2013年6月27日木曜日

蒼井そら『ぶっちゃけ蒼井そら』


蒼井そらの『ぶっちゃけ蒼井そら』を読みました。


ぶっちゃけ、ごくフツーの女の子がごくフツーに仕事して、ごくフツーに仕事を通して成長してゆくというごくフツーの働く女性の物語でした。ただし、フツーと違うのは彼女の仕事がAV女優という、ただ一点です。この本はそんな蒼井そらの生い立ちからAVデビュー、さらにAV界のトップアイドルに成長する現在に至るまでの道のりを描いた自伝的エッセイです。さらに自伝だけでなく、彼女のセックス観や恋愛観、人生観までも飾ることなく率直に語られています。

一般に女性がセックス産業やポルノ産業で働くというと多くのひとは「苦海に身を沈める」というような眉をひそめるイメージがありますが、彼女の語り口からはそのような暗さは一切なく、むしろ明るく前向きで自分が一歩一歩前進して成長してゆくのを楽しんでいるという、喜んで学ぶという姿勢が感じられます。その明るさに無理をしているところは感じられず、いろいろと工夫して努力はしていますが、ひたむきというよりはむしろマイペースで頑張っているという感じがします。

そして、AV女優特有の悩みや葛藤も逃げることなく率直に語られています。それは家族との関係や恋人との関係です。家族や恋人にAV女優であることを打ち明けてAV女優という仕事を認めてもらうまでの悩みやAV女優の仕事を続けながら恋人とセックスしてゆくことの悩みなどです。これらの悩みはAV女優たち全員の悩みでもあると思います。これらの悩みに対して万人向けの普遍的な解答というわけではありませんが、蒼井そらという個人としての解答を提示していると言えるでしょう。もちろん、すべてに完璧な解答を出しているわけではなくて、どうしても答えの出ない矛盾もあります。しかし、彼女は無理に矛盾を歪めることをせずに矛盾は矛盾のままに、矛盾を抱えながらAV女優の仕事をしてゆくという、とても健全な自覚を持って取り組んでいます。

そんな彼女の姿勢を見ているとビジネス書でよくある、現場のたたき上げから成功していったビジネスマンたちのサクセスストーリーと似たものを感じます。そういったビジネスマンたちは仕事でどんな苦難があっても明るく前向きで諦めることなく頑張り、それでいてお客様に感謝するという謙虚な気持ちをいつも持っていたりします。彼らは誤って自分を高く評価し過ぎることはなく、他人が驚くほど自分を客観視しており、自分の利点を生かして仕事をし、自分の欠点を冷静に見つめています。蒼井そらはそういった仕事で成功するタイプと多くの共通点を持っていると感じさせます。

さて、アダルトビデオは映画と違って幻想をできる限り持続させようと努めます。確かに映画も感情移入できるように幻想を持続させようとはします。しかし、最終的にそこから引き出されるのは物語から一歩引いた客観的な視点です。映画は観客を没入させると同時に映画を見終わったときには観客が客観的な視点を獲得できるように支援しています。ところが、アダルトビデオは違います。アダルトビデオは観客がどこまでも性的に酔い痴れられるように幻想をできる限り持続させようとします。そのため、AV女優たちはアダルトビデオの外でも性的な対象としてのAV女優を演じることになります。インタビューや販売促進会でもAV女優として振る舞うことを要求されます。現実のリアルな人間ではなくて、AV女優という現実には存在しない人間を演じさせられます。このため、現実と幻想を見誤ったユーザーから淫乱や売女などという事実とは異なる罵声を浴びせられたりします。しかし、アダルトビデオが幻想をできる限り持続させることを目的としているので、商売上、それにはあまり大きな声で反論してきませんでした。そのため、AV女優と一般視聴者の間にはある種の情報の非対称が生じることになりました。これはAV女優に限ったことではなくて、セックスワーカーたちにも昔から付きまとってきた問題でした。その非対称が見えざる壁となって、周囲の無理解と間違った認識を生み、これまでAV女優たちやセックスワーカーたちに数多くの悲劇をもたらしてきました・・・。彼女たちは侮辱され蔑まれて人格や人間性を否定され深く傷つけられてきました。私は思います。もう、そろそろそんな哀しい悲劇は止めにしませんか?と。人類の歴史は愚かさの繰り返しですが、一方で確かに進歩してきた面もあると思います。人類は愚かさの中で少しずつですが、前進して問題を解決してきました。ですから、この性にまつわる問題も決して解決できない問題ではないと私は思うのです。そう考えるとこの本は今まで語られてこなかったAV女優側からの情報なのです。今までは聞こえてこなかった壁の向こうからの声です。そこで語られているのはAV女優を演じている偽りの声ではなくて、人間としての真実の声なのです。この蒼井そらの本は、可愛らしい女の子の小さな小さなひと声ですが、しかし、非対称の情報の壁に穴を穿つ、ひとつの大きな突破口ではないかと思います。

