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2010年8月22日日曜日

クリストファー・ノーラン監督『インセプション』

 









 
 
1.はじめに
クリストファー・ノーラン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『インセプション』の解釈・感想を以下に書きます。なお、完全ネタバレで書きますので、未見の方はご注意下さい。また、例によって思いついたままに書き流しているのでまとまった文章になっていません。『インセプション』についてはちゃんとした文章をいつか書きたいと思いますが、とりあえず、物語の核心部分だけ先にこのブログに書いておきます。



2.2つの物語タイプ ~「現実と幻想の区別ができる物語」と「現実と幻想の区別ができない物語」~
 

最近、現実とバーチャルの区別がつかない人がますます増えている。その原因はテクノロジーの進歩によって本物とニセモノの区別がつかないほどに、ニセモノが本物に似せて作られ始めたからだ。私たちの身の周りにもニセモノがあふれかえっている。花に見せかけた造花や木製の壁に見せかけてプリントされた木目柄の壁紙などだ。私たちの周りはニセモノであふれている。映画では、それをもっと発展させたものがある。例えば、映画『ブレードランナー』だ。『ブレードランナー』に出てくる人工の蛇は普通に見ただけでは本物かニセモノかは判別できない。蛇から剥がれた一枚のウロコを顕微鏡で拡大して見たとき、そのウロコに製造番号が記されているのを発見して初めて、その蛇がニセモノだと分かるのだ。それがアンドロイドになると判別はもっと厄介だ。フォークト=カンプフ感情移入度測定法でも100%間違いなく完璧に人間かアンドロイドかを判別できるわけではない。本物かニセモノかの区別が非常に難しくなってきている。


 
『ブレードランナー』では物が本物かニセモノかの判別が難しかった。だが、物ではなく、この世界そのものが本物かニセモノかの判別が難しいという作品がある。それは『マトリックス』だ。『マトリックス』ではここが現実世界なのか電脳世界なのか普通の人には分からない。電脳世界が本物の世界と寸分違わぬように作られているため、電脳世界に繋がれている人々には、そこが現実世界なのか、電脳世界なのかが分からなくなっているのだ。人々は電脳世界を唯一の現実世界と信じて暮らしている。


 
このような現実と幻想の区別がつきにくいという設定は『荘周胡蝶の夢』で見られる典型的な世界設定だ。『荘周胡蝶の夢』とは、自分が蝶になって野原を愉快に飛びまわる夢を見ていたら、次の瞬間、「ハッ」と目が覚めたときには人間の荘周になっていたというものだ。荘周はそれを顧みて、自分が蝶になった夢を見ていたんだと最初は思ったのだが、実は今こそが夢を見ている状態であって、蝶が荘周になっている夢を見ているのではないかと考えることもできると気づく。「果たして自分は荘周なのか、それとも蝶なのか、真実の姿はどちらなのか?」という疑問に頭を悩ませる。結局、どちらが真実の自分の姿なのかをハッキリと区別することはできないという結論に至る。以上、「どちらが夢でどちらが現実かを明確に区別することはできない」というのが、一般によく使われる『荘周胡蝶の夢』の喩え話の意味だ。(*1)

ここで注意しなければならないのは、『荘周胡蝶の夢』では自分が人間なのか蝶なのかはどんなに深く考えても最終的に判別できないのだが、『マトリックス』や『ブレードランナー』では本物とニセモノは極めてよく似ているものの、それでも最終的には本物かニセモノかはギリギリ判別できるという設定になっている点だ。例えば、『マトリックス』ではネオやモーフィアスのように覚醒したわずかの人々が現実世界か電脳世界かを判別できるし、『ブレードランナー』ではデッカードやエンジニアたちは本物か人工物かをギリギリ判別できる。つまり、『荘周胡蝶の夢』と『マトリックス』では現実と幻想の区別が最終的には判別できるか判別できないかで大きく異なる。すなわち、『荘周胡蝶の夢』と『マトリックス』では、2つの異なる物語タイプとして区別される。さて、では、この『インセプション』はどちらのタイプの物語だろうか?この『インセプション』も実は『マトリックス』や『ブレードランナー』と同じで現実か夢かは非常に判別が難しいけれども、最終的にはギリギリ判別できるというタイプの物語に当てはまる。そして、どうやって現実か夢かを判別できるかがこの映画の鍵になっている。(*2)

3.『インセプション』のあらすじ
さて、前置きはこの位にして、まず『インセプション』のあらすじついて簡単に説明しておこう。主人公のコブは他人の夢に侵入して情報を盗み出す産業スパイである。他人の夢から情報を抜き取ることをエクストラクト(抜き取り)というが、コブの通常の仕事はこのエクストラクトばかりだ。だが、コブは大企業の社長サイトーから、エクストラクトではなく、インセプションの依頼を受ける。インセプションとは、エクストラクトとは逆に、アイディアを他人の潜在意識に植え付けることをいう。特定のアイディアを潜在意識に植え付けることによって、その人が他人から与えられたアイディアとは気づかずに、そのアイディア通りに行動してしまうというものだ。例えば、「タバコが嫌いになる」というアイディアを植え付けられれば、タバコを吸うのを止めるというように。ただし、注意しなければならないのは、潜在意識に植え付けられたアイディアは植物のように成長してゆくので、「タバコが嫌いになる」というアイディアを植え付けられた人はタバコを止めるだけでなく、タバコを吸っている人も嫌いになって、仕舞いにはタバコを吸っている人に殴りかかるようになってしまうかもしれない。植え付けられたアイディアがどのように成長して、その人を変えてしまうかまったく分からないのだ。このようにインセプションは危険な任務であって普通は引き受けない。ところが、コブはサイトーからライバル会社の社長に「自ら会社を潰す」というアイディアを植え付けるインセプションを依頼される。最初、コブはこの依頼を断ろうとするが、サイトーの示した条件に釣られて依頼を引き受けてしまう。その条件とはコブが米国に帰れるというものだった。実はコブは妻殺しの嫌疑をかけられて、国外逃亡を余儀なくされていたのだ。米国にはコブの子供たちが暮らしており、コブはどうしても子供たちの元に帰りたかったのだ。そこでサイトーは巨大な権力を行使してコブの罪を帳消しにして、コブを米国に帰すという。コブは危険と知りつつも、この任務に取り組むことにする。

4.夢の構造
さて、『インセプション』の設定で重要なものに夢の構造がある。『インセプション』で描かれている夢の世界は階層構造になっている。どういうことかというと、『インセプション』では、現実と夢の世界の2つしか世界が存在しないというわけではなくて、夢の世界は階層的に幾つもの世界が折り重なって存在しているという設定になっている。どうしてそうなるかというと、夢の中で再び眠りについて、さらに夢を見ることによってもう一つ別の夢の世界に入ってゆくというのだ。夢の中で夢を見ることによって、階下を下るようにドンドンと潜在意識の奥深くへと潜っていけるという設定になっている。

さらに気をつけなければならないのは現実と夢の世界では時間の流れるスピードが違う点だ。現実での1分間は夢の世界での20分に相当する。そして、夢の中の夢、最初の夢を第1階層とすると、夢の中の夢は第2階層になるが、第2階層ではさらに時間のスピードが遅くなる。現実では1分間のはずが、第1階層では20分間になり、第2階層では400分間になる。このように階層を下れば下るほど輪をかけて時間の流れるスピードが遅くなる。このように、まるでゲームのような特殊な設定を生かして、この物語は観客を楽しませるスリリングな展開が繰り広げられる。設定はこの他にも、キックや虚無、潜在意識の防疫反応や心の武装化などたくさんあるが、ここでは省く。



5.コブの抱える3つの問題
次に、主人公であるコブについて説明する。コブは機知によって危機を脱出する、いわゆるオデュッセウス型の英雄だ。情報を抜き取るときに機知を働かせてターゲットをうまく欺くのだ。ただし、ヘマも多い(笑)。例えば、ここが夢だとバラして相手の信用を得る作戦『チャールズ』はサイトー相手に一度失敗している(笑)。とはいえ、推測だが、数々の産業スパイで成功しているのだから、コブはなかなかの腕前なのだろう。

だが、そんな彼にも問題(弱点)が3つある。1つは、どうしても騙せない相手がいる。それは自分自身の潜在意識の投影である妻モルだ。相手は妻モルの姿を取っているが、その中身は実は自分自身だ。コブがいかにターゲットを欺くのが上手だといっても、自分自身を欺くことはできない。モルにはコブの知っている情報がすべて筒抜けでお見通しなのだ。だから、コブの機知もモル相手には通用しない。この映画はそんなコブがどうやって自分自身である妻と戦うかも物語の見所になっている。ところで、なぜ、妻であるモルがコブの邪魔をするのかはコブのモルへの罪悪感に原因がある。モルへの罪悪感が潜在意識となってモルの姿形をとって現れるのだ。では、その罪悪感の原因は何か?コブがモルに罪悪感を抱く理由は妻の死に深く関わっており、映画の終盤で明かされる。ともかく、潜在意識である妻モルはコブの仕事の邪魔をする最大の敵、最大の弱点になっている。

さて、2つめの弱点は夢の世界に長く居すぎたために、コブにとって現実と夢の境界が曖昧になっていることだ。「夢を見ているときは、ここが夢の中だと気づかない」というように、長らく現実と夢の間を行ったり来たりしていると、どちらが現実でどちらが夢なのか分からなくなってくるというのだ。コブはこれを避けるためにトーテムという自分だけが知っている掌サイズの小さな物体を用意している。この物体の微妙な感触を覚えておくことでここが現実か夢かを見分けるというのだ。映画の中でコブは小さな独楽を使って、その独楽が回り続けるか否かで、ここが現実か夢かを判別する。だが、それでもコブはここが現実か夢かで悩み続けて、しばしば独楽を回して自分が居る場所が現実であることを確認している。

