していったビジネスマンたちのサクセスストーリーと似たものを感じます。そういったビジネスマンたちは仕事でどんな苦難があっても明るく前向きで諦めることなく頑張り、それでいてお客様に感謝するという謙虚な気持ちをいつも持っていたりします。彼らは誤って自分を高く評価し過ぎることはなく、他人が驚くほど自分を客観視しており、自分の利点を生かして仕事をし、自分の欠点を冷静に見つめています。蒼井そらはそういった仕事で成功するタイプと多くの共通点を持っていると感じさせます。

さて、アダルトビデオは映画と違って幻想をできる限り持続させようと努めます。確かに映画も感情移入できるように幻想を持続させようとはします。しかし、最終的にそこから引き出されるのは物語から一歩引いた客観的な視点です。映画は観客を没入させると同時に映画を見終わったときには観客が客観的な視点を獲得できるように支援しています。ところが、アダルトビデオは違います。アダルトビデオは観客がどこまでも性的に酔い痴れられるように幻想をできる限り持続させようとします。そのため、AV女優たちはアダルトビデオの外でも性的な対象としてのAV女優を演じることになります。インタビューや販売促進会でもAV女優として振る舞うことを要求されます。現実のリアルな人間ではなくて、AV女優という現実には存在しない人間を演じさせられます。このため、現実と幻想を見誤ったユーザーから淫乱や売女などという事実とは異なる罵声を浴びせられたりします。しかし、アダルトビデオが幻想をできる限り持続させることを目的としているので、商売上、それにはあまり大きな声で反論してきませんでした。そのため、AV女優と一般視聴者の間にはある種の情報の非対称が生じることになりました。これはAV女優に限ったことではなくて、セックスワーカーたちにも昔から付きまとってきた問題でした。その非対称が見えざる壁となって、周囲の無理解と間違った認識を生み、これまでAV女優たちやセックスワーカーたちに数多くの悲劇をもたらしてきました・・・。彼女たちは侮辱され蔑まれて人格や人間性を否定され深く傷つけられてきました。私は思います。もう、そろそろそんな哀しい悲劇は止めにしませんか?と。人類の歴史は愚かさの繰り返しですが、一方で確かに進歩してきた面もあると思います。人類は愚かさの中で少しずつですが、前進して問題を解決してきました。ですから、この性にまつわる問題も決して解決できない問題ではないと私は思うのです。そう考えるとこの本は今まで語られてこなかったAV女優側からの情報なのです。今までは聞こえてこなかった壁の向こうからの声です。そこで語られているのはAV女優を演じている偽りの声ではなくて、人間としての真実の声なのです。この蒼井そらの本は、可愛らしい女の子の小さな小さなひと声ですが、しかし、非対称の情報の壁に穴を穿つ、ひとつの大きな突破口ではないかと思います。

2013年6月25日火曜日

小林弘忠『歴代首相』

 
小林弘忠『歴代首相』を読んだ。


この本は日本の初代首相・伊藤博文から第58代首相・福田康夫まで総勢58名の歴代首相について書かれた本です。日本の政治を考えるとき、「日本の政治の歴史、特に時の宰相である最高権力者について知っていなければ!」という思いでこの本を買いました。最初は「戦前と戦後で分けて考えた方がいいかな?」とも思ったのですが、第二次大戦の敗戦があるとはいえ、やはり政治は繋がっており、戦前も無視できないなということで初代首相から書かれたこの本が値段も手頃だったので丁度良いということで選びました。

この本は各首相について生い立ちから始まり、どのようにして首相の座に登りつめ、首相となってからはどのような政治を行い、首相を辞めた後、どのように人生を締めくくったかまでを簡略に描いています。そういった訳で各々の首相のエピソードも興味深く読めるのですが、ただし読み進めるうちに、私が当初期待していたものとはちょっと違うなということが分かってきました。私が最初に期待したものというのは、時の最高権力者が如何に責任を持ってどのような考えで日本をその方向へ導こうとして政治を執ったのかというものでした。ところが、読み進めてゆくうちにどうやら日本の首相というのはそういう独裁的な日本をリードしてゆく最高権力者ではないというものでした。確かに歴代首相の中には独裁者に近い権力を集約した人も何人かはいます。しかし、それはいわゆる独裁者とはちょっとニュアンスが違います。