2013年6月26日水曜日

ぼくの魂の舗装道路の上で

日本の政治について考えていたら、とても憂鬱な気持ちになってしまった。それというのも、このまま進めば日本はとんでもなく自由のない無慈悲な国になるのではないかと思えたからだ。それはSFが描くところのディストピアそのものではないかと思えてくる。ジョージ・オーウェルが描いたディストピア小説『1984年』のような全体主義国家を思い描いてしまう。人々は一党独裁の下、理性も感情も党に支配され、個としての意識は失われ、ただ党への熱狂的な崇拝だけになる。そして次のような狂ったスローガンを酔い痴れるように声高に叫ぶ。
戦争は平和である。
自由は屈従である。
無知は力である。
「自分たちがそんな風になるなんて、そんなバカなことはありえない」と人々は笑うかもしれない。だが、支配が完全なとき、人々は支配されていることに気づかないものだ。しかも現実の世界は子供じみたSF小説と違って、おそろしく周到で極めて狡猾である。私たちが気付かぬうちに私たちの心を捕らえているかもしれない。彼らは巧みに忍び寄り狡知に長けたやり方で私たちの心を裏側から支配するかもしれない。例えば誰に教えられるわけでもなく、次のようなスローガンをいつの間にか心の奥深くに刷り込まれているかもしれない。
負け組には生きる資格がない。
負け組が自殺するのは自業自得だ。
たとえ毎年3万人の人間が自殺しようが、支配された人々はまるで痛痒を感じなくなっているかもしれない。もしも乗っていた電車で人身事故が起きたとしても仕事に遅れることを舌打ちするだけで死者が出たことを気にも止めないかもしれない。もはや私たちの頭の中は仕事と自分のことだけで一杯になり、理性や感情はシステムに支配され、隣人がいつの間にか減っていても一向に気にもかけず、ただシステムが電子的に動かす数字に一喜一憂し、口座の預金残高が増えることだけに喜びを感じる、そんな風になっているかもしれない。

そんな恐ろしい未来を想像すると、とてもじゃないがやりきれない陰鬱な気持ちになる。今日はそんな狂った気分を反映するようなマヤコフスキーの詩を記しておこう。そして、私の妄想が妄想のままであり続け、決して現実にはならないようにと目を閉じて静かに祈ろう・・・。
踏みつけられたぼくの魂の
舗装道路の上で
狂人たちは歩きながら
ぎこちない文の踵をよじる。
都市たちは
絞め殺され、
雲の首吊り紐の結び目には
塔たちが
頸をかしげて
凍てついたところを、
ぼくはただ一人で行く。
十字路で
警官たちが
磔刑にされたと
泣きわめくために。