そして、3つめの弱点、それは「もう一度、妻と一緒に暮らしたい」という願望だ。端的に言えば、死んでしまった妻への未練だ。コブは死んでしまった妻への罪悪感があると同時に、本当はもう死んでしまっているが、それでも愛している妻ともう一度一緒に暮らしたいと秘かな願望をいだいている。普通ならそんなことは不可能だ。死んだ人は甦らない。だが、夢の中でなら、それが可能だ。夢の中でなら妻を克明に再現することで、もう一度一緒に暮らすことができる。コブは現実と夢が混同するリスクを知りながらも、秘かに夢の中で妻を再現していた。だから、その所為もあって、仕事中の夢の中なのに、妻が、突然、現れたりする混乱を起こしていたのだ。だが、コブには愛する妻との間で生まれた子供たちを現実の世界に残してもいる。そのため、コブは子供たちと一緒に暮らしたいという願望がある一方で、夢の世界であっても、もう一度妻と一緒に暮らしたいという互いに相反する願望を抱えているのだ。子供たちのいる現実の世界で暮らすか、妻のいる夢の世界で暮らすか?実は、この映画は「この2つの願望のどちらを選択するか?」という葛藤の物語でもある。そして、その選択は心の最も深い深層部である虚無でコブに突きつけられる・・・。

6.『インセプション』の読解で最重要問題は何か?
さて、いよいよ、この映画で最も重要な問題について考えるが、最も重要な問題とは何か?まず、それを画定する。まず、作戦である次期社長のロバートに会社を潰す意志を芽生えさせるというインセプションには成功している。つまり、作戦自体は成功なので、これは最重要問題ではない。では、最重要の問題は何か?映画を見終わったなら、それが何かすぐに分かると思う。映画を見終わったとき、観客が一番に考えたのは、あの独楽は止まったのかどうか、すなわち、コブは現実の世界に戻れたのかどうかだ。したがって、「コブがサイトーを虚無から救い出して、現実の世界に戻れたか戻れなかったのか?」が最重要問題である。そして、「もし、戻れたのだったら、その証拠なり、そう確信させるものは何か?」というのが最重要問題から導かれる解答になる。(もちろん、その逆の「戻れなかったのなら、その証拠は何か?」というのもありえるが、戻れたか戻れなかったかのどちらか一方の論証にあればいい。)

7.『インセプション』のクライマックスはどこか?
さて、では、最重要問題の解答は何か?コブは現実に戻れたのか?戻れたのなら、それはどこで分かるのか?ここで、問題を考えるために映画を振り返ってみる。映画の冒頭シーンにもあったように、虚無の世界でコブが年老いたサイトーと再会したところまでは間違いない。そして、コブが自分自身にも言い聞かせるようにサイトーを説得して、サイトーが拳銃を握ろうとした瞬間にこの場面の映像は途絶える。次の瞬間、突然、コブが飛行機の座席で目を覚まして現実らしき世界に戻る。その後の映像はややスローモーションでどこか現実感がない。コブは空港で入国手続きを済ませて、あれよあれよという間に自宅に戻って子供たちと再会を喜ぶ。コブが現実か夢かを確かめようとテーブルの上で回した独楽が回り続ける中、映画は終わる。独楽は、若干、揺らいだ音を立てるが、独楽の回転が止まったかどうかは分からない・・・。

コブが機内で目を覚ました後の場面からはコブが現実に戻れたかどうかは分からない。なぜなら、独楽が確実に止まったわけではないし、子供たちの顔が映画の中ではじめて登場するが、それが戻れた証拠とは言えないだろう。単に、夢の中と知らずにコブの自らの意志で子供たちの顔を見ただけかもしれないからだ。つまり、機内で目を覚ました以降の場面から、コブが現実に戻れたかどうかを確信できる証拠はない。

では、ノーラン監督はコブが戻れたかどうかは観客の自由な判断に委ねたのか?戻れたかどうか、どちらの判断も可能で観客は宙ぶらりんな状態に投げ出されたのか?もし、そう考える観客がいたとしたら、その観客はこの映画を単なるアクションが連続するアクション映画としてしか見ていない。この映画が心に訴えかけてくる心情的な核心を見逃していることになる。もっと具体的に言えば、この映画のクライマックスの意味を分かっていない。そもそも、この映画のクライマックスはどこか?それが分かると自ずとこの最重要問題の答えも導かれる。(*4)

この映画のクライマックスはどこか?それは虚無の世界でのコブとモルの対峙だ。ヒーローとヒロインの最後の対峙だ。この対峙の後、虚無でサイトーと再会して映画が終わるまでの場面は問題の投げかけであって、その問題を解く鍵はこのクライマックスで示されている。このクライマックスが理解できていれば、この後の問題の答えも自ずと分かってくるのだ。

8.クライマックスの意味
第3階層でロバートを殺されたコブたちは再びロバートを生き返らせるために虚無へ行くことにする。このとき、アリアドネはモルのことでコブを心配するが、コブは即座に「モルはロバートと一緒にいる」と答える。驚くアリアドネをよそにコブは続けて「なぜなら、モルは一緒にいたいから」と答える。コブはなぜそこまでモルの気持ちが分かるのか?考えてみれば、簡単なことだ。このモルは妻といっても実際にはコブの潜在意識の投影だ。モルはコブ自身でもあるのだから、モルの考えていることも分かるというものだ。しかも、第3階層まで潜っているので、いわば深層意識の奥深くにいるのだ。つまり、心の奥深くにいるのだから、いわゆる本心、表層意識に邪魔されずに、プリミティブな自分自身の願望をコブ自身が自覚しやすいのだ。意識も無意識も分け隔てるものはなく、より一体となった覚醒した意識に近づいてもおかしくない。

さて、虚無へ潜ったコブとアドリアネはビルの高層でモルと対峙する。コブの言った通りの場所にモルはいたのだ!これも先述の通りでモルは自分自身なのだから、コブにも分かるというものだ。このとき、コブはもう一人の自分であるモルとぶつかり合う。モルはコブを誘う。「この世界で一緒に暮らしましょう」と。そう、コブは今までも自分の夢の中にモルを再現して、モルに罪悪感を抱きながらも、一緒に暮らすことを夢見ていたではないか。その潜在的な願望が潜在意識の化身であるモルから誘われたからといって不思議ではない。むしろ、必然といえる。このような形でコブは自分自身の願望を真正面から突き詰められる。果たして、コブの出した結論は?

9.幻想のモルと本物のモルのどちらを選ぶか?

 コブは自分が残るかわりにロバートの居場所を教えろとモルに要求する。モルは喜んでロバートの居場所を教える。だが、コブはまんまとモルを欺くことに成功する。確かにコブは虚無に残るが、それはモルと一緒に暮らすためではなくて、落ちてくるサイトーを救うためだった。コブは自分の潜在意識であるモルを欺くことに成功する。オデュッセウス型英雄のコブが相手を欺く中でも最も困難な自分自身を欺くことに成功したわけだ。コブはモルをしげしげと見つめながら、モルの誘いを断った理由を語り始める。コブは言う。「君は完全で美しい。だが、本物のモルとは違う。本物のモルは完全だけど欠点もあるひとだったんだ。自分の潜在意識は君を本物に似せてはいるけれど、やはり、本物とは違う。自分が愛しているのは完全だけど欠点もある本物のモルなんだ。君にはすまないけれど、自分が愛しているモルではない」と。ここには人間の複雑な感情がある。見た目の美しさなら、夢のモルの方が本物のモルよりも上かもしれない。なぜなら、夢は現実を美化してしまうからだ。しかし、コブは見た目の美しさだけでモルを愛しているわけではない。コブは欠点もある本物のモルを愛していた。これはどういうことか?これは若い頃の恋愛と熟年の夫婦愛に置き換えて考えてみれば分り易い。若い頃の恋愛は恋人の外見的な美しさに惹かれたりするが、夫婦愛になれば見た目の美しさではなく、相手の人間性や二人で共有してきた時間の中で経験を共にしてきた相手に愛着がある。夫婦愛は表面上の見た目の美しさを超えて、相手の本質や共有した経験があることにこそ惹かれるのだ。夫婦愛は見た目に左右される薄っぺらい愛ではなく、もっと深くて強い愛に支えられている。したがって、コブを現実に引き戻す原動力は見た目の美しさで惑わす幻想ではなく、本質的な夫婦愛なのだ。コブはそのことを自覚したとき、幻想の世界に浸るのではなく、子供たちのいる現実に戻ることを強く意識したのだと思う。(*5)

10.見た目では現実と夢の違いが分からなくなっている!
さて、クライマックスで「夢の中でモルと一緒に暮らしたい」という幻想を克服したコブは、今度は見る陰もなく年老いたサイトーに再会する。コブは年老いたサイトーに昔の約束を思い出させるように説き聞かせる。そして、元の世界に戻るために勇気を出して飛ぶんだと説得する。そして、次の瞬間、突如、機内の中で目を覚ます。目覚めたコブが見た周囲の世界はどこか非現実的だ。そう感じられる原因は映像にある。というのも、音声がなく、映像も少しスローモーションになっているからだ。また、年老いたサイトーと再会した場面からいきなり機内の場面に変わったことも原因のひとつに挙げられる。物語が強引に断ち切られたように、あまりにも突然なのだ。私たちが夢からハッと目覚める体験そのままだ。そのため、観客は目覚めたコブがいる世界が現実の世界なのか夢の世界なのか分からない。観客は「ここは現実なのか?」と戸惑う。今までコブがトーテムの独楽を必死になって回して現実か夢かを確認していたが、今度は観客が同じ目に会う。この文章の冒頭で『ブレードランナー』や『マトリックス』を例に出して、本物とニセモノの区別がつかない程似ているという話をした。今まさに観客は夢と現実の区別がつかない状態に置かれている。観客はどうすれば夢と現実を区別することができるのか?

11.試される観客
夢と現実を区別する証拠を探すためにラストシーンについて検証してみよう。ここが現実ではないかと思えそうな点がラストシーンには2つある。1つはコブが子供たちと再会して、この映画で初めて子供たちの顔が写る場面だ。この点からここが現実だと主張する意見があるかもしれない。だが、虚無においてモルがコブに子供たちの顔を見るように促した場面があったことを思い出してもらいたい。これはどういうことかというと、夢の中であってもコブは子供たちの顔を見ようと思えば見られるのだ。つまり、このラストシーンで子供たちの顔が写ったからといって、必ずしも現実とは限らないということだ。ここはまだ夢の中かもしれない。もう1つはトーテムの独楽だ。独楽の動きから現実か夢か分かるだろうか?ラストシーンで独楽は揺らいだ音を出すものの、独楽が止まるところまでは写されていない。独楽が揺らいだ音をたてただけではここが現実だと確証するわけにはいかない。以上のように、子供の顔や独楽だけではここが現実だと確信するわけにはいかない。つまり、ラストシーンからは現実か夢かは判別できない。では、ここが現実か夢の中かどうすれば、判別することができるだろうか?

