2010年8月15日日曜日

セクサロイドの問題

とりあえず、ツイッターを元にした下書です。後日、修正するつもりです。

1.ヒト型ロボットの最も有効な可能性、それはセクサロイド!
日本の新産業の可能性についてだけど、日本のヒト型ロボット技術ってとても進んでいると思う。本当はロボットは別にヒト型でなくても良いんだけどね。ただ、例えば、原発事故が起こったとき、ヒトが放射能汚染で入れない場所で作業するのに、ヒト型ロボットは役に立つと思う。でも、惑星探査などで活躍するロボットは別にヒト型である必要はない。戦闘機などはヒトが乗らない方が高速で高い旋回率を出せるのではないだろうか?軍用ロボットの活躍が期待される。ヒト型ロボットで一番役に立つ可能性が高いのは、ズバリ、セクサロイドだと思う(笑)。

2.本物の人間以上に快楽をもたらすセクサロイド
人とまったく同じ寸分たがわぬヒト型ロボットを作り出すかもしれない。いや、場合によっては、ヒトでは不可能は動きをロボットなら可能にするかもしれない。つまり、ヒトとセックスするよりも、ロボットとセックスする方が気持ちが良くなるかもしれない。さらに受け応えも期待通りにプログラムできる。セクサロイドなら、夫婦喧嘩することなく、自分の望む通りの、欲望の沿うリアクションをするようにプログラムできる。う~む、今でさえ、現実の女性より、2次元が良いというオタクがいるくらいだから、精密なセクサロイドができたら、結婚する男性が減るかもしれない。人口を減らすには良いかも(笑)

3.セクサロイドの問題点
実はスピルバーグ監督の『A.I.』ですでにセクサロイドは描かれている。また、押井守の『イノセンス』では幼女タイプのセクサロイドも描かれている。東浩紀の他人に迷惑をかけなければ児童性愛も良いのであれば、幼女タイプのセクサロイドは許されることになるのではないのか?が、それで良いのか?例えば、児童性愛者が街で見かけた児童に欲情して、それと同じセクサロイドを作って、そのセクサロイドと自宅でセックスしているとしたら、それは許されるのだろか?いや、児童に限らず、例えば、有名女優と外見が同じセクサロイドを作ったとき、許されるのか?女優の場合は著作権を主張するかも(笑)でも、まあ、ロボット開発が進歩すれば、いずれ、精密なセクサロイドは登場すると思う。高額ならお金持ちのみが購入するだろうし、レンタルビデオ店でセクサロイドのレンタルをするかもしれない。風俗店からは職が奪われるとセクサロイドに対する反対運動が起こるかもしれない。倫理的に問題は多いが、実用に耐えうる精巧なセクサロイドを開発すれば、大きな新産業になるかもしれない。世界の風俗店がセクサロイドに置き換わるかもしれない。病気の感染の恐れもないし、売春ほどの倫理の問題もない。セクサロイドはおもちゃで遊んでいるのと同じ扱いになるかもしれないからだ。人と違って、セクサロイドなら24時間稼働可能だろう。セクサロイドが登場すれば、売春やレイプが減るかもしれない。産児制限の国では、人口減少にも貢献するかもしれない。まあ、セクサロイドを利用する男性の人権はともかく、女性の人権はセクサロイドによって守られると考えるかもしれない。

以上、セクサロイドについていろいろと思考実験してみました。

未来のライフスタイル

とりあえず、ツイッターを元にした下書です。後日、修正するつもりです。

1.2つのライフスタイル
私は文明には悪い点もあれば、良い点もあると思う。逆に、今はほとんど無くなってしまったが、文明の逆、野生の生き方、未開社会の生き方にも良い点もある。もちろん、悪い点もある。私が考えているのは、人間は文明も野生も、その両方を往復するように生きる生き方、ライフスタイルが良いのではないかと考えている。人生をデザインするとき、人生の時期によって、その2つを行ったり来たりする生活ができればいいんじゃないかと思う。