マヤコフスキー 『ぼく』

2013年6月25日火曜日

小林弘忠『歴代首相』

 
小林弘忠『歴代首相』を読んだ。


この本は日本の初代首相・伊藤博文から第58代首相・福田康夫まで総勢58名の歴代首相について書かれた本です。日本の政治を考えるとき、「日本の政治の歴史、特に時の宰相である最高権力者について知っていなければ!」という思いでこの本を買いました。最初は「戦前と戦後で分けて考えた方がいいかな?」とも思ったのですが、第二次大戦の敗戦があるとはいえ、やはり政治は繋がっており、戦前も無視できないなということで初代首相から書かれたこの本が値段も手頃だったので丁度良いということで選びました。

この本は各首相について生い立ちから始まり、どのようにして首相の座に登りつめ、首相となってからはどのような政治を行い、首相を辞めた後、どのように人生を締めくくったかまでを簡略に描いています。そういった訳で各々の首相のエピソードも興味深く読めるのですが、ただし読み進めるうちに、私が当初期待していたものとはちょっと違うなということが分かってきました。私が最初に期待したものというのは、時の最高権力者が如何に責任を持ってどのような考えで日本をその方向へ導こうとして政治を執ったのかというものでした。ところが、読み進めてゆくうちにどうやら日本の首相というのはそういう独裁的な日本をリードしてゆく最高権力者ではないというものでした。確かに歴代首相の中には独裁者に近い権力を集約した人も何人かはいます。しかし、それはいわゆる独裁者とはちょっとニュアンスが違います。

ちょっと他の国の例を考えてみましょう。かつての英国などは国王がいて国王が責任を持って国を統治していました。彼は統治において独裁的である一方で統治者としての責任感もあるわけです。(←そのうち議会制ができて国王の権力は失墜してしまいますが。)ところが、日本はどうかというと、例えば江戸時代を考えると天皇という国王がいるのですが、実質的な支配者としては将軍がいて彼が国を支配・統治しているわけです。ところが実際には、その下に老中がいて、彼らが実際の政治を仕切っているわけです。つまり、日本はピラミッドの頂点に為政者がいて、為政者が責任を持って統治するというスタイルになっていないのです。さて、話を本の時代に戻すと、戦後の日本は民主主義になったので、形式的には独裁者がいないスタイルになったかもしれないけれど、戦前の日本は大日本帝国なんていうイカメしい名前だからさぞや独裁者が威張って闊歩してたのかなと思って読むと、どうもそうではないのです。日本の首相は初代の伊藤博文のときから独裁者的ではないのです。構造的には共和制だった頃のローマのように元老院がいて執政官が選ばれて執政官が政治を執るというのに形は近いと思います。ただし、日本の場合は執政官たる首相の権威は低く、むしろ矢面に立たされる兵隊的下っ端的な感じでさえあります。

この執政官と元老院の関係は天皇とそれを陰で操る上皇に似ているのですが、かといって背後である上皇のように独裁者がいるかというと、どうもそうでもないのです。首相を支えている背後の人たちもいずれも独裁者的な側面がないのです。せいぜい山県有朋が独裁者に近いのですが、彼でさえ決定的に独裁者かというと独裁者ほどに強引な政治は執っていないように思えます。そうやって見てみると、どうも彼らには統治者としての責任感が欠如しているように思えるのです。もちろん、私は独裁者が良いといっている訳ではありません。しかし、どの首相も調整役であって、自らの考えを持ってリードしてゆく為政者には見えなかったのです。これは首相だけの責任ではなくて、首相を支える周囲にも責任があるとは思います。東京裁判でも連合国側は戦争の責任が誰にあるのかを巡って裁判をしたのですが、誰が戦争の最高責任者なのか分からず困ったのではないでしょうか?確かに東条英機だという見方はあると思います。しかし、彼は独裁者だったかというとどうもニュアンスが違う。東条は引き算思考の小役人で小さなことで周囲を締め上げていたとは思います。しかし、それは独裁者とは違います。石原莞爾も裁判の中で言っていますが、「自分にはいくらかの戦略はある。しかし、東条はこれっぽちも戦略を持ち合わせていない。皆無である。意見を持っていないものとは論争しようがない」と皮肉を込めつつも的確に東条のことを言い当てていると思います。そうやって見てゆくと日本の政治には君主のような支配者・統治者いなかったのではないかと思えてきます。日本の歴史を振り返ってみてパッと思いつくのは天皇親政をやろうとした後醍醐天皇くらいでしょうか。あとは織田信長が独裁者に相当するかもしれませんが、ただ彼の場合、本能寺で斃れたので統治者たらんとしたかどうか少し疑問です。とにかく、日本にはアメリカ大統領のようなリーダーはいなかったし、成立しなかったのではないかと思います。当人とそれを支える周囲というのがいなかったように思います。