だが、物語を少しさかのぼって考えてみれば、そんなに迷うことはない。よく考えてみれば、コブは幻想のモルを克服しているのだ。「夢の中でモルと一緒に暮らしたい」という執着心をコブは克服している。少なくともコブ自身は現実に戻ろうと強く願っていたのだ。そして、現実に戻って子供たちと暮らすことを切に願っていたのだ。そういったコブの強い意志がある限り、コブが自らの意志で夢の中にとどまることはありえない。確かにコブがいくら努力しても現実に戻ることに失敗する可能性はあるだろう。だが、コブの意志自体は現実に戻ることを目指しているのだ。つまり、推測ではあるけれど、コブは現実に戻ろうと精一杯努力したであろうと考えられる。だから、ラストシーンはおそらく現実だと私たち観客は確信できるのだと思う。

さて、話をまとめよう。現代は本物かニセモノか、現実かバーチャルかが判別しにくい時代になっている。特に映像はコンピュータグラフィックスの発達で本物かCGか分からなくなっている。見た目では本物かニセモノか分からなくなっており、人々の中には現実と虚構を区別できない者も出始めている。そして、テクノロジーは本物とニセモノの区別をますます分かりにくいものにしている。この映画でもコブが機内で目覚めた後の世界は現実か夢なのか映像からは判別できないようになっている。だが、物語の意味を考えれば、コブが現実に帰れたであろうことは明白である。いや、よしんば帰れなかったのだとしても、コブが幻想を打破して現実に戻ろうとしたことだけは間違いないだろう。そして、コブが幻想を打破できた中心にあるのは、見た目の美しさに惑わされない、妻への本当の愛なのだ。本当の愛というと語弊があるかもしれない。深い愛というべきかもしれない。恋愛から始まって夫婦愛へと熟成されたような、深められた愛といえるかもしれない。彼が愛しているのは外見がただ若くて美しいだけのモルではなく、モルの心、モルの本質を愛しているのだ。あるいは、二人で積み重ねて共有した経験を伴なっているという固有性、その固有性を持つ妻モルを愛しているのだ。簡単にいえば、長年連れ添うことによって愛着を持つ妻を愛しているのだ。現代は目に見えるものだけが信じられる時代と言われている。逆に言えば、目に見えないものは信じられない時代である。物事の本質や愛は目に見えるものではない。だが、目に見えないものであっても、それらを強く感じとることによってその存在を強く確信することができる。そして、この映画では現実と夢を区別するものとして、それら目に見えない本質や愛が現実と夢を分かつモノとなっている。この映画でノーラン監督はコブが機内で目覚めてから以降の映像で観客がここが現実か夢かを判別できるかどうかを試している。観客が映像に惑わされることなく、ここが現実だと確信することができるかどうか、そして、確信できる理由が見た目ではない強い愛であるということに気づくかどうかを試している。


見た目、視覚効果から考えれば、ここは現実というよりは夢の世界に近いのではないかと類推させられます。しかし、視覚効果だけでは判断できません。一般的に、映画では、たとえそこが現実であってもこのような視覚効果はよく使われることなので、映画の最後のシーンまで追ってみなければ最終的な判断はできないでしょう。では、最後のシーンはどうなっているでしょうか?コブは子供たちと再会を喜びます。子供たちを抱き上げる前にコブがテーブルの上で回した独楽が回り続けています。そして、最後に少しだけ揺らいだ音をたてたところで映画は終ります。結局、このラストシーンだけではここが現実か夢なのかはハッキリと断定することはできません。では、この映画は、結局、ここが現実なのか夢なのか、コブは現実世界に戻れたのか、それとも、夢の中の虚無の世界に落ちたままなのかを観客の判断に委ねたのでしょうか?いいえ、そうではありません。監督はこの映画ではっきりとしたメッセージを残していると思います。なぜ、監督はラストシーンの視覚効果として、このように現実と夢の区別が難しくなるような映像にわざわざしたのでしょうか?それはニセモノが本物と見紛うばかり作られているために、見た目では判断できないということを寓話として入れたのだと思います。では、本物かニセモノかを判断するものは一体なんでしょうか?それは見た目ではなく、物事の本質を見る目です。(*3)

以上のように、この映画は現実と幻想が非常に似通って区別が難しくなってしまったけれど、物事の本質を見極めれば、それが現実か幻想かの判別は可能だと言っていると思います。さらに、見た目の美しさに魅惑されるような薄っぺらな恋愛ではなく、相手の人間性や積み重ねた時間によって培われた夫婦愛こそが深くて強い大切な愛なんだと教えてくれていると思います。この映画のラストシーン(機内でコブが目覚めてから、子供たちを抱き上げて、独楽が回っているシーン)で監督は観客が現実と幻想を見極められるか試しています。そして、見極められるためには物語の核心である夫婦愛に対する理解がなければなりません。物語の設定がSFやアクションで満たされていますが、意識の階層を深く潜った心の最深部、冒険の最後の最後、物語の核心部分で人間の情緒(深い夫婦愛)を扱った文芸的な心に触れる作品になっていると思います。SFと文芸が見事に融合した良質の物語だと思います。



(注)
(*1)一般に『荘周胡蝶の夢』のたとえ話は本文の理解(←夢と現実の区別がつかない。違いはない。)で良いのですが、『荘子』の説くところの『荘周胡蝶の夢』の本来の意味とは違います。本来の意味では「人間になろうと蝶になろうと、姿かたちがどのように変わっても本質は変わらない」ということを説いています。ただし、もう1つ付け加える意味があって、荘子はシャーマニズムの影響を強く受けているので、シャーマニズムが説いている世界認識で、この世界は「この世」の他にも別の世界である「あの世」がたくさんあって、「この世」も「あの世」も共に現実であるということも言っていると思います。

(*2)現実とバーチャルの区別がつかない人にはこの映画は試金石になっていると思います。というのは、現実とバーチャルの区別のつかない人はそれこそこの映画の虚無世界に落ち込んだように、映画のどの世界が現実でどの世界が夢かが分からなくなってしまっています。物語の枝葉末節に囚われるのではなく、物語の核を掴むことができれば、この映画のどの世界が現実でどの世界が夢かの区別がはっきりと掴むことができます。そして、それはうわべの見た目(視覚)ではなく、本質的な意味を知ることでその区別ができるということを自覚します。

(*3)逆に言うと、見た目に惑わされる人は、このラストシーンの見た目に、意識的にか無意識的にかは分かりませんが、影響を受けて、コブは現実世界に戻れなかったと判断してしまいます。

(*4)判断を観客に委ねる作品に『ゆれる』があります。どちらにも解釈できる作品です。なるほど、どちらにも解釈できるようにうまく作れているという意味では技術的に優れている。だが、観客からすれば、「それがどうした?」となります。どちらの解釈もできるし、どちらか一方でもそれなりに意味はあるけれども、両方可能で意味が増えるかというとそうでもないでしょう。1+1=2であって、1+1が3にも4にも増えるというわけではないでしょう。単にテクニックとして上手にできましたという話ではないでしょうか。確かに技術的には優れているけれども、物語としては意味はありません。

(*5)「コブはモルと夢の世界で暮らしたがっている」というのは第3階層でのコブとアリアドネの対話からも推測できる。コブはアリアドネにモルはロバートと一緒にいると言います。モルはコブと一緒にいたいからです。言い換えると、潜在意識のモルのこの願望はコブの願望でもあるのです。コブはモルと一緒にいたいのです。ちょっと冷めた目で見ると、コブが一人でミッションのクリアーを難しくしているだけで一人芝居しているように見えるかもしれませんね(笑)。

細かいツッコミですが、「コブはモルを欺けないので?」はという疑問があります。ですが、このとき、コブはサイトーが落ちてくるから虚無に残るつもりでいました。ですから、「コブが虚無に残る」という言葉はモルと一緒に残るという意味ではなくて、サイトーを連れて帰るために残るという意味だったのです。ですから、コブはモルにウソをついたわけではありませんでした。


(*6)ラストの虚無の世界におけるサイトーとコブの年齢差について推測を書いておきます。海辺のサイトーの屋敷で再会したサイトーとコブですが、サイトーは明らかに極めて高齢の老人になっています。一方、海岸から拾い上げられたコブはやつれてはいますが、老人になっているわけではないと思います。この二人の年齢差はどうやって生じたのでしょうか?おそらく、サイトーは弾丸による傷が原因で第1階層で死んでいます。一方、コブは夢を見ることで虚無世界に行ってサイトーが落ちてくるのを待っていました。ですから、順番から言えばコブが先でサイトーが後のはずです。ですが、年齢差から考えれば、サイトーが長く虚無にいて、コブが後から虚無に来たと推測できます。何故でしょうか?おそらく、コブは夢を見る状態で虚無にいましたが、第1階層で水中に車で転落したときに水死してしまったのではないかと思います。もしくは、他の第2、3階層で死んでしまった。死んでしまうことによって、夢で虚無にいた状態から、サイトーのように死んで虚無に落ちてきた状態に変わったのではないでしょうか?言ってみれば、最初、虚無にいた状態がリセットされて、死んで再び虚無に落ちてきたのです。そういったプロセスがあったためにサイトーはコブよりも早く虚無にいたわけです。サイトーはすでに弾丸の傷で死んでいるので、水死することもありません。コブよりもいち早く虚無に落ちているのです。その僅かな時間差が虚無で拡大されてサイトーが老人になるまでの時間差となって現れたのだと思います。ですから、サイトーは虚無の中で老人になるまでの一生分の時間を過ごしたことになります。機内で目覚めたときの茫然としたサイトーの表情はその過酷な長い年月が年輪のように押し寄せて、眠る前の精気のある顔から目覚めた後の苦難の旅を経た後のような微妙な表情に変わったのだと思います。この辺りの実に繊細な渡辺謙の演技はとても優れていると私は思います。


2010年8月18日水曜日

来るべき戦争への備え

ざっと思いついたまま書いたので、まだ下書きのような段階で文章の体をなしていません。後日、文章を整理して書き直したいと思いますが、とりあえず、未完成ですが、文章をアップしておきます。

1.緊迫する東アジア情勢
何やら北朝鮮がきな臭い。例の哨戒艦沈没事件に始まって、先日の米韓合同演習、そして、今回の軍用機墜落である。北朝鮮を中心にこの東アジア地域で何か良からぬことが起こる前兆が見られる。

2.犯人は誰か?
まず、北朝鮮に関して言えば、北朝鮮が韓国との間で戦争を起こしても利益はないだろう。北朝鮮は確かに国際社会に何かと問題を突きつけるが、それは国際社会から何らかの援助を得るための、言わば、「ダダをこねている」に過ぎない。これは綱渡り外交と言えるだろうが、今のところ、うまく行っていると思う。だが、実際に戦争を起こせば、そうはいかなくなる。北朝鮮がいくら中国の後ろ盾があるからといって、西側諸国と戦争して勝てるはずがないのは分かっているからだ。だから、哨戒艦沈没事件から今回までの一連の北朝鮮の動きは軍部のはねっ返り連中の暴走だとしても、北朝鮮中央政府、つまり、金正日が仕掛けたものだとは考えにくい。では、誰が画策したのか?