2.人類社会にとって真の問題は人口である
ただ、今はどんどん自然破壊が進んでいるので、そういうのは難しくなっている。詰まるところ、、人類の人口過多に問題があると思う。将来、世界の人口が百億に迫ると言われている。そんなに多くは無理だと思う。人類は人口をもっと縮小して地球上の文明圏を縮小すべきだと思う。土地を自然に還すべき。ただ、そのために少子化が必要だが、中国の産児制限はやはりヒューマニズムからいうとちょっと問題じゃないかと思う。中国政府としては苦肉の策だろうけど。やはり、自主的に人々が人口減に努めるべきだと思うが、それはなかなか難しいんだろうなあ・・・。いずれにしても、地球は周期的に氷河期を繰り返しており、今は氷河期の中休みである間氷期にあたる。再び氷河期が来れば、人口は激減するだろう。ただ、人類は減少しても絶滅することはないと思うけど。

3.里山というライフスタイル
それと日本は文明と野生の中間点にある。文明は中国、野生はアメリカ先住民。日本はその中間にあって独特の日本文明を築いた。天皇制なんて、世界の王権と比較すると、かなり変わった王権だ。あれは文明と野生の中間だから、あんな変わった王権になったと思う。携帯電話など日本のガラパゴス化が指摘されたりするけど、文明と野生の中間ということで、日本独特の中間的な文明を構築すること、そういう意味でのガラパゴス化だったら、面白いと思う。アーミッシュの人々みたいに文明の否定にはならないと思うけど、もう少し自然寄り野生寄りの文明を築けると思う。その中間的な文明の例として、里山があると思う。『未来少年コナン』のハイハーバーみたいなものだと思う。地下にはハイテク機器が隠されているかもしれないけど。

4.野生のライフスタイル
ただ、中間じゃなくて、完全な野生生活も私には魅力があると感じられる。平原インディアンみたいなティーピーでの狩猟生活に憧れる。最初の5年間は文明で生活して次の5年間は野生で生活する、みたいなのを繰り返すのが出来たらいいなあと思う。そういう文明と野生の往復ができたらいいと思う。もちろん、野生生活は野獣に襲われる危険があるかもしれないけど、それでも充実した生を得られるので良いと思う。文明社会での放浪者は人間の尊厳を踏みにじるけど、野生では気ままな暮らしができると思う。インドなどで底辺の階級が物乞いをしたり、虐げられたりすのって理不尽だと思う。でも、野生ならそういうのはない。それに狩猟採集生活は労働時間は文明社会よりも短い。1日4時間以下。羨ましい(笑)。それに狩猟採集生活は意外と楽しいと思う。狩猟なんてけっこう面白いと思う。まあ、こっちも殺られるリスクはあるけど。それに獲物に対する敬意も払うし。

5.人類社会の行方
まあ、文明社会はこれからもどんどん便利な機器を生み出してゆくとは思う。とりあえず、エネルギー開発と、生存圏の拡張で宇宙への進出が期待される。けど、生活の質自体はこれ以上の進歩はあまりないんじゃないだろうか。(不老不死になるのは、たぶん、不可能だと思う。)そういう意味では、文明と野生の往復生活って良いんじゃないかと思うのだが・・・。文明社会が築いてきた文化って、果たしてどれだけ価値のあるものかは疑問に思う。文明も野生もどちらも等価かもしれない。むしろ、野生生活は文明生活よりは持続可能という点では人間にとって普遍的な生き方だと思う。今までの文明は周囲の自然環境を滅ぼして、ついには文明自体も滅んでいる。今は国際分業によって、世界中から物資を供給している。でも、過去の文明が地域だったのが、今は世界規模に広がっただけで、世界規模で地球環境を滅ぼしたとき、文明も滅ぶことになるのではないだろうか。