なぜ、そうなったのでしょうか?私は日本人が騎馬民族でなかったからではないかと睨んでいます。世界の文明に目を向けてみると文明の支配者は多くが騎馬民族です。人類はその発展において農業という植物の飼い慣らしをしてきました。次に遊牧という動物の飼い慣らしをしてきました。そして、動物を飼い慣らす経験をした騎馬民族は今度はそれをヒトに応用してヒトを飼い慣らす文明を築いたのです。ところが、極東の島国・辺境日本は騎馬民族が支配者にはなりませんでした。そのことは中国の後宮のように宦官がいないことからも明らかです。宦官は去勢の技術が発達した結果、生まれた技術です。去勢は遊牧において動物を飼い慣らす技術から発展したものです。ところが、日本には宦官はいませんでした。そのため『源氏物語』に見られるように天皇の女たちに光源氏が手を出したりできたわけです。つまり、日本人は騎馬民族ではないためか、人を飼い慣らすこと人を支配することにあまりにも慣れていない節があります。極東の島国という辺境だからこそ起こった特殊な事情だと思います。

それにしても「ヒトがヒトを支配する」というのはあまり愉快な考えではありません。しかし、文明を支えていたのは農業に従事する奴隷だったという事実を見過ごすことはできません。また、従順になれない奴隷は兵士として軍隊に送られました。軍隊に送られて兵士として活躍するか、早めに間引かれるかのどちらかだったのではないでしょうか。時代が進むにつれて奴隷制も無くなりますが、それはヒューマニズムに目覚めたからというわけではなくて、他人に強制されて働く奴隷よりも自らの意思で働く労働者の方がよく働くという理由で奴隷制が無くなったという面もあります。このように文明とはヒトがヒトを支配する歴史だったという見方もあるのです。話は違いますが、シェークスピアの作品にもそのような人間観があってアメとムチでヒトを操るという場面が見られます。シェークスピア嫌いの人がいますが、彼らはそういうのをみて「人間とはまるで家畜のようなそんな単純なものではない」という思いでシェークスピアを嫌うのだと思います。ちなみに私もそういう人間観は好きではありません。しかし、厳然たる事実として文明社会とはそういう側面があるのも否定はできないと思います。

さて、何の話でしたでしょう?そうそう、日本の最高権力者に支配や統治する権限が与えられておらず、その責任感がないという話でした。いや、制度として権限は与えられているのだけれど、実際には歴史的な習慣のためか、それが機能していないという話でした。ならば、制度を大統領制にしろという意見があると思いますが、おそらく、制度を変えても日本人の習慣としてそれを機能しないものにしてしまうと思います。ここまで来ると日本人の精神構造の問題ではないかとさえ思えてきます。河合隼雄が指摘していましたが、日本人の精神構造と西洋人の精神構造は違うそうです。簡単に喩えて言えば、日本人がユング的であるのに対して西洋人はフロイト的であるそうです。確かに日本人の大衆の無意識はユングの集合的無意識に通じるものがあるような気がします。しかし、そうなってしまうと日本人はとことん政治に向かない民族だと思います。ある意味、日本人は支配される側でこそ力を発揮する民族なのかもしれません。組織の歯車としてよく働くが、少々頭が堅くて融通の効かない、しかし実際的な技術にかけては右に出るもののない優秀なエンジニア、(実際、世界で活躍する日本人ってそういう技術者が多くありませんか?)それが日本人に最もふさわしい姿なのかもしれません。え?私ですか?私は違います。私は日本人の中では変わり種の異端児ですから(笑)。ともかく、そうはいっても日本も独立国家なのですから、日本の首相は自己の信念に基いて自らの意思と責任をもって国を統治してほしいものだと思います。