3.中国の脅威
中国の経済成長が目覚ましい。ついに2010年の第一四半期のGDPにおいて、中国は日本を抜いて世界第2位の地位に着いた。だが、実は中国はGDP以外にも軍事費において米国に次ぐ第2位の高いの軍事費をかけている。軍事費の点から見れば、中国は米国に次いで世界第2位の軍事力を持つ国と言える。ただ、実際には、かつての超大国ロシアがあるので、中国の軍事力はロシアよりも下かもしれない。だが、たとえそうであっても、世界第3位の軍事力を保持しているであろうことは確実だろう。ちなみに、日本は世界第6位の軍事費である。ただし、専守防衛の観点から組織された軍事力であるために、その戦闘力は偏った傾向があると思われる。

4.世界の覇権
米国も中国も超大国であり、世界の覇権を握ろうと意識していることは間違いない。ゆえに高い軍事力を持つ国を看過することはありえない。つまり、ここ最近の北朝鮮を中心としたきな臭い動きは米国と中国が対立しているために生じている前哨戦ではないかと思う。この東アジア地域で有事が起こるとすれば、まず間違いなく北朝鮮だろう。今まで悪評を立てながら利益を引き出してきた北朝鮮の綱渡り外交が米国につけ入られる弱点となってしまったと思う。

5.北朝鮮の兵器ビジネス
そもそも北朝鮮が悪評を立てた1つの要因は中国の兵器を中国に代わって世界に販売したことにある。さすがに中国自身が兵器を販売するのは国際社会から非難を浴びるだろうし、ひいては国連安保理の常任理事国を務めている地位さえ、その権力基盤を弱められない恐れがある。そこで、北朝鮮を代理に立てて、兵器を販売していたのだ。北朝鮮はすでにならずもの国家としての悪い地位を得ていたので、これ以上、特にマイナス点を増やしてもさほど変わらないと開き直っているので平気というわけだ。

6.中国にとっての北朝鮮という防衛ライン
また、中国としては、北朝鮮はお荷物ではあるものの、社会主義国の防衛ライン、国防の防衛ラインとして、北朝鮮を譲るわけにはいかないというのも大きい。確かに、歴史的に見れば、朝鮮半島は様々な国家に分裂しては合併し、合併しては分裂するという繰り返しだった。だから、何も韓国と北朝鮮が1つになる必要はないと見る見方もあるだろう。

7.朝鮮半島の統一
だが、同じ言語を使う同じ民族という観点からすれば、韓国と北朝鮮は1つに統一されるのが一番自然であるように思う。韓国の人口が5千万人、北朝鮮の人口が2千万人で合わせて7千万人の人口の国になると思われる。韓国と北朝鮮が統一されて統一朝鮮が実現すれば、日本の約3分の2の人口を持つ、日本と国力がほぼ均衡するであろう国が生まれる。ただ、かつてドイツが西ドイツと東ドイツが統一したときのように、統一当初は北朝鮮の未発達の社会インフラを整備するために一時的に国力が衰えるものと思う。だが、安い北朝鮮の労働力によって、いずれは活力を取り戻すのではないかと思う。そうなれば、東アジアでは日本と統一朝鮮はほぼ拮抗した国力を持つ国家になるのではないかと思う。確かにストックという面では日本はまだまだ金持ち国家だが、フローという面で見れば、統一朝鮮を侮れないと思う。日本は右肩下がりの斜陽傾向にあるからだ。

8.中国から見た沖縄の戦略的位置
さて、中国はチベットもウイグルも中国に無理矢理取り込んできた。そのやり方は大量に漢民族を送り込んで、時間をかけてチベットやウイグルを漢民族の国にするというやり方だ。そして、教育によって、チベットもウイグルも元々中国だったと国民に信じこませるというものだ。いま、中国の歴史学者の中には、沖縄に対して、沖縄は中国のものだという極めて悪辣な主張をしているものもでてきた。彼らのやり方はチベットやウイグルと同じで、中国のものだと主張して侵略して、侵略すれば、漢民族を大量に送り込んで、そこに住む人々を根こそぎ漢民族に変えてしまうというものだ。ただ、この沖縄に関してはあまりにも無理がある主張だ。あえて否定するまでもなく、ムチャクチャな主張だといって退けてよいと思う。ただ、なぜ、中国がこの小さな島国である沖縄に目をつけるかというと、それは上海という中国の経済上の中心都市のほぼ海上ど真ん中に沖縄があるからだ。さらに、中国で経済発展している場所は沿岸部であり、その沿岸部のど真ん中に沖縄があると見ることもできる。つまり、沖縄は中国の安全保障上の最も危険な位置、最も他国に軍事拠点を置かれたくない場所に位置しているのだ。

そして、ご存知のように沖縄にはアジアの火薬庫と言われるアジア最大の軍事基地、米軍基地がある。中国の国防から見れば、中国の喉元にいつでも突き立てられる刃を突きつけられているという状態にあるのだ。ゆえに中国の国防関係者からすれば、沖縄をなんとか中国の領土として、逆に他国からの侵略を防ぐ防波堤にしたいくらいなのだ。ゆえに無理筋の「沖縄は中国のものだ」という主張をするのだ。

9.米国から見た沖縄の戦略的位置
一方、逆の立場である米国にすれば、沖縄は中国を抑える上でなくてはならない軍事拠点になる。沖縄にアジア最大の軍事拠点をおけば、中国も東南アジアも抑えられる。現代の長い航続距離を考えれば、インド洋にさえ手が届くかもしれない。米国の国防にとって沖縄は経済発展するアジアを抑えるための、なくてはならない軍事拠点となりつつある。

10.日本にとっての沖縄
「日本にとっても沖縄の米軍基地は抑止力である」という見方をする者もいる。だが、それは100%そうだとは言い切れない。そもそも自国の防衛を他国に任せて100%安心ということはありえない。自国の防衛は自国で守るのが当然なのだ。駐留している米軍がいつ日本に銃口を向けないとも限らない。米国の利益に反するとき米軍は米国の利益を優先して日本に反旗を翻すのは当然だと思う。だから、国防という観点からいえば、自国のことは自国の軍隊で防衛するのが一番良いのだ。だが、日本の民意としては米軍基地を信頼する者も少なからずいるだろう。米軍もそれに加勢するだろう。本土の国民は自分たちに不利益がない限り、沖縄の米軍基地を撤退させるまでの民意を示せないだろう。沖縄の市民たちは自分たちの惨状を伝えるために米軍基地に対して行動を起こすか、本土において訴えを実力行使で起こすかのいずれかでしか本土の国民に不満を伝えることはできないと思う。ゆえに以上を勘案すれば沖縄の米軍基地はまず撤退することはありえないと思う。

11.アメリカ大統領を凌ぐ軍需産業とユダヤ財閥
ところで、米国のオバマ大統領の支持率が下がっている。そして、国防省ともあまり良い関係になっていない。むしろ、国防関係はオバマ政権とは違った方向に進もうとしているようにさえ思える。違った方向とは共和党が指示するようなタカ派的な方向だ。米国の巨大な軍需産業やユダヤ資本、暗躍するロビイストなどの力は強大で、大統領すら凌駕するのではないかと思える。結局、アメリカの真の主は大統領ではなく、巨大な財閥なのではないかと思う。そして、かつてブッシュ大統領が唱えた悪の枢軸3国イラク、イラン、北朝鮮への攻撃準備が着々と進んでいるのではないかと思う。今はイラクは無いので、イランか北朝鮮だ。万一だが、今度の中間選挙でオバマ大統領は負けるかもしれない。いや、負けなくとも、ほぼ死に体の無力な政権になるのではないかと思う。そして、オバマ大統領の後はおそらく共和党が政権を取るだろう。そうなれば、確実にイランか北朝鮮で戦争がある。北朝鮮というものの、実際には、その背後についている中国を牽制したものになる。ユダヤとしてはイスラエルを援護するためにも先にイランを叩きたいと考えているだろう。だが、さすがにイラクのように国際世論が簡単に納得するとは思えない。今の状況からは米国がイラン戦争に持ってゆくのは極めて難しいだろう。むしろ、北朝鮮との戦争の方がたやすく状況を作れると思う。昨今の哨戒艦沈没事件などはむしろ米国の画策ではないかと疑える。

12.イランで戦争が起こった場合
さて、日本はどうするか?まず、もし、イランで戦争が起こった場合。イランは日本への石油の供給国としてサウジアラビアと並んで大切な国だ。日本としてはイラン戦争後にイランの石油を手中に収められれば良いが、まずそれは無いだろう。イラン戦争で勝利してもイランの石油を手に入れるのは米国や英国だろう。そう考えれば、日本はイランと戦争しても何ら良いことはない。むしろ、イランで戦争が起こらないように尽力する方が良い。とはいえ、日本の国際政治の力は弱い。ほぼ米国に巻き込まれるのを座して待つのが関の山だろう。トルコあたりが仲介の利を得るかもしれない。だが、さすがに今度日本がイラン戦争に加担すれば、日本を標的としたテロが確実に起こるだろう。それは覚悟しなければならない。原発や地下鉄は重点的に警備しなければならないだろう。