2010年6月13日日曜日

世界の大学学費

世界の大学学費について調べてみました。日本、米国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランドです。ただし、あくまでネットで調べたものであり、あくまで目安です。文系と理系ではやはり違ってきますし、為替の変動によってもしょっちゅう変わるでしょう。ただ、やはり、大学の学費はどこも高額ですね。米国では貧しい人は兵役に行くことによって大学に入りますが、なるほど、そうでもしなければ、なかなか学費は賄えないのだと思います。確か、日本でも映画を見るよりも1回あたりの授業料の方が高かったと思います。当たり前でしょうけど、授業をサボってアルバイトするよりも授業料の方が高いです。戦後の日本で最も上昇した物価の中に大学の授業料が上げられていたことが何年か前にあったと思いますし。ただ、世界的に大学のレジャーランド化は進んでいるとは言いますが、それでも海外の大学は勉学が大変なのだろうと思います。ちなみに非英語圏ではありますが、ドイツは確か大学の学費は無料だったと思います。まあ、高い学費に見合った教育を大学が行えているかという問題もありますが。ただ、今後は大学は主に理系もしくは理系に準じる勉強をするところになるでしょう。文学部などの廃止はその流れでしょう。大学を卒業すれば、それなりに社会で実際に役立つ技術を身につけられるようになる、ならなければならないと思います。もちろん、役立たない学問はダメだと言っているわけではありません。ただ、そういう学問は、ごく限られた一部の大学と大学ではなしに私塾的なところに場所を移すと思います。大学は単に卒業したという飾りではなく、実用的な技術を身につける場になると思います。そういう意味で、大学まで行って勉強するのは理系的になると思います。哲学などの知的好奇心を満足させるのは私塾的なものになるのではないでしょうか。また、技術の進歩が早い分野では社会人の受け入れが多くなるかもしれませんね。今までの単調な学習プロセスとは違った多様な学習プロセスになるのではないでしょうか。

2010年6月6日日曜日

知の学習形態について

今後の知の学習形態について、ちょっと考えてみようと思います。といっても、実は「こうなるんだ」という確定的な考えではなくて、「たぶん、こんな感じだけど、また違ってくるかもしれない」的な緩い想像の段階です。ちなみに、ここでいう知は、まあ、哲学的思想的な人文知です。

1.知の遍歴の寓話
たとえ話です。まず、知に興味を持った若者を仮に読者Pとします。読者Pはまず自分が興味を持った哲学に近い哲学を専門とするA先生を訪ねます。読者PはA先生の講義(講話)に2年間参加してA先生の哲学を学びます。読者PはA先生から多くを学んでA先生に感謝しているのですが、それだけでは満足できずに、今度はA先生の所で学んでいるうちに興味を持ったB先生の所に行って学びます。読者Pは今度はB先生について5年間学びます。ところで、読者PはA先生やB先生のところで学習しながらも、自分では仕事をしながら、その合間に学習していました。さて、読者Pは満足できるほど学んで学習意欲を満足したのとそろそろ仕事が忙しくなったのを理由にこれ以上の知の学習を中断します。それから10年ほどは読者Pは仕事に邁進して生活基盤を築きます。10年経った頃、読者Pは再び学習意欲に狩られます。実生活の中での経験を通して、今まで学んだ知だけでは不十分だと感じたからです。また、忙しかった仕事も一段落したので、再び学び始めることにします。読者Pは仕事に邁進した10年の間も本格的な学習はできなかったものの、A先生やB先生とは親交は結んでいたので、すぐに再び彼らのところで学習し始めます。そして、すぐにC先生の存在を知って、今度はC先生のところで学び始めます。読者PはC先生のところで3年間学び、大いに学習意欲を満たされたのでした。

そんなとき、読者Pは自分よりも若いD先生に出会って、自己紹介でこれまでの学習遍歴を話し合いました。読者PはA先生で2年、B先生で5年、C先生で3年の間、それぞれ学んだことを言いました。一方、D先生はI先生で5年、J先生で3年、K先生で3年学んだと言いました。J先生とK先生はとても高名で知られる先生でした。D先生はずっと学び続けてきた人で、先生方からも高く評価されて、若くしてそのまま自分も先生になったのでした。読者PもD先生も学んできた先生から互いの知の内容がおおよそ検討がついて、すぐに自分たちが近しい知の学習者であることが分かり、すぐに打ち解けました。そして、二人はとても仲の良い生涯の親友になりました。