えーと、随分、本の内容とは違う話になってしまいました。以上の記述は私が本を読みながら考えたまったく別のこと、妄想の話です。とにかく、現在の日本の政治を考えるためにも、大人の常識として日本の歴代の首相は知っておいた方が良いと思いますよ。

※文中で述べた日本人の精神構造については下記の本を参考になさって下さい。

2013年6月24日月曜日

東京都議選の感想

今回の東京都議選の感想です。

私は民主党を支持していたので今回の民主惨敗は残念な結果だった。しかし、結果を見て驚くということはなく、予想した結果だった。まず、今回の選挙について私なりの分析を述べておく。まず、民主党だが、選挙前の様子では民主党を批判はしても支持する声は見受けられなかったので前回の衆院選と同様に議席を大幅に減らすだろうことは予測できた。一方、自民党に関しては株価に陰りは見えるもののアベノミクスに対する世間の評価はプラス評価こそすれマイナス評価はほとんどなかったと思う。したがって、都議選においても前回の衆院選と同様に議席を大幅に増やすだろうことは予測できた。また、維新に関しては橋下慰安婦発言の悪影響で得票を大きく減らすだろうことも予測された通りだった。みんなの党の伸びは橋下慰安婦発言がなければ維新に流れていたはずの票がみんなの党に流れた結果だと思う。唯一、共産党が議席を倍増したのが意外だった。どのような有権者の意思が働いたのかは今のところ明確な答えは得られていない。ただ、これは東京という大都市だから成し得た結果であって国政になるとそうは伸びないだろうと思う。それから、生活の党、社民党、緑の風に関しては議席を確保できないだろうことは選挙する前からおおむね分かっていたのではないだろうか。したがって、投票率が低くなるのも予想できたことだと思う。政治に無関心な層に訴えかけるような話題性が今回の選挙にまったく無かったからだ。こうしたことを踏まえれば、今回の選挙結果は想定の範囲内で驚くことは何もなかった。

ところで、私がなぜ民主党を支持するのかについて理由を述べておこう。私は保守政党とリベラル政党による二大政党制を支持しており、保守政党ではなくリベラル政党を支持している。したがって、自民党ではなく、民主党を支持するという結果になる。もちろん、政策で支持する政党を考えてはいる。そして、今の日本にとって喫緊の政策課題は何と言っても財政問題を抱えた経済政策だと考えている。ただ、そこでとれる経済政策は限られており、実はどの政党が政権を取ってもそう大して大きな違いが生じるとは思っていない。あえて言えば、経済成長重視タイプか社会福祉重視タイプかのいずれかだと思っている。だが、どの政党が政権を取っても、どちらか一方に偏重することはないと思っている。

それ以外の政策については、1つは基本的には今の憲法を変えるべきではないと考えている。言論や表現の自由を規制すべきではないし、個人の自由を制限して国民を縛ったりナショナリズムを強要するような憲法に変えるべきではないと考えている。ただ、9条に関しては自衛隊を軍隊と明記しても構わないとは思っているが、今、それを急いでする理由はないと思っている。逆に変えて欲しいと思うのは天皇制で、私としては天皇制を廃止すべきだと考えている。天皇家の人権のためにも平等な人権のためにも天皇制は廃止した方が良いと考えている。アメリカのように人間はみんな平等であるべきだと思う。ただし、9条改正や天皇制廃止についてはどうしても今すぐに変えてほしいというわけではない。いずれ変われば良いと思っている。したがって、今、何よりも重視すべき政策は経済政策でそれが支持政党を選択する指標となる。