13.北朝鮮で戦争が起こった場合
次に、北朝鮮で戦争がある場合だ。おそらく、韓国と北朝鮮が敵対する関係になって、戦争を起こすことになるだろう。戦争が起これば、比較的短時間に、1週間もかからずに北朝鮮は陥落すると思う。ただ、米国がどの程度派兵するかは分からない。韓国も同じ民族同士での殺し合いをどこまで望んでいるかも分からない。また、日本が派兵することを過去の侵略の歴史から、韓国をはじめ近隣アジア諸国は望まないだろう。ゆえに日本から派兵してもごく少数にとどまると思う。むしろ、日本は北朝鮮からのミサイル攻撃に備えることになると思う。一応、北朝鮮は核保有国だ。攻められれば、核兵器を使うと脅すのはまず間違いない。ただ、その矛先が朝鮮半島に向かうかは疑問だ。朝鮮半島に核攻撃をすれば、自分で自分の足元を掘り崩すに等しい。核汚染が自らにも降りかかるからだ。となれば、矛先は米軍基地のある沖縄や米軍の補給基地である日本に向けられることになる。核ミサイルではなく、単なるミサイルを撃ち込むことで脅すことがありえるだろう。実際、もし、核ミサイルを使用すれば、国際世論は一挙に北朝鮮を攻撃することにGOサインを出すだろうから、北朝鮮が核攻撃をすることは自殺行為になる。せいぜい脅すために、その実効性を示すという意味でミサイル攻撃がある。ただし、第三国によって、あたかも北朝鮮から核ミサイルが撃たれたようにして、日本に核攻撃を加える可能性はある。もし、日本の東京に核攻撃を加えることに成功すれば、アジアの経済・金融の中心都市は上海に確実にシフトするだろう。アジア経済の中心は確実に中国にシフトする。ただし、今のまま行けば、何も日本を攻撃しなくとも、自然にアジアの中心は上海に移るから、わざわざ攻撃しなくても良いかもしれない。ともかく、東京のような人口密集地に核攻撃したことがバレれば世界中からの非難はものすごいものとなるだろうから、まず、核攻撃することはありえない。むしろ、軍事の専門家は戦術核という、威力の小さな核を実戦で試したいのではないかと思う。北朝鮮の山岳地帯の軍事拠点や小さな要塞都市に対して戦術核を秘密裏に使うかもしれない。

14.北朝鮮に絡む中国とロシア
ただ、中国としては社会主義国の北朝鮮、まあ、名目上の社会主義国ではあるのだけれど、それを失うのをよしとはしないだろう。できるだけ、戦争は避けたいはずだ。また、たとえ、戦争になっても、韓国と統一されることをさけて、別の国家を樹立することを画策するかもしれない。だが、そうはいっても、韓国や北朝鮮の民意、国際世論からすれば、朝鮮半島は一国に統一されるのが筋になるだろう。中国としては戦後、北朝鮮に米軍基地が置かれるのを最も嫌うかもしれない。沖縄のほかにも中国を囲い込む米軍基地ができてしまうからだ。ただ、この点はロシアも嫌がるだろう。極東でのロシアの軍事的優位が弱められてしまうからだ。そういう意味ではロシアは中国と共闘するかもしれない。

15.北朝鮮戦争後の米国の次なるターゲットは中国!
北朝鮮が陥落して韓国と統一されれば、今度は米国の戦略の矛先としては中国になる。米国の戦略としては、中国を3つ以上に分割したいのだと思う。そもそも13億人が1国で統制するというのが無理がある。それゆえに巨大な国家が誕生してしまうのだ。例えば、中国を10国に分割すれば、日本が10個できるようなものだ。しかも、内陸部にゆくほど中国は貧しくなるから、日本が10個できるといっても、日本ほどの経済力があるわけではない。あくまで人口が日本と同じくらいというだけだ。だが、それでも1億人程度の人口なら、国民の不満を極力少なくする統治が可能ではないかと思う。どのような分割の仕方かは分からないが、米国はあまりにも巨大な中国を複数の国に解体することで、米国に対抗する巨大国家をこの世界から無くそうとするだろう。見方を変えれば、欧州のようなものだ。たとえば、欧州大陸がドイツ1国で統一されるようなもので、それは良くないだろう。そして、欧州の英国のような立場にあるのが、日本ということになる。日本はかつて満州事変と日中戦争によって中国を直接侵略することによって中国を退け、支配しようとした。だが、もはや侵略はありえない。だが、英国のように大陸が複数の拮抗した国に分かれているのを最善策とするように、日本も中国が複数の国に分かれているのをよしとする戦略が良いのではないかと思う。

16.日本は戦争を回避すると同時に戦う準備をせよ
以上のような戦略を踏まえた上で、次のアメリカ大統領が決まる頃には戦争の可能性が高まるから、その準備をした方が良いと思う。もちろん、平和に尽力するのが最も良いことであり、戦争が起これば、少なくとも死者が出るのだから、不幸になる人間が生まれるのは間違いない。そうならないように、平和外交に努めるのが最善ではありつつも、避けられない戦争をいかに戦うかの準備も怠るべきではない。準備せずに戦いに巻き込まれれば、不幸な犠牲を多大に出して最悪の事態を招く場合もあるだろう。そうならないように、戦うことになった場合の準備も今から準備しておくべきだと思う。

日本の国防について

1.「自分のことは自分で守る」という大原則
国防において、「自国のことは自国の軍隊で守る」というのが大原則だと思う。なぜなら、軍隊は自国の利益のために働くのであって、他国の利益のために働くのではないからだ。もし、他国の守るために軍隊が働いているのであれば、それは他国を守ることが自国の利益になるから働いているのであって、決して他国のためというのが理由ではない。逆に言えば、自国の利益になるなら、その軍隊は他国を攻撃することさえあるだろう。ゆえに、自国の防衛は自国の軍隊で行うのが大原則だと思う。

2.米軍基地が置かれた経緯
そういうわけで、日本の場合、日米同盟を結んで日本に米軍基地があるが、これは上記の原則に反する。そもそも日本の米軍基地は第二次世界大戦の敗戦国である日本を監視するために日本に置かれた。中ソに対する防共とするために日本が朝鮮半島のように南北に分断されなかったと言われている。したがって、日本の国益と米国の国益が一致するために米軍基地が置かれたというわけではない。米国の一方的な国益(世界戦略)のために日本に米軍基地が置かれたと言っていい。

3.抑止力としての米軍基地?
米軍基地を抑止力として見る見方がある。だが、それは米国の国益と日本の国益が一致している間だけという条件付きだ。下手をすれば、日本の国益に反しても米国側につかなければならなくなる。さらに、米国の国益に日本が反する行動を取った場合は米軍から攻撃を受ける可能性すら否定できない。米軍基地を抑止力というが、それは日本が攻撃される可能性を含んだ諸刃の剣だということを忘れてはならない。独立国は自分たちの自由意志を阻むような他国の軍隊を自国内に置くことは非常に問題だと思う。ゆえに、国防の大原則として、自国内には自国の軍隊しか置くべきでない。

4.日本の政党の国防方針
日本の各政党の国防方針は大きく2つあると思います。1つは自民党の日米同盟を基軸にした米軍基地容認派です。もう1つは共産党の憲法九条を基軸とした軍隊を持たない非戦派です。しかし、この2つ以外の最もオーソドックスな国防方針が本来はあってしかるべきだと思います。それは自国のことは自国の軍隊で守る自主独立派があって良いと思います。元々、どこの国の軍隊も専守防衛で自国のことを守れるだけの自国の軍隊を持てば良いと考えるのがオーソドックスな国防方針だと思います。他国に軍隊を派兵するというのは米国など限られていいます。現代では国連の要請による派兵はあるかもしれませんが、基本的には国の国防指針は他国を侵略してやろうなどという過剰な軍備ではなく、専守防衛に必要な分だけだと思います。よって、日本には、この3番目の最もオーソドックスな国防指針が欠けていると思います。

5.憲法九条と軍隊
もし、軍隊を持たないというのが方針ならば、まず、米軍基地を撤退させて、次に自衛隊を解散するのが手順でしょう。しかし、実際に、現実問題として、軍隊無しで良いでしょうか?領空侵犯などありますし、北朝鮮による拉致などもあります。現実には軍隊を持たないというのは難しいのではないでしょうか?そうなると、軍隊はやはり持つしかないと思います。そして、軍隊を持つならば、それを正しく使うことが求められます。なぜなら、軍隊はその国で最大の暴力機関であり、正しく使わなければ危険だからです。確かに憲法九条の理念は素晴らしいものかもしれませんが、現実に軍隊を持っているならば、九条が軍隊を正しく使うことの妨げになってはいけません。九条を杓子定規に捉えるあまり、軍隊を間違って使ってしまっては、反って九条の理念に反することになると思います。そのことをよく注意しなければならないと思います。日本は米国と同盟して他国に派兵してきました。憲法九条が論争の焦点になって、派兵することの意味、正義や国益についてはあまり議論されてこなかったのではないでしょうか。本来、最も議論すべきことをよく考えないといけないと思います。

6.米軍基地について
以上のように、「自国のことは自国の軍隊で守る」ということに従えば、米軍基地は日本から撤退させるべきです。確かに、米軍基地が日本の絶対的な味方であると仮定すれば、米軍基地の戦力が日本から無くなれば、日本全体の戦力は低下するでしょう。しかし、米軍基地が日本の絶対的な味方であるというのは仮定であって、必ずしもそうとは限りません。したがって、米軍基地が無くなれば、米軍基地から攻撃されるというリスクも無くなるわけです。そして、米軍基地が無くなって抑止力が低下しても、「自国のことは自国の軍隊で守る」ので良いのです。それが自然な国の姿だと思います。

7.まとめ
3つの国防指針
①米軍基地を置いて、日本軍と米軍で日本を守る。(→自民党)
②米軍基地も日本軍も廃して、絶対平和主義で日本を守る。
(→共産党など)
③米軍基地を廃して、日本軍だけで日本を守る。(→?)