2.大学の知と市井の知の違い
大学の知は専門細分化して、その狭い範囲の専門分野の中では非常に精緻に知が極められています。一方、市井の知は確かに専門分野はありますが、大学の知と比較すれば、その精緻さでは劣るかもしれません。なぜなら、大学ではその専門分野を仕事として、そればかり集中して研究できるからです。一方、市井の知はそういうわけにはいきませんから、どうしても精緻さでは劣ってしまいます。しかし、その一方で、大学の知は専門細分化してしまったために、全体的な知に対してはリアリティを欠如してしまっているかもしれません。自分の専門分野だけで全体を把握しようとするからです。自分の専門分野だけで世界を説明しようとしてもちょっと無理があるからです。あるいは、自分の専門分野以外の専門分野には、また、別の専門家がいて、そこでは自分の専門分野だけでは通用しないのが分かっているからです。そのため、専門分野の外へ出ようとしなくなります。タコツボ化の弊害のひとつです。それに対して市井の知はトータリティを重視します。もちろん、専門分野も重視しますが、それだけではなくて、全体として役立てられる知であるように考えます。市井の知において、誰に学んだかが重要になります。専門分野は大切ですが、専門もその人の解釈によって様々な見解が生まれます。ですが、誰に学んだかが分かれば、その固有性が明確になり、解釈の方向性やその人の知の全体性がつかめるからです。先程のたとえ話で、誰に学んだかの知の系譜が重要なのはこのためです。それから、先生というのは知の技術者であると同時に人格者でなくてはならないと思います。その先生がどのような知の技術を持っているかは、その人に就いて学ばなければ分からないかもしれません。しかし、先生が人格者かどうかは、単に人付き合いの中から察することができます。人にものを教えるという先生というのは技術も大切ですが、それ以外に人格も大切だと思います。極端なことを言えば、技術は大したものでなくても、人格が良ければ、その先生に学んで良かったと考えられるかもしれませんから。ともかく、大学の知はアカデミズムというツリー状に階層化された知の体系の中に専門分野というタコツボの中に位置づけられてしまいますが、市井の知はリゾーム状のネットワーク的な知の体系の中に先生というノードに位置づけられると思います。学習者はそのネットワークを知を求めて点々と移動してゆくのではないでしょうか。

3.何をもって満足するのか?
実はこの知のネットワーク構造は武術の世界に似ているところがあります。武術も各流派に分かれて、先生が道場主になっており、先生も若い頃に別の先生に学んで先生になったりしています。ところで、武術の先生は何をもって先生として認められるのかというと武勇伝にその根拠を求めたりします。まあ、他流試合で勝ったとかなんとかです。強いことと試合に勝つことは似ていますが、微妙に違いもあります。宮本武蔵の武者修行は強くなるための修行というよりは、自分が一番強んいんだということを示すためにあちこちで試合する旅になっています。強くなるための修行と試合に勝って強いことを示すことは違いますよね。知の探求も人から認められることや自分が先生になることが目的ではないと思います。目に見えないけれど自分の知的好奇心を満足させる知を得ることが知の探求の目的のひとつではないでしょうか。何をもって自分を満足させるかは、他人ではなく、あくまで自分自身の中にあると思います。