さて、今回の都議選の結果から、次に控えている参議院選挙はこの選挙結果を反映するような結果となるだろうと思う。つまり、自民・公明が大躍進して大幅に議席を増すことが予想される。逆に民主党は大幅に議席を減らすと予想される。そうなれば、自民党が憲法改正に着手して、いよいよ現在の憲法が自民党の憲法改正案に置き換わる日が来ることになるのは目に見えている。だが、私がいくら不満に思おうと有権者が多数決で選んだ結果なのだからどうしようもない。唯一、頼みの綱は米国で、米国政府が自民党が提案している新憲法に難色を示して修正するように働きかけてくれることだけだ。今まで米国を批判してきた日本人のまさに自分勝手な都合の良い頼みごとではあるが・・・。ただ、私の場合は米国を批判しつつも米国の良い点は評価してきたつもりだから、米国に頼ってもそんなに自分勝手だとは思わないが・・・。とはいえ、米国が日本を助ける義理はなく、米国にとって何らかのメリットがあるのであれば難色を示すだろうとは思う。

とにかく、自民党の憲法改正案に大反対している私としては、今回の都議選の結果はいよいよ次の参院選で自民党が大勝する前兆であり、ひいては憲法改悪へ前進してしまったという憂鬱な気持ちがますます募る選挙結果でした。

2013年6月23日日曜日

浅田彰『逃走論』


今回は浅田彰の『逃走論』を取り上げます。

私がこの本を初めて手にとったのは1990年頃ではなかったかと思います。私が浅田彰を知ったのは京都大学の数学者でエッセイストの森毅の文章を読んで知ったのが初めてではなかったかと思います。森毅については高校生の頃、森毅の著書で中公新書から出ていた『数学受験術指南』を父親に薦められて読んで知っており、それ以来、私は森毅のファンになってしまい、なんとなく彼の書いたものを目にしたら読むようになっていました。それで森毅の文章を新聞か何かで見つけては読んでいたのですが、その中のどれかだと思うのですが、具体的にどこで浅田彰の名前を知ったのかは残念ながら忘れてしまいましたが、確かニューアカデミズムという名前と同時に目にしたような気がしています。それから話は少し違いますが、後日になって気付いたのですが、確か高校の国語の先生だったと思うのですが、授業中の雑談で「最近、天才が出たといって世間を騒がしている若者がいるが、頭でっかちなだけで経験のない若者に何ほどのことが分かるのか?!」といった批判的な話をしていたのを覚えており、あれはおそらく浅田彰のことを言っていたのだなと後になって気付いたりしました。まあ、年寄りが若者に嫉妬して批判するみたいな感じでちょっと情けない批判だったのですが、それでもまだ浅田彰を読んでいただけその先生はマシで、最近の教師などは生徒に本を読めといいながら、本人は全然読まんでいないなんてことはザラにあるのではないかと思います。



目次

逃走する文明
ゲイ・サイエンス
差異化のパラノイア
スキゾ・カルチャーの到来
対話 ドゥルーズ=ガタリを読む


マルクス主義とディコンストラクション
ぼくたちのマルクス
本物の日本銀行券は贋物だった
共同討議マルクス・貨幣・言語


ツマミ食い読書術
知の最前線への旅
N・G=レーゲン『経済学の神話』
今村仁司『労働のオントロギー』
広松渉『唯物史観と国家論』
栗本慎一郎『ブタペスト物語』
山本哲士『消費のメタファー』
柄谷行人『隠喩としての建築』
山口昌男『文化の詩学1・2』
蓮実重彦『映画誘惑のエクリチュール』