自民党以外で政権を担いたい政党は③の「自国のことは自国の軍隊だけで守る」という国防指針をマニフェストとして提示すべきだと思います。最もオーソドックスな国防指針が日本の政党に存在しないのはおかしいと思います。

米軍基地を撤退させるのは日米安保の破棄が必要であり、日本の極めて大きな政策転換になります。そう簡単に撤退させるわけには行かないでしょうから、③を取る政党は米軍基地撤去の具体的なロードマップを提示してほしいと思います。


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2010年8月15日日曜日

セクサロイドの問題

とりあえず、ツイッターを元にした下書です。後日、修正するつもりです。

1.ヒト型ロボットの最も有効な可能性、それはセクサロイド!
日本の新産業の可能性についてだけど、日本のヒト型ロボット技術ってとても進んでいると思う。本当はロボットは別にヒト型でなくても良いんだけどね。ただ、例えば、原発事故が起こったとき、ヒトが放射能汚染で入れない場所で作業するのに、ヒト型ロボットは役に立つと思う。でも、惑星探査などで活躍するロボットは別にヒト型である必要はない。戦闘機などはヒトが乗らない方が高速で高い旋回率を出せるのではないだろうか?軍用ロボットの活躍が期待される。ヒト型ロボットで一番役に立つ可能性が高いのは、ズバリ、セクサロイドだと思う(笑)。

2.本物の人間以上に快楽をもたらすセクサロイド
人とまったく同じ寸分たがわぬヒト型ロボットを作り出すかもしれない。いや、場合によっては、ヒトでは不可能は動きをロボットなら可能にするかもしれない。つまり、ヒトとセックスするよりも、ロボットとセックスする方が気持ちが良くなるかもしれない。さらに受け応えも期待通りにプログラムできる。セクサロイドなら、夫婦喧嘩することなく、自分の望む通りの、欲望の沿うリアクションをするようにプログラムできる。う~む、今でさえ、現実の女性より、2次元が良いというオタクがいるくらいだから、精密なセクサロイドができたら、結婚する男性が減るかもしれない。人口を減らすには良いかも(笑)

3.セクサロイドの問題点
実はスピルバーグ監督の『A.I.』ですでにセクサロイドは描かれている。また、押井守の『イノセンス』では幼女タイプのセクサロイドも描かれている。東浩紀の他人に迷惑をかけなければ児童性愛も良いのであれば、幼女タイプのセクサロイドは許されることになるのではないのか?が、それで良いのか?例えば、児童性愛者が街で見かけた児童に欲情して、それと同じセクサロイドを作って、そのセクサロイドと自宅でセックスしているとしたら、それは許されるのだろか?いや、児童に限らず、例えば、有名女優と外見が同じセクサロイドを作ったとき、許されるのか?女優の場合は著作権を主張するかも(笑)でも、まあ、ロボット開発が進歩すれば、いずれ、精密なセクサロイドは登場すると思う。高額ならお金持ちのみが購入するだろうし、レンタルビデオ店でセクサロイドのレンタルをするかもしれない。風俗店からは職が奪われるとセクサロイドに対する反対運動が起こるかもしれない。倫理的に問題は多いが、実用に耐えうる精巧なセクサロイドを開発すれば、大きな新産業になるかもしれない。世界の風俗店がセクサロイドに置き換わるかもしれない。病気の感染の恐れもないし、売春ほどの倫理の問題もない。セクサロイドはおもちゃで遊んでいるのと同じ扱いになるかもしれないからだ。人と違って、セクサロイドなら24時間稼働可能だろう。セクサロイドが登場すれば、売春やレイプが減るかもしれない。産児制限の国では、人口減少にも貢献するかもしれない。まあ、セクサロイドを利用する男性の人権はともかく、女性の人権はセクサロイドによって守られると考えるかもしれない。

以上、セクサロイドについていろいろと思考実験してみました。

未来のライフスタイル

とりあえず、ツイッターを元にした下書です。後日、修正するつもりです。

1.2つのライフスタイル
私は文明には悪い点もあれば、良い点もあると思う。逆に、今はほとんど無くなってしまったが、文明の逆、野生の生き方、未開社会の生き方にも良い点もある。もちろん、悪い点もある。私が考えているのは、人間は文明も野生も、その両方を往復するように生きる生き方、ライフスタイルが良いのではないかと考えている。人生をデザインするとき、人生の時期によって、その2つを行ったり来たりする生活ができればいいんじゃないかと思う。

2.人類社会にとって真の問題は人口である
ただ、今はどんどん自然破壊が進んでいるので、そういうのは難しくなっている。詰まるところ、、人類の人口過多に問題があると思う。将来、世界の人口が百億に迫ると言われている。そんなに多くは無理だと思う。人類は人口をもっと縮小して地球上の文明圏を縮小すべきだと思う。土地を自然に還すべき。ただ、そのために少子化が必要だが、中国の産児制限はやはりヒューマニズムからいうとちょっと問題じゃないかと思う。中国政府としては苦肉の策だろうけど。やはり、自主的に人々が人口減に努めるべきだと思うが、それはなかなか難しいんだろうなあ・・・。いずれにしても、地球は周期的に氷河期を繰り返しており、今は氷河期の中休みである間氷期にあたる。再び氷河期が来れば、人口は激減するだろう。ただ、人類は減少しても絶滅することはないと思うけど。

3.里山というライフスタイル
それと日本は文明と野生の中間点にある。文明は中国、野生はアメリカ先住民。日本はその中間にあって独特の日本文明を築いた。天皇制なんて、世界の王権と比較すると、かなり変わった王権だ。あれは文明と野生の中間だから、あんな変わった王権になったと思う。携帯電話など日本のガラパゴス化が指摘されたりするけど、文明と野生の中間ということで、日本独特の中間的な文明を構築すること、そういう意味でのガラパゴス化だったら、面白いと思う。アーミッシュの人々みたいに文明の否定にはならないと思うけど、もう少し自然寄り野生寄りの文明を築けると思う。その中間的な文明の例として、里山があると思う。『未来少年コナン』のハイハーバーみたいなものだと思う。地下にはハイテク機器が隠されているかもしれないけど。

4.野生のライフスタイル
ただ、中間じゃなくて、完全な野生生活も私には魅力があると感じられる。平原インディアンみたいなティーピーでの狩猟生活に憧れる。最初の5年間は文明で生活して次の5年間は野生で生活する、みたいなのを繰り返すのが出来たらいいなあと思う。そういう文明と野生の往復ができたらいいと思う。もちろん、野生生活は野獣に襲われる危険があるかもしれないけど、それでも充実した生を得られるので良いと思う。文明社会での放浪者は人間の尊厳を踏みにじるけど、野生では気ままな暮らしができると思う。インドなどで底辺の階級が物乞いをしたり、虐げられたりすのって理不尽だと思う。でも、野生ならそういうのはない。それに狩猟採集生活は労働時間は文明社会よりも短い。1日4時間以下。羨ましい(笑)。それに狩猟採集生活は意外と楽しいと思う。狩猟なんてけっこう面白いと思う。まあ、こっちも殺られるリスクはあるけど。それに獲物に対する敬意も払うし。

5.人類社会の行方
まあ、文明社会はこれからもどんどん便利な機器を生み出してゆくとは思う。とりあえず、エネルギー開発と、生存圏の拡張で宇宙への進出が期待される。けど、生活の質自体はこれ以上の進歩はあまりないんじゃないだろうか。(不老不死になるのは、たぶん、不可能だと思う。)そういう意味では、文明と野生の往復生活って良いんじゃないかと思うのだが・・・。文明社会が築いてきた文化って、果たしてどれだけ価値のあるものかは疑問に思う。文明も野生もどちらも等価かもしれない。むしろ、野生生活は文明生活よりは持続可能という点では人間にとって普遍的な生き方だと思う。今までの文明は周囲の自然環境を滅ぼして、ついには文明自体も滅んでいる。今は国際分業によって、世界中から物資を供給している。でも、過去の文明が地域だったのが、今は世界規模に広がっただけで、世界規模で地球環境を滅ぼしたとき、文明も滅ぶことになるのではないだろうか。

2010年6月13日日曜日

世界の大学学費

世界の大学学費について調べてみました。日本、米国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランドです。ただし、あくまでネットで調べたものであり、あくまで目安です。文系と理系ではやはり違ってきますし、為替の変動によってもしょっちゅう変わるでしょう。ただ、やはり、大学の学費はどこも高額ですね。米国では貧しい人は兵役に行くことによって大学に入りますが、なるほど、そうでもしなければ、なかなか学費は賄えないのだと思います。確か、日本でも映画を見るよりも1回あたりの授業料の方が高かったと思います。当たり前でしょうけど、授業をサボってアルバイトするよりも授業料の方が高いです。戦後の日本で最も上昇した物価の中に大学の授業料が上げられていたことが何年か前にあったと思いますし。ただ、世界的に大学のレジャーランド化は進んでいるとは言いますが、それでも海外の大学は勉学が大変なのだろうと思います。ちなみに非英語圏ではありますが、ドイツは確か大学の学費は無料だったと思います。まあ、高い学費に見合った教育を大学が行えているかという問題もありますが。ただ、今後は大学は主に理系もしくは理系に準じる勉強をするところになるでしょう。文学部などの廃止はその流れでしょう。大学を卒業すれば、それなりに社会で実際に役立つ技術を身につけられるようになる、ならなければならないと思います。もちろん、役立たない学問はダメだと言っているわけではありません。ただ、そういう学問は、ごく限られた一部の大学と大学ではなしに私塾的なところに場所を移すと思います。大学は単に卒業したという飾りではなく、実用的な技術を身につける場になると思います。そういう意味で、大学まで行って勉強するのは理系的になると思います。哲学などの知的好奇心を満足させるのは私塾的なものになるのではないでしょうか。また、技術の進歩が早い分野では社会人の受け入れが多くなるかもしれませんね。今までの単調な学習プロセスとは違った多様な学習プロセスになるのではないでしょうか。

アレハンドロ・アメナーバル監督『アレクサンドリア』(原題『AGORA』)

 









 
 
1.はじめに
たまには映画の案内でもしようということで、映画を紹介します。といっても、まだ見たわけではないのですが、面白そうだなあという期待を込めての紹介です。それは私の好きな英国人女優レイチェル・ワイズが主演している歴史映画『AGORA』です。AGORA(アゴラ)といっても池田信夫氏のアゴラではありません。まあ、意味はどちらもアゴラ(都市国家の広場、議論の場)から持ってきたのでしょうけどね。