4.人文知の行方
大学から人文知が限りなく減らされています。でも、それは仕方ないことです。大学には税金が使われています。私学も補助金という形で税金がいくらかは使われています。社会にとって役立つ人材を養成するためだから大学に税金が使われるのです。人文知は直接的には社会に役立ちません。人文知は社会に直接役立つ専門知識ではないからです。ですので、税金に余裕があればそんな人文知に税金を使っても良いかもしれませんが、余裕がないなら、やはり、社会に有用な専門知識の学習のために税金は使うべきです。それに人文知の学習インフラはこれまでの大学での知の蓄積とネットの発達によって、どんどん手に入れやすくなっています。ウィキペディアやグーグルブックスやウィキブックスが充実すれば、著作権の切れた古典的なテキストは無料でネットで読むことができるようになります。最低限、自己学習できる環境は整います。まあ、確かに直接、先生に就いて学習するのが良いのですが、大学という枠でなくても、それは市井の知でやれなくはないと思います。なので、知は社会に直接役立たなくても、純粋に知的好奇心を満たすためだけでも良いと思います。もちろん、可能であればなにか社会に直接役立つ人文知であっても構いませんが、社会に直接役立つことを無理に目指す必要はないと思います。人間のいくつかの欲求の中のひとつである知的好奇心を満たすためだけでも良いと思います。大学には大した学習意欲もなくて単に資格を取るためだけ来る人たちもいます。ですが、市井の知には、真に学びたい人たちだけが来れば良いと思います。こう書くと堅苦しく聞こえるかもしれませんが、実際は学ぶ意欲があれば、その内実は楽しい知になると思います。大学のように学習意欲のない者を客寄せするために無理にレジャーランドにする必要はないのです。市井の知は金儲けが一番の目的ではなく、真に知を求める者たちだけが集えば良いと思います。もし、その知に満足しなければ、黙ってその先生の元を去り、別の先生のところへ学びに行けば良いのですし、また、いつまでもその先生のところに居てもいいし、ある程度、その先生で満足すれば去って行ってもいいと思います。あくまで自己の知の完成が第一の目的であって、お金や権威が目的ではないと思います。

5.その他いろいろ
知の学習において、書物による学習も大事ですが、フェイストゥフェイスの学習も大事だと思います。学校教育では、悪く言えば、権威によって上位の先生から下位の生徒へ押しつけるところがあります。例えば、教科書の読書体験と通常の個人的な読書体験の違いに表れています。教科書は絶対正しい的な押し付けがありますが、通常の読書では著者と読者の対等な対話で読者は著者に対して真理を探求する者の心として懐疑を抱くことができます。個人的な読書体験ではそういう著者と読者の対等関係を築けます。ところが、学校教育では懐疑を差し挟む余地がなく、上から下への押し付けが多くなってしまうと思います。さて、知の学習はそういった学校教育と比べると実はそれほど輪郭が明確ではありません。学校教育では先程書いたように上から下への押し付けである一方で、これは正しいとこれは間違っているなどの輪郭が明確です。ですが、知は実はそう単純には、あるいは、そう荒くは輪郭を明確にできないところがあります。そうなると、学校教育のようなスタイルでは真に知の学習を伝達することが難しくなります。そういう輪郭の明確でない微妙な知の伝達にはどうしても生徒や先生の様子やニュアンスをうかがえるフェイストゥフェイスが重要になってくると思います。なので、市井の知のフェイストゥフェイスで学べる学びの場が大切になってくると思います。それと先生はやはりある程度の期間教えられる専門分野が必要だと思います。それが範囲が広く深いほど優れた先生ということになるのかもしれません。まあ、あくまで、ひとつの尺度に過ぎませんが。ところで、最近はYouTubeで映像を見られるので講義を見ることもできますし、驚いたのはインド人がスカイプのTV電話を使ってインドに居ながら、アメリカの子供の家庭教師をしているのもありました。まあ、アメリカ人の子供の礼儀作法がなっていないのを嘆いていましたが(笑)。他にもネットに教材を用意するなど、ともかく、ネットを使った教育がどんどん浸透しているようです。中途半端になってしまいましたが、ちょっと今回はいったんここで筆を置きます。