ちょっと他の国の例を考えてみましょう。かつての英国などは国王がいて国王が責任を持って国を統治していました。彼は統治において独裁的である一方で統治者としての責任感もあるわけです。(←そのうち議会制ができて国王の権力は失墜してしまいますが。)ところが、日本はどうかというと、例えば江戸時代を考えると天皇という国王がいるのですが、実質的な支配者としては将軍がいて彼が国を支配・統治しているわけです。ところが実際には、その下に老中がいて、彼らが実際の政治を仕切っているわけです。つまり、日本はピラミッドの頂点に為政者がいて、為政者が責任を持って統治するというスタイルになっていないのです。さて、話を本の時代に戻すと、戦後の日本は民主主義になったので、形式的には独裁者がいないスタイルになったかもしれないけれど、戦前の日本は大日本帝国なんていうイカメしい名前だからさぞや独裁者が威張って闊歩してたのかなと思って読むと、どうもそうではないのです。日本の首相は初代の伊藤博文のときから独裁者的ではないのです。構造的には共和制だった頃のローマのように元老院がいて執政官が選ばれて執政官が政治を執るというのに形は近いと思います。ただし、日本の場合は執政官たる首相の権威は低く、むしろ矢面に立たされる兵隊的下っ端的な感じでさえあります。

この執政官と元老院の関係は天皇とそれを陰で操る上皇に似ているのですが、かといって背後である上皇のように独裁者がいるかというと、どうもそうでもないのです。首相を支えている背後の人たちもいずれも独裁者的な側面がないのです。せいぜい山県有朋が独裁者に近いのですが、彼でさえ決定的に独裁者かというと独裁者ほどに強引な政治は執っていないように思えます。そうやって見てみると、どうも彼らには統治者としての責任感が欠如しているように思えるのです。もちろん、私は独裁者が良いといっている訳ではありません。しかし、どの首相も調整役であって、自らの考えを持ってリードしてゆく為政者には見えなかったのです。これは首相だけの責任ではなくて、首相を支える周囲にも責任があるとは思います。東京裁判でも連合国側は戦争の責任が誰にあるのかを巡って裁判をしたのですが、誰が戦争の最高責任者なのか分からず困ったのではないでしょうか?確かに東条英機だという見方はあると思います。しかし、彼は独裁者だったかというとどうもニュアンスが違う。東条は引き算思考の小役人で小さなことで周囲を締め上げていたとは思います。しかし、それは独裁者とは違います。石原莞爾も裁判の中で言っていますが、「自分にはいくらかの戦略はある。しかし、東条はこれっぽちも戦略を持ち合わせていない。皆無である。意見を持っていないものとは論争しようがない」と皮肉を込めつつも的確に東条のことを言い当てていると思います。そうやって見てゆくと日本の政治には君主のような支配者・統治者いなかったのではないかと思えてきます。日本の歴史を振り返ってみてパッと思いつくのは天皇親政をやろうとした後醍醐天皇くらいでしょうか。あとは織田信長が独裁者に相当するかもしれませんが、ただ彼の場合、本能寺で斃れたので統治者たらんとしたかどうか少し疑問です。とにかく、日本にはアメリカ大統領のようなリーダーはいなかったし、成立しなかったのではないかと思います。当人とそれを支える周囲というのがいなかったように思います。

なぜ、そうなったのでしょうか?私は日本人が騎馬民族でなかったからではないかと睨んでいます。世界の文明に目を向けてみると文明の支配者は多くが騎馬民族です。人類はその発展において農業という植物の飼い慣らしをしてきました。次に遊牧という動物の飼い慣らしをしてきました。そして、動物を飼い慣らす経験をした騎馬民族は今度はそれをヒトに応用してヒトを飼い慣らす文明を築いたのです。ところが、極東の島国・辺境日本は騎馬民族が支配者にはなりませんでした。そのことは中国の後宮のように宦官がいないことからも明らかです。宦官は去勢の技術が発達した結果、生まれた技術です。去勢は遊牧において動物を飼い慣らす技術から発展したものです。ところが、日本には宦官はいませんでした。そのため『源氏物語』に見られるように天皇の女たちに光源氏が手を出したりできたわけです。つまり、日本人は騎馬民族ではないためか、人を飼い慣らすこと人を支配することにあまりにも慣れていない節があります。極東の島国という辺境だからこそ起こった特殊な事情だと思います。

それにしても「ヒトがヒトを支配する」というのはあまり愉快な考えではありません。しかし、文明を支えていたのは農業に従事する奴隷だったという事実を見過ごすことはできません。また、従順になれない奴隷は兵士として軍隊に送られました。軍隊に送られて兵士として活躍するか、早めに間引かれるかのどちらかだったのではないでしょうか。時代が進むにつれて奴隷制も無くなりますが、それはヒューマニズムに目覚めたからというわけではなくて、他人に強制されて働く奴隷よりも自らの意思で働く労働者の方がよく働くという理由で奴隷制が無くなったという面もあります。このように文明とはヒトがヒトを支配する歴史だったという見方もあるのです。話は違いますが、シェークスピアの作品にもそのような人間観があってアメとムチでヒトを操るという場面が見られます。シェークスピア嫌いの人がいますが、彼らはそういうのをみて「人間とはまるで家畜のようなそんな単純なものではない」という思いでシェークスピアを嫌うのだと思います。ちなみに私もそういう人間観は好きではありません。しかし、厳然たる事実として文明社会とはそういう側面があるのも否定はできないと思います。

さて、何の話でしたでしょう?そうそう、日本の最高権力者に支配や統治する権限が与えられておらず、その責任感がないという話でした。いや、制度として権限は与えられているのだけれど、実際には歴史的な習慣のためか、それが機能していないという話でした。ならば、制度を大統領制にしろという意見があると思いますが、おそらく、制度を変えても日本人の習慣としてそれを機能しないものにしてしまうと思います。ここまで来ると日本人の精神構造の問題ではないかとさえ思えてきます。河合隼雄が指摘していましたが、日本人の精神構造と西洋人の精神構造は違うそうです。簡単に喩えて言えば、日本人がユング的であるのに対して西洋人はフロイト的であるそうです。確かに日本人の大衆の無意識はユングの集合的無意識に通じるものがあるような気がします。しかし、そうなってしまうと日本人はとことん政治に向かない民族だと思います。ある意味、日本人は支配される側でこそ力を発揮する民族なのかもしれません。組織の歯車としてよく働くが、少々頭が堅くて融通の効かない、しかし実際的な技術にかけては右に出るもののない優秀なエンジニア、(実際、世界で活躍する日本人ってそういう技術者が多くありませんか?)それが日本人に最もふさわしい姿なのかもしれません。え?私ですか?私は違います。私は日本人の中では変わり種の異端児ですから(笑)。ともかく、そうはいっても日本も独立国家なのですから、日本の首相は自己の信念に基いて自らの意思と責任をもって国を統治してほしいものだと思います。

えーと、随分、本の内容とは違う話になってしまいました。以上の記述は私が本を読みながら考えたまったく別のこと、妄想の話です。とにかく、現在の日本の政治を考えるためにも、大人の常識として日本の歴代の首相は知っておいた方が良いと思いますよ。

※文中で述べた日本人の精神構造については下記の本を参考になさって下さい。

2013年6月23日日曜日

浅田彰『逃走論』


今回は浅田彰の『逃走論』を取り上げます。

私がこの本を初めて手にとったのは1990年頃ではなかったかと思います。私が浅田彰を知ったのは京都大学の数学者でエッセイストの森毅の文章を読んで知ったのが初めてではなかったかと思います。森毅については高校生の頃、森毅の著書で中公新書から出ていた『数学受験術指南』を父親に薦められて読んで知っており、それ以来、私は森毅のファンになってしまい、なんとなく彼の書いたものを目にしたら読むようになっていました。それで森毅の文章を新聞か何かで見つけては読んでいたのですが、その中のどれかだと思うのですが、具体的にどこで浅田彰の名前を知ったのかは残念ながら忘れてしまいましたが、確かニューアカデミズムという名前と同時に目にしたような気がしています。それから話は少し違いますが、後日になって気付いたのですが、確か高校の国語の先生だったと思うのですが、授業中の雑談で「最近、天才が出たといって世間を騒がしている若者がいるが、頭でっかちなだけで経験のない若者に何ほどのことが分かるのか?!」といった批判的な話をしていたのを覚えており、あれはおそらく浅田彰のことを言っていたのだなと後になって気付いたりしました。まあ、年寄りが若者に嫉妬して批判するみたいな感じでちょっと情けない批判だったのですが、それでもまだ浅田彰を読んでいただけその先生はマシで、最近の教師などは生徒に本を読めといいながら、本人は全然読まんでいないなんてことはザラにあるのではないかと思います。



目次

逃走する文明
ゲイ・サイエンス
差異化のパラノイア
スキゾ・カルチャーの到来
対話 ドゥルーズ=ガタリを読む


マルクス主義とディコンストラクション
ぼくたちのマルクス
本物の日本銀行券は贋物だった
共同討議マルクス・貨幣・言語


ツマミ食い読書術
知の最前線への旅
N・G=レーゲン『経済学の神話』
今村仁司『労働のオントロギー』
広松渉『唯物史観と国家論』
栗本慎一郎『ブタペスト物語』
山本哲士『消費のメタファー』
柄谷行人『隠喩としての建築』
山口昌男『文化の詩学1・2』
蓮実重彦『映画誘惑のエクリチュール』

さて、この『逃走論』ですが、第Ⅰ部は楽しく読むことができました。私の場合、森毅を読んでいたので内容的には第Ⅰ部は森毅的に理解することが容易かったです。第Ⅱ部はこの本で一番難解なパートではないかと思います。特に柄谷行人・岩井克人との三人での共同討議は「よくもまあ、こんな小難しい会話ができるものだ」と感嘆のため息をもらしたものでした。ですので、第Ⅱ部は、後日、大学生になってからじっくり読んだ記憶があります。第Ⅲ部のツマミ食い読書術などは学生にとってとても魅力的な手引きでした。紹介されてある本は片っ端から読みたくなりましたし、当時は現代思想が花盛りだったので書店にも現代思想関連の本がたくさん並んでいました。あの頃の私は本当によく本を買っていましたね。もう、大きな本屋さんへ行くと「あれも欲しい、これも欲しい」で本屋から出るときは財布の中がいつもスッカラカンになっていました(笑)。今となっては楽しい思い出です。そういえば、当時は本を手元にたくさん置いておかない気が済まなかったのでカバンに何冊も本を詰め込んでは持ち運びしていました。読みたくなったらいつでも読めるように読みたくなりそうな本を何冊もカバンに入れていたのです。結局、あれこれ読んでゆくうちに本当に読みたい本が手元になくて何のためにカバンに本をたくさん詰め込んでいたんだと悔しく思うこともしばしばありました。本当に読みたくなった本は自宅の本棚に置いてきたなんてことがしばしばでした。本の重みでカバンの肩紐が食い込んで痛かったのを覚えています。これも今となっては懐かしい思い出です。

ただ、この本ではマルクスがたびたび引用されているので、ソ連が崩壊してしまった今となっては意味のない文章になってしまったのではないかと危惧される人もいるかもしれません。まあ、マルクスは、元々、批判をするだけで「じゃあ、どうするのか?」という実際的な解決策については未熟なままでしたからね。ただ、第Ⅰ部のスキゾキッズの精神だとか第Ⅲ部の読書術だとかは今の若者たちにも十分に役立つと思います。いえ、むしろ今の時代だからこそ逃走論は役立つと言えるかもしれません。なぜなら、これが書かれた当時とは違って、今の時代は大企業の時代ではなく、個人の時代になりつつあるからです。喩えて言えば重厚長大な巨大戦艦の時代から軽薄短小で個々人が活躍する戦闘機の時代になりつつあるからです。そして、個々の戦闘機が活躍する時代こそスキゾキッズたち逃走論の時代ではないでしょうか。私たちはグローバル競争という地球規模の大きなうねりの中で軽やかに、しなやかに、そして、したたかに駆け抜けてゆく。スキゾキッズの本当の冒険はまさにこれから始まるのではないでしょうか。

追記
ちなみに私が浅田彰の本で最初に手にとったのが、島田雅彦との対談集『天使が通る』でした。これが確か1989年か1988年頃だったと思うのですが、今ひとつ記憶が定かではありません。対談の最初の方で漫画『北斗の拳』が参照されていて親しみを覚えたのを覚えています。でも、「卑近な例」として『北斗の拳』が上げられていたので、漫画ばかり読んでいた自分が少し恥ずかしかったという記憶も残っています。とにかく、浅田彰の知識の多さとハイカルチャーでハイセンスな感覚にテキストを読んでいる自分がどこまで理解できているか分からずやや不安でしたが、それでも楽しく読むことできました。

それから、何の雑誌だったかを忘れたので記憶違いかもしれませんが、テーマはマルクスだったのですが、浅田彰と誰かの対談だったのですが、半分以上がマルクスではなく、ケインズの話ばかりでびっくりした記憶があります。しかも「ケインズはゲイだけど、バレリーナの奥さんを貰ってカッコイイ!」みたいな内容で(笑)、「おいおい、テーマはマルクスとちゃうんかい」とツッコミを入れたくなるような対談でした。あのときはまだ冷戦崩壊前でしたが、既に浅田はマルクスをある程度見限っていたのではないかと当時思ったものでした。


2013年6月22日土曜日

原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』

 
 
原紗央莉『本名、加藤まい~私がAV女優になった理由~』を読んだ。
 

この本は2009年から2011年にかけてAV女優として活躍していた原紗央莉の自伝である。まず、最初に断っておこう。「彼女がAV女優になったのには辛い過去があって仕方なくAV女優になった」というようなお涙頂戴的な人情ばなしをこの本に期待してはいけないということだ。彼女には他人に同情してほしいというような女々しい気持ちは一切ない。そんなものに対しては彼女は怒って蹴りを入れるくらいだろう。では、この本には一体何が書かているのか?

ここに書かれているのは彼女の決意であり宣言なのだ。世界中を敵に回しても自分の足で立ち、どんなに向かい風が強くとも、たとえそれが身を切り刻む嵐であっても、まっすぐに前を見据えて突き進んでゆくという強い強い決意なのだ。しかも、「来るなら来い!受けて立つ!」といった敵に対して堂々と胸を張って生きてゆくという、まるで獅子の宣言なのだ。確かにこの本を執筆したときの彼女はたかだが21歳の小娘に過ぎない。だが、ひとの決意に年齢は関係ない。他人から見れば他愛のない理由かもしれないし、考え方も稚拙かもしれない。しかし、未熟ながらも本人がそのときどきを本気で生きて真剣に考えて下した決断なのだ。万一、間違っていたとしても、おとしまえは自分でつけるし、その覚悟は既にしてある。
そう、この決断は戦士の決断なのだ。

普通のひとは自分がAV女優であることを隠す。親にも隠すし、友だちにも隠すかもしれない。本名なんて隠して当たり前だ。本名を知られて故郷で後ろ指なんて指されたくない。何年かAV女優として働いて幾らかのまとまったお金を稼いだら、あとは引退して世間にバレないように群衆にまぎれるだけ。小賢しいと言われようがかまやしない。稼いだお金を数えながら、チョロっと舌を出してニンマリするだけ。賢く生きようではないか。普通はそう考える。ところが、原紗央莉は違う。小賢しく立ち振舞おうなんてこれっぽっちも考えない。彼女はAVで裸やセックスを人前に晒すだけではない。本名まで世間に晒す。しかも、その晒し方が尋常ではない。本にして晒す。しかも、文章の中に晒すのではない。本のタイトルという一番目につくところにデカデカと出して晒す。彼女は気でも狂ったのか?それともヤケクソなのか?もしかしてドMなのか?いや、そうではない。彼女は正気だ。しかも、とことん本気だ。彼女は自分の選択に胸を張っていたいのだと思う。陰でコソコソとAV女優をして稼ぐなんて気はサラサラない。「陰でコソコソとAV女優をしてるって?コソコソしてねぇよ!あたしの選んだ選択になんか文句あっか?」と言ってバーンと本名を叩きつけたのだ。言っておくが、これは開き直りではない。むしろ、性分だと思う。曲がったことができない、不器用と言われようがまっすぐにしか生きられない彼女の性分なのだと思う。

この性分がこの本を彼女に書かせたのだと思う。もちろん、「仕事の企画として勧められたから」というのもあるだろう。しかし、そんなものはあくまで表面的な事象に過ぎない。彼女の心の中で執筆へと突き動かしたものはもっと別で、それは個人的な動機からだと思う。では、その個人的な動機とは何なのか?それには「この本は誰に向けて書かれたのか?」について考えてみる必要がある。まず、この本は誰かに分かってもらいたいという気持ちで書かれたものではないと思う。おそらく、自分自身に向けて自分自身のためだけに書かれたものだと思う。では、いったい彼女は自分に対して何が言いたかったのか?そして、何をしたかったのだろうか?それを解き明かすには、彼女の置かれた状況について考えなければならない。彼女もAVという仕事が世間でどのように評価され、AV女優が世間からどういう目で見られるかは十分に知っている。それなのになぜ本名を晒してまでこのような本を書いたのか?下手をすれば、AV女優というレッテルが一生ついてまわるかもしれない危険があるのに。なぜか?それは「自分にウソをついて生きていけるだろうか?」という問いにすべてが集約されていると思う。そう自分に問うたときの彼女の答えは”否”だと思う。「自分が自分にウソをついて生きていくことはできない。そんなことをすれば自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」と感じ取ったのではないかと思う。「自分の意思に自分が飲み込まれてしまう」とはどういうことか?これを説明することは少々難しい。私たちの人格を構成している要素は言語で、人格は言語で構成されたOSのようなものだと思う。だが、OSは心の表層に過ぎない。心にはもっと奥がある。それは無意識のことを言っているのか?いや、無意識よりももっと深層だ。心の最深部には未だコトバにならない意思のうねりのようなものがある。あるいは、言い方を変えれば精神のエネルギー、魂のマグマといったようなものがあると思う。それは私たち生物を創造的進化に促すものと同じであり、ベルクソンのいう精神のエネルギーそのものだと思う。その精神のエネルギーが自分自身である人格と対立してぶつかったとき、大波が小舟を粉々に叩き潰してしまうように意思のうねりがちっぽけな人格を破壊してしまうのだと思う。おそらく、彼女は本能的にそれを感知したのだと思う。では、どうすれば自らが自らを破壊せずに生きられるのか?答えは1つしかない。つまり、人格と精神エネルギーが一致するしかないのだ。もし、心と魂が一致していれば、たとえたった一人で世界中を敵に回しても負ける気はしない、おそらく、そのように感じ取ったのではないかと思う。その意思の顕れとして打ち立てられたのがこの本というモニュメントだと思う。そう、この本はモニュメントなのだ。彼女の意思が結晶したモニュメントなのだ。彼女の人格とエネルギーを一致させるためにモニュメントが必要だったのだ。

私が感動するのは彼女の意思の強さだ。といっても世間一般にいわれる意思の強さではない。自らをも灼き尽くすかもしれないほど強力な生命のエネルギーに感動するのだ。世界中を向こうにまわしても勝てると思わせる強力な意思力。何ごとも直接的でかつ不器用で、ときにはあっけないほどに忍耐力もなさそうだけれど、何者の力が掛かっても動かしがだい底力というか、まるで恒星のような存在力のある人間、それが原紗央莉だと思う。現代は情報化社会が進むにつれて人々は知的になった一方で、どんどん小賢しくなったとも言える。みんな、小粒になってしまい、野性味は失われ、かつては燃えるようだった生命力も穏やかな蛍光灯のような弱々しい光に変わってしまった。そんなときに現れたのが原紗央莉だった。彼女はセックスの女王というよりはむしろセックスの虎だ。そして、ガツンと一発世間の男どもにパンチを喰らわす。

「あたしがAV女優原紗央莉だ!文句あっか?」