以下、ネタばれを含みます。

『AGORA』公式サイトhttp://www.agorathemovie.com/



2.ヒュパティアを襲った悲劇
この映画でレイチェル・ワイズは古代エジプトの哲学者で数学者の女性ヒュパティアを演じています。古代エジプトといってもプトレマイオス朝以来、エジプトはヨーロッパの文明圏でクレオパトラもアフリカ系ではなく基本的にはヨーロッパ系であって、おそらくヒュパティアもヨーロッパ系じゃないかと思います。ヨーロッパ系といっても、要はギリシャ文明ってことですが。で、ヒュパティアですが、ローマの支配下にあった古代エジプトがキリスト教が勢力を増すにつれて非キリスト教系の人たちを圧迫してゆくのですが、ヒュパティアも非キリスト教系のひとりであり、ついに暴徒と化したキリスト教徒がヒュパティアをぎゃく殺してしまいます。私の記憶では、確か、ある日、ヒュパティアが街中を歩いているとキリスト教徒が嫌がらせに石を投げてきて、それを避けるためにヒュパティアが近くの教会の中に避難するのですが、実はそこにキリスト教徒たちが待ち構えていて一斉にヒュパティに飛びかかってナマスに切り刻んで殺したそうです。その後、キリスト教徒たちはバラバラになったヒュパティアの肉片を剣や槍に突き立てて、「それ見たことか!キリスト教に従わぬ者はこうなるんだぞ!」と街中を練り歩いたそうです。いや、かなり恐ろしい話ですね。漫画『デビルマン』で殺された牧村美樹が暴徒と化した人間に殺された挙句、バラバラの死体を槍などに突き刺して練り歩いたのを実際にやったような感じです。でも、まあ、ここまで残酷かはともかく、歴史の中では異教徒をぎゃく殺するというのはよくあったと思います。なお、ウィキペディアではカキの貝殻で肉をそぎ落として殺したとあります。いずれにしてもなんとも残酷な話です。そんなわけでキリスト教徒が悪者扱いなので上映に際してはちょっとだけ物議を醸したのかもしれません。

3.一神教の未来
ところで、キリスト教ですが、どうでしょう、一昔前と比べれば、随分、その勢力は落ちたと思います。おおむね、自然な勢力の低下ですが、それだけではなしに、欧州ではこの20年くらいで宗教から脱却しようとしたんじゃないかと思います。このまま行けば、キリスト教は消滅するところまでは行かないまでも、かなり縮小するんじゃないでしょうか。ただ、そのかわりと言うか、中東からの移民など貧困層にイスラム教が普及しているんじゃないかと思います。一神教という宗教形態から見れば、イスラム教の方が遥かに分かりやすいような気もします。キリスト教はどうもヨーロッパの土着信仰と混合して、一神教としてはちょっと分かりにくくなったんじゃないかと思います。ヨーロッパにおけるキリスト教の馴染み方がどうも一神教というよりは土着信仰的な気がします。ともかく、イスラム教の方がこれからのグローバルな宗教としては強いと思います。

4.ヒュパティアの時代
さて、ヒュパティアですが、とても理知的な女性だったようですし、実際にとても美人だったそうです。舞台になったアレクサンドリアはとても興味深い都市で、当時の世界最高の学術研究所ムセイオンがあったり、アレクサンドリア図書館があったりとギリシャの知の最後の砦といったところだと思います。ただ、ヒュパティアの虐殺をきっかけに迫害を恐れた学者たちはアレクサンドリアを捨てて逃げ出してしまうようです。また、ギリシャ哲学の系譜で言えば、アレクサンドリアはプロティノスを生んだ場所と言えると思います。プロティノスはプラトンの正当な継承者じゃないでしょうか。アリストテレスは例のラファエロが描いたアテネの学堂のようにプラトンとは対照的な哲学だったと思います。プラトンが天を指さしているのに対して、アリストテレスは地を指さしています。まあ、アリストテレスの哲学は形式論理的というか、近代科学的だったのではないでしょうか。それに対してプラトンはイデアなどちょっと神秘的な色合いのある哲学でした。その神秘的な色合いのプラトン哲学を受け継いだのがプロティノスだと思います。で、ヒュパティアの哲学はどういったものだったのかは分かりませんが、ヒュパティアはプラトン、アリストテレス、プロティノスの哲学について言及したり書簡を交わしたりしたそうなので、ギリシャ哲学の系譜上にあるのだろうと思います。また、彼女は実用的な天文学や数学もやっており、かなり理知的な女性だったようです。そんな聡明な女性が虐殺されるのはなんとも痛ましい話です。ちょっと記憶が定かではありませんが、読んだ歴史書の解説では、ヒュパティアがキリスト教に簡単に改宗するのを由としなかったためであり、その一方で、キリスト教徒がキリスト教の普及にやっきになっていたために改宗しないヒュパティアを目の敵にしたというのではないかという推測だったと思います。ウィキでもヒュパティアは主知主義的な傾向で理知的であったために、「不条理ゆえに我信ず」的なキリスト教徒にはヒュパティアの言動は教義に反するなど頭に来たのかもしれません。まあ、映画では、たぶん、また違った描かれ方をしていると思いますし、私の記憶違いもあるかもしれませんので、正確なところは各自で文献で調べて下さい(笑)。ところで、アレクサンドリアを逃れた当時の学者たちは東方に流れたようで、後にこれによってもイスラム教の哲学化に大きく寄与したのだと思います。さらにそれがキリスト教に逆輸入されてキリスト教神学になります。今では近代哲学以前の哲学、すなわち、神学はあまり顧みられないでしょうけど、そこにはなかなか興味深い思惟が数多く残されていると思います。

5.レイチェル・ワイズについて
さて、話は変わりますが、レイチェル・ワイズについて少しだけ。レイチェル・ワイズといえば、『ハムナプトラ』がメジャーな作品かもしれません。私的に良かった作品としては、ジュード・ロウと共演した『スターリングラード』や米国の銃社会を批判した法廷劇『ニューオリンズ・トライアル』や『ナイロビの蜂』があります。『ファウンテン』も、内容は分かりにくかったですが、なかなか綺麗でした。私的なお奨めは、ちょっと微妙ですが、『スターリングラード』でしょうか。どれも面白い作品なのですが、彼女が主役として活躍して、飛び抜けて面白い作品というのが実はあまりないのではないかと思います。でも、美人だからスクリーンに出ているだけでいいです(笑)。(ところで、米国映画は『ニューオリンズ・トライアル』など銃の所持を批判したり、医療制度を批判したりする映画をたくさん作るのですが、いざ、それを法制化しようとしても、なかなかうまく実現しませんでした。今回、オバマ大統領になって、まだまだ他の先進国と比べると不十分とはいえ、医療制度がやっと改革されました。)

6.『AGORA』日本公開予定?!
さて、たくさん書きかましたが、『AGORA』日本の公開予定は、・・・あれ?
未定のようです。

2010年6月6日日曜日

知の学習形態について

今後の知の学習形態について、ちょっと考えてみようと思います。といっても、実は「こうなるんだ」という確定的な考えではなくて、「たぶん、こんな感じだけど、また違ってくるかもしれない」的な緩い想像の段階です。ちなみに、ここでいう知は、まあ、哲学的思想的な人文知です。

1.知の遍歴の寓話
たとえ話です。まず、知に興味を持った若者を仮に読者Pとします。読者Pはまず自分が興味を持った哲学に近い哲学を専門とするA先生を訪ねます。読者PはA先生の講義(講話)に2年間参加してA先生の哲学を学びます。読者PはA先生から多くを学んでA先生に感謝しているのですが、それだけでは満足できずに、今度はA先生の所で学んでいるうちに興味を持ったB先生の所に行って学びます。読者Pは今度はB先生について5年間学びます。ところで、読者PはA先生やB先生のところで学習しながらも、自分では仕事をしながら、その合間に学習していました。さて、読者Pは満足できるほど学んで学習意欲を満足したのとそろそろ仕事が忙しくなったのを理由にこれ以上の知の学習を中断します。それから10年ほどは読者Pは仕事に邁進して生活基盤を築きます。10年経った頃、読者Pは再び学習意欲に狩られます。実生活の中での経験を通して、今まで学んだ知だけでは不十分だと感じたからです。また、忙しかった仕事も一段落したので、再び学び始めることにします。読者Pは仕事に邁進した10年の間も本格的な学習はできなかったものの、A先生やB先生とは親交は結んでいたので、すぐに再び彼らのところで学習し始めます。そして、すぐにC先生の存在を知って、今度はC先生のところで学び始めます。読者PはC先生のところで3年間学び、大いに学習意欲を満たされたのでした。

そんなとき、読者Pは自分よりも若いD先生に出会って、自己紹介でこれまでの学習遍歴を話し合いました。読者PはA先生で2年、B先生で5年、C先生で3年の間、それぞれ学んだことを言いました。一方、D先生はI先生で5年、J先生で3年、K先生で3年学んだと言いました。J先生とK先生はとても高名で知られる先生でした。D先生はずっと学び続けてきた人で、先生方からも高く評価されて、若くしてそのまま自分も先生になったのでした。読者PもD先生も学んできた先生から互いの知の内容がおおよそ検討がついて、すぐに自分たちが近しい知の学習者であることが分かり、すぐに打ち解けました。そして、二人はとても仲の良い生涯の親友になりました。

2.大学の知と市井の知の違い
大学の知は専門細分化して、その狭い範囲の専門分野の中では非常に精緻に知が極められています。一方、市井の知は確かに専門分野はありますが、大学の知と比較すれば、その精緻さでは劣るかもしれません。なぜなら、大学ではその専門分野を仕事として、そればかり集中して研究できるからです。一方、市井の知はそういうわけにはいきませんから、どうしても精緻さでは劣ってしまいます。しかし、その一方で、大学の知は専門細分化してしまったために、全体的な知に対してはリアリティを欠如してしまっているかもしれません。自分の専門分野だけで全体を把握しようとするからです。自分の専門分野だけで世界を説明しようとしてもちょっと無理があるからです。あるいは、自分の専門分野以外の専門分野には、また、別の専門家がいて、そこでは自分の専門分野だけでは通用しないのが分かっているからです。そのため、専門分野の外へ出ようとしなくなります。タコツボ化の弊害のひとつです。それに対して市井の知はトータリティを重視します。もちろん、専門分野も重視しますが、それだけではなくて、全体として役立てられる知であるように考えます。市井の知において、誰に学んだかが重要になります。専門分野は大切ですが、専門もその人の解釈によって様々な見解が生まれます。ですが、誰に学んだかが分かれば、その固有性が明確になり、解釈の方向性やその人の知の全体性がつかめるからです。先程のたとえ話で、誰に学んだかの知の系譜が重要なのはこのためです。それから、先生というのは知の技術者であると同時に人格者でなくてはならないと思います。その先生がどのような知の技術を持っているかは、その人に就いて学ばなければ分からないかもしれません。しかし、先生が人格者かどうかは、単に人付き合いの中から察することができます。人にものを教えるという先生というのは技術も大切ですが、それ以外に人格も大切だと思います。極端なことを言えば、技術は大したものでなくても、人格が良ければ、その先生に学んで良かったと考えられるかもしれませんから。ともかく、大学の知はアカデミズムというツリー状に階層化された知の体系の中に専門分野というタコツボの中に位置づけられてしまいますが、市井の知はリゾーム状のネットワーク的な知の体系の中に先生というノードに位置づけられると思います。学習者はそのネットワークを知を求めて点々と移動してゆくのではないでしょうか。