2010年6月5日土曜日

現代思想の今後について

1.構造主義から分析哲学まで
現代思想の今後について少し考えてみようと思います。現代思想といっても、既に現代ではなく、過去のものです。フランスで展開した構造主義も、また、その後に展開を期待されたポスト構造主義も今はもう過去のものになってしまった感があります。これら一連の構造主義を大陸哲学とすると、英米系の分析哲学がその後を引き継いだと考えるのかもしれません。ですが、確かにそれら分析哲学は停滞した現代思想の中で目立った活躍ではありますが、かつての構造主義に比べれば、それほど大きな展開になっていないと私には感じられます。大きな展開になっていないからといって、それらを軽視してよいわけでもありませんし、実際、考える材料を提供してくれているとは思います。ですが、極端なことを言えば、全体を俯瞰する構造主義と比べれば、分析哲学は個別の行動原理を模索するもので、構造主義とは違った思考形態であり、構造主義が哲学であるのに対して、分析哲学は実践(行動やプラグマティズム)ではないかと思います。(これはレヴィ=ストロースの構造主義とサルトルの実存主義の対立と、ある意味、似ているのではないかと思えます。)
 
2.近代哲学の敗北
ここで、もっと遡って哲学についても振り返ってみます。極端に言えば、中世の西洋では哲学でなく神学だったと思います。それが近代になって「神が死んだ」(ニーチェ)ことによって神が出てこない近代哲学になりますが、「神は死んだ。だが、困った」(サルトル)と言われたように神抜きの哲学をうまくは構築できませんでした。なぜなら、乱暴に言えば、ハイデガーの『存在と時間』が存在論を批判したものの、それに代わる存在論をハイデガーは構築できませんでしたから。まあ、サルトルがユニークな実存主義を掲げたのですが、哲学的にはレヴィ=ストロースの構造主義にあっけなく退けられてしまいました。(ただし、だからといって実存主義に価値や意味がないというわけではありません。)結局、デリダが「哲学はすでに死んでいる」と言ったように哲学は存在(つまり、あらゆるもの全て)の哲学的な構築に失敗しています。(これは無矛盾の形式化に失敗した数学に似ています。)そういうわけで、実は私たちは自分でもうまく説明できないよく分からない世界に存在しているのです。この謎については宇宙や生命の物理的な解明を待つしかないと思いますが、それでもすべてを完全に解明するのはちょっと難しいのではないでしょうか。(SF作家のイーガンはそのことを強く意識していると思います。)

3.現代思想の可能性
さて、そういうわけで存在の哲学的な探求は困難だと考えられます。大きな枠組としては哲学は既に終わっている感があります。もちろん、様々な存在の可能性を考えるのは楽しく、それらは今後も続けられると思いますが、しかし、それはあくまで可能性にとどまるでしょう。あるいは、哲学の敗北を覆す天才が現れる可能性もあるかもしれませんが、さて、どうでしょう。ともかく、繰り返しますが、哲学は大枠としては終わっています。では、現代思想という小さな枠組みの中ではその可能性はどうでしょうか?現代思想を哲学的な分析のツールと見立てたとき、その展開の可能性はすべて出尽くしているでしょうか?私の個人的な見方ですが、構造を俯瞰透視する構造主義と記号の生成消滅のダイナミズムを捉えようとする記号論(特に記号の生成過程を分析しようと努めたクリステヴァの記号論)が大きな分析ツールとしてはあったと思います。人によってはクリステヴァはソーカル事件で否定されてしまった感がありますが、まあ、安易に数学を導入したクリステヴァにも問題はあったかもしれませんが、彼女の業績をすべて否定してしまうのは間違っていると思います。乱暴に言えば、構造主義をマクロな視点とすれば、彼女の記号論はミクロな視点の導入であり、2つは相補的な関係にあったと思います。(彼女は後に根拠を求めてラカンの精神分析に向かっていきます。)というわけで、現代思想は構造主義と記号論という2つの大きな分析ツールがあると見立てることができると思います。