さて、この『逃走論』ですが、第Ⅰ部は楽しく読むことができました。私の場合、森毅を読んでいたので内容的には第Ⅰ部は森毅的に理解することが容易かったです。第Ⅱ部はこの本で一番難解なパートではないかと思います。特に柄谷行人・岩井克人との三人での共同討議は「よくもまあ、こんな小難しい会話ができるものだ」と感嘆のため息をもらしたものでした。ですので、第Ⅱ部は、後日、大学生になってからじっくり読んだ記憶があります。第Ⅲ部のツマミ食い読書術などは学生にとってとても魅力的な手引きでした。紹介されてある本は片っ端から読みたくなりましたし、当時は現代思想が花盛りだったので書店にも現代思想関連の本がたくさん並んでいました。あの頃の私は本当によく本を買っていましたね。もう、大きな本屋さんへ行くと「あれも欲しい、これも欲しい」で本屋から出るときは財布の中がいつもスッカラカンになっていました(笑)。今となっては楽しい思い出です。そういえば、当時は本を手元にたくさん置いておかない気が済まなかったのでカバンに何冊も本を詰め込んでは持ち運びしていました。読みたくなったらいつでも読めるように読みたくなりそうな本を何冊もカバンに入れていたのです。結局、あれこれ読んでゆくうちに本当に読みたい本が手元になくて何のためにカバンに本をたくさん詰め込んでいたんだと悔しく思うこともしばしばありました。本当に読みたくなった本は自宅の本棚に置いてきたなんてことがしばしばでした。本の重みでカバンの肩紐が食い込んで痛かったのを覚えています。これも今となっては懐かしい思い出です。

ただ、この本ではマルクスがたびたび引用されているので、ソ連が崩壊してしまった今となっては意味のない文章になってしまったのではないかと危惧される人もいるかもしれません。まあ、マルクスは、元々、批判をするだけで「じゃあ、どうするのか?」という実際的な解決策については未熟なままでしたからね。ただ、第Ⅰ部のスキゾキッズの精神だとか第Ⅲ部の読書術だとかは今の若者たちにも十分に役立つと思います。いえ、むしろ今の時代だからこそ逃走論は役立つと言えるかもしれません。なぜなら、これが書かれた当時とは違って、今の時代は大企業の時代ではなく、個人の時代になりつつあるからです。喩えて言えば重厚長大な巨大戦艦の時代から軽薄短小で個々人が活躍する戦闘機の時代になりつつあるからです。そして、個々の戦闘機が活躍する時代こそスキゾキッズたち逃走論の時代ではないでしょうか。私たちはグローバル競争という地球規模の大きなうねりの中で軽やかに、しなやかに、そして、したたかに駆け抜けてゆく。スキゾキッズの本当の冒険はまさにこれから始まるのではないでしょうか。

追記
ちなみに私が浅田彰の本で最初に手にとったのが、島田雅彦との対談集『天使が通る』でした。これが確か1989年か1988年頃だったと思うのですが、今ひとつ記憶が定かではありません。対談の最初の方で漫画『北斗の拳』が参照されていて親しみを覚えたのを覚えています。でも、「卑近な例」として『北斗の拳』が上げられていたので、漫画ばかり読んでいた自分が少し恥ずかしかったという記憶も残っています。とにかく、浅田彰の知識の多さとハイカルチャーでハイセンスな感覚にテキストを読んでいる自分がどこまで理解できているか分からずやや不安でしたが、それでも楽しく読むことできました。

それから、何の雑誌だったかを忘れたので記憶違いかもしれませんが、テーマはマルクスだったのですが、浅田彰と誰かの対談だったのですが、半分以上がマルクスではなく、ケインズの話ばかりでびっくりした記憶があります。しかも「ケインズはゲイだけど、バレリーナの奥さんを貰ってカッコイイ!」みたいな内容で(笑)、「おいおい、テーマはマルクスとちゃうんかい」とツッコミを入れたくなるような対談でした。あのときはまだ冷戦崩壊前でしたが、既に浅田はマルクスをある程度見限っていたのではないかと当時思ったものでした。