3.何をもって満足するのか?
実はこの知のネットワーク構造は武術の世界に似ているところがあります。武術も各流派に分かれて、先生が道場主になっており、先生も若い頃に別の先生に学んで先生になったりしています。ところで、武術の先生は何をもって先生として認められるのかというと武勇伝にその根拠を求めたりします。まあ、他流試合で勝ったとかなんとかです。強いことと試合に勝つことは似ていますが、微妙に違いもあります。宮本武蔵の武者修行は強くなるための修行というよりは、自分が一番強んいんだということを示すためにあちこちで試合する旅になっています。強くなるための修行と試合に勝って強いことを示すことは違いますよね。知の探求も人から認められることや自分が先生になることが目的ではないと思います。目に見えないけれど自分の知的好奇心を満足させる知を得ることが知の探求の目的のひとつではないでしょうか。何をもって自分を満足させるかは、他人ではなく、あくまで自分自身の中にあると思います。

4.人文知の行方
大学から人文知が限りなく減らされています。でも、それは仕方ないことです。大学には税金が使われています。私学も補助金という形で税金がいくらかは使われています。社会にとって役立つ人材を養成するためだから大学に税金が使われるのです。人文知は直接的には社会に役立ちません。人文知は社会に直接役立つ専門知識ではないからです。ですので、税金に余裕があればそんな人文知に税金を使っても良いかもしれませんが、余裕がないなら、やはり、社会に有用な専門知識の学習のために税金は使うべきです。それに人文知の学習インフラはこれまでの大学での知の蓄積とネットの発達によって、どんどん手に入れやすくなっています。ウィキペディアやグーグルブックスやウィキブックスが充実すれば、著作権の切れた古典的なテキストは無料でネットで読むことができるようになります。最低限、自己学習できる環境は整います。まあ、確かに直接、先生に就いて学習するのが良いのですが、大学という枠でなくても、それは市井の知でやれなくはないと思います。なので、知は社会に直接役立たなくても、純粋に知的好奇心を満たすためだけでも良いと思います。もちろん、可能であればなにか社会に直接役立つ人文知であっても構いませんが、社会に直接役立つことを無理に目指す必要はないと思います。人間のいくつかの欲求の中のひとつである知的好奇心を満たすためだけでも良いと思います。大学には大した学習意欲もなくて単に資格を取るためだけ来る人たちもいます。ですが、市井の知には、真に学びたい人たちだけが来れば良いと思います。こう書くと堅苦しく聞こえるかもしれませんが、実際は学ぶ意欲があれば、その内実は楽しい知になると思います。大学のように学習意欲のない者を客寄せするために無理にレジャーランドにする必要はないのです。市井の知は金儲けが一番の目的ではなく、真に知を求める者たちだけが集えば良いと思います。もし、その知に満足しなければ、黙ってその先生の元を去り、別の先生のところへ学びに行けば良いのですし、また、いつまでもその先生のところに居てもいいし、ある程度、その先生で満足すれば去って行ってもいいと思います。あくまで自己の知の完成が第一の目的であって、お金や権威が目的ではないと思います。

5.その他いろいろ
知の学習において、書物による学習も大事ですが、フェイストゥフェイスの学習も大事だと思います。学校教育では、悪く言えば、権威によって上位の先生から下位の生徒へ押しつけるところがあります。例えば、教科書の読書体験と通常の個人的な読書体験の違いに表れています。教科書は絶対正しい的な押し付けがありますが、通常の読書では著者と読者の対等な対話で読者は著者に対して真理を探求する者の心として懐疑を抱くことができます。個人的な読書体験ではそういう著者と読者の対等関係を築けます。ところが、学校教育では懐疑を差し挟む余地がなく、上から下への押し付けが多くなってしまうと思います。さて、知の学習はそういった学校教育と比べると実はそれほど輪郭が明確ではありません。学校教育では先程書いたように上から下への押し付けである一方で、これは正しいとこれは間違っているなどの輪郭が明確です。ですが、知は実はそう単純には、あるいは、そう荒くは輪郭を明確にできないところがあります。そうなると、学校教育のようなスタイルでは真に知の学習を伝達することが難しくなります。そういう輪郭の明確でない微妙な知の伝達にはどうしても生徒や先生の様子やニュアンスをうかがえるフェイストゥフェイスが重要になってくると思います。なので、市井の知のフェイストゥフェイスで学べる学びの場が大切になってくると思います。それと先生はやはりある程度の期間教えられる専門分野が必要だと思います。それが範囲が広く深いほど優れた先生ということになるのかもしれません。まあ、あくまで、ひとつの尺度に過ぎませんが。ところで、最近はYouTubeで映像を見られるので講義を見ることもできますし、驚いたのはインド人がスカイプのTV電話を使ってインドに居ながら、アメリカの子供の家庭教師をしているのもありました。まあ、アメリカ人の子供の礼儀作法がなっていないのを嘆いていましたが(笑)。他にもネットに教材を用意するなど、ともかく、ネットを使った教育がどんどん浸透しているようです。中途半端になってしまいましたが、ちょっと今回はいったんここで筆を置きます。

2010年6月5日土曜日

管新首相誕生について

1.民主党代表選について
菅直人が新首相に決まった。国会での首班指名の前の民主党代表選挙で、菅が291票に対して樽床が129票と、対抗馬の樽床氏が予想外の善戦だった。どうも樽床の票は小沢グループの票らしい。どうやら小沢はまだ政界を引退しないらしい。だが、彼には後継者はいるのだろうか?小沢の政治的な目的も二大政党が達成されたのでほぼ果たされたのではないだろうか?あるいは、さらなる目標として日本の国防について変えたいのだろうか?ともかく、民主党内が反小沢と小沢グループで分裂しているかのようなマスコミの誘導があるが、政権与党になればある程度派閥に分かれるのは自然な流れだろう。

2.民主主義として必要な手続き
ただ、代表選挙は茶番であるのを嘲笑する向きもあるが、民主主義の手続きとして必要なものだ私はと思う。ただ、意外な無名の対抗馬・樽床の善戦には別の意味があったと思う。とはいえ、小沢も二大政党制を最優先するだろうから、自由党の頃のように党を割ることはないと思う。だが、少数政党が増えているのでつけ入られる隙がないとは言い切れないとは思う。

3.公明党の不気味
それにしても、首班指名で公明党の議席数が多いのには改めて驚いた。大手新聞社の広告にも出ているし、その社会的影響力の大きさにやや引いてしまう。幸福実現党もその巨大さにある意味で焦りがあるのかもしれない。いずれにしても、宗教が政治に口出しするのは好ましくない。もう今の時代は政治は信仰ではなく理性で考えるべきだ。宗教を否定するつもりはないが、宗教は団体ではなく、個人の救済であるべきではないだろうか。

4.菅直人の弱点
さて、菅直人といえば、「未納三兄弟」が思い出される(笑)。その後の四国遍路での坊主頭は意外な一面を見た思いがある。政治家としてはちょっと変わった発想だと思う。60年代的な何かヒッピー的なものを漂わせているのかもしれない。ともかく、例の「未納三兄弟」の発言にあったように失言のリスクがこの人にはある。ただ、それは管自身も分かっているようで、記者会見での発言はずいぶん慎重になっていた。また、イラ管と言われるように短気な一面もあって、短気を起こさないようにも注意していた。今までのような失敗は許されない。総理となったからには発言は慎重にならねばならない。まあ、当然のことだろう。

5.民主党のリスク
ただ、民主党にとって最も注意しなければならないのは、管政権が短期で終わってしまうことだ。もし、短命政権で終わってしまうと民主党の政権担当能力が国民に問われることになる。そのときは民主党に代わって自民党による政権交代になる可能性がある。逆にいうと、管政権時代に組閣を二度はするつもりで長期に政権運営しなければ国民の信用は得られないだろう。民主党としても組閣が二回あれば、閣僚に抜擢されるチャンスも高くなるわけだから、挙党一致で協力しやすくなるのではないだろうか。

6.管新政権の課題
そして、管政権の最大課題は何よりも経済政策だろう。国家予算の縮小と増税。それをソフトランディングするにはインフレにすることだろう。小泉政権の時の竹中平蔵のように、誰を経済政策の担当にするかだが・・・。また、増税や予算削減は国民の不満が高まる。その反発を外らすために敵が必要になる。経団連などの大企業や霞ヶ関の官僚が”敵”として標的にされるかもしれない。管には薬害エイズで見せた官僚を切り崩した厚生大臣時代の実績がある。だが、それでも日本の財政危機を乗り越えるのは至難の技だろう。国民の理解はなかなか得られないだろう。だが、税収の落ち込みは尋常ではない。今までのような規模の国家予算を続けるのはいくらなんでも無理がある。そんなことを続ければ、ギリシャの財政危機以上の、日本の経済破綻が待っているだろう。もはや日本は経済大国ではない。日本は変わらなければならない。

7.民主党内の不安要素
また、民主党内にも不安はある。小沢グループの動向だ。ただ、先にも触れたが二大政党を崩すことはないだろう。ただ、党内での権力争いは新人の育成にもなるだろう。そうなれば、かつての自民党のような層の厚みが民主党にも出てくることだろう。老兵もそう簡単に新人に席を譲ってやることもあるまい。

8.社民党の暗い将来
ところで、社民党は普天間を強調していた。だが、選挙対策だろうが、野党では意味がない。普天間が踏み絵になっては社民党の将来は暗い。社民党は沖縄県民とよく話し合って連立に参加する道を開くべきだと思う。共産党のような道を歩んでも、票は共産党に流れるし、党員も離れてゆくだろう。

9.野党の反応
それにしても、管新総理を批判する野党の舌鋒がぬるい。彼らは自分たちの主張がないのだろうか?それとも、最初ということで批判を控えているのだろうか?古い政治家は習慣的に批判がましく言っている者も中にはいたが、批判の内容が貧弱だった。そう考えれば、鳩山退陣のタイミングは良かったのかもしれない。「なぜ、この時期に辞任するのか?」と鳩山辞任の理由がいまひとつ分からなかったが、結果論だが、これで良かったのかもしれないとも思える。だが、やはり、総理大臣がこの程度の批判に耐えられず、辞任するのは政治の脆弱さとして問題だと思う。確かに普天間問題は大きな問題で決して無視できない問題ではあるが、だからといって