4.可能性への個人的な見解
それでは現代思想の分析ツールとしては、この2つがすべてでしょうか?いえ、実は私はもう1つ可能性があるのではないかと思っています。それは何かと言うと、連載コラム『ヴィトカツィの時代』で示唆した形態学です。私の考える形態学は、構造主義と記号論でいえば、どちらかというとスケール的にはミクロの世界を扱う記号論に近いものです。ただし、クリステヴァが精神分析学へ向かったのとは反対の方向に向かうものだと考えています。言い換えると、形態学はフロイトに向かうのではなくユングに向かうものだと考えています。形態学がどのようなものかは連載コラムの中で詳述しようと思います。ただ少しだけ触れると、形態学はパターンを生む可能性があります。ここでいうパターンとはコンピュータのプログラミングでいうところのデザインパターンを意味しています。デザインパターンとは乱暴に言えば動的組織のプログラミングによる構造化です。昨今ではアーキテクチャと言えるかもしれません。ともかく、まあ、そういった様々あるパターンのカタログを作成する方向に向かうかもしれません。ただ、それはすでにデザインパターンとして具現化されているし、哲学的には構造分析と大した違いはないと言えるかもしれません。形態学では、そういったパターンを抽出するのではなく、精神の抽象レベルへのサイコダイビングみたいな探求になるのではないかと思っています。

5.哲学の個別化
さて、私の個人的な見解の正否はともかく、言語化可能な哲学の展開としては一般的に理解できるレベルでは出尽くしていると思います。一般的に理解できるレベルを超えるとなると、それは個別的な理解に進まざるを得ないと思います。つまり、それは師から弟子への言葉を超えた以心伝心で伝わるレベルということです。哲学の一般的な理解は、まあ期待されたものかどうかは別として、ある程度達成されたのですが、それを一歩踏み越えて深く理解しようとなると、それはもう言葉を超えたレベルでの伝承的な理解になると思います。まあ、ずいぶん、乱暴な話ではあるのですが、実は歴史的にはそういうのは過去にもありました。中世哲学の頃、イスラーム世界では学者とされる師から弟子へとその哲学が継承されたというのがあります。現代哲学も、ただし中世哲学とは違って神を除いた哲学的展開になるとは思いますが、同じような師資相承の形態を取るのではないかと思います。

6.個別の思想展開とネットワーク形成による環境整備
さて、以上を整理すると、哲学や現代思想のアカデミックな展開は終わっており、現代思想から新たに大きな潮流が出てくることはないと思います。今後はそれぞれの哲学者が自分たちの哲学を個別に個人的に展開してゆくしかないと思います。付け加えると、大学は狭い意味で社会に役立つ有用な技術を養成する機関になるので、哲学の居場所は大学では限りなく少なくなるでしょう。哲学は大学に代わって哲学を求める人たちのために市井(市場)に活躍の場を移すと思います。市場での哲学の展開は様々な方法が模索されると思います。東浩紀のやり方もその1つでしょう。(哲学とはちょっと毛色が違うが小谷野敦も同様だと思います。)ネオアカはネオアカで独自の展開をしようと思いますが、ネオアカで一括りにする必要はなくて、個人が各自で自分の好きなように自分に合ったやり方で展開すればいいと思います。以上で述べたように、全体としては個人個人が知の拠点となっていけばよく、互いが反目しあうのではなく、互いにネットワークを形成することによって、知を探求したいと考えている人たちに知を探求しやすい環境を提供することだと思います。個人が個別の思想展開をするとどうしても自己の正当性を主張するあまり、閉鎖的になったり独善的になったりするかもしれませんが、知を探求したい人たちに学びやすい環境を提供するためには、知の拠点が内側に閉鎖的に閉じこもってしまうのではなく、各自の知の拠点を開放的にして、知を学ぶ人たちが知を求めて様々な知の拠点を移動できるようにネットワーク化した方が良いと思います。(もちろん、ネットワーク化して知の拠点同士が互いに友好関係を結ぶと同時に、その逆に矛盾するようですが、知の活性化を図るために互いに批判的であるべきだとは思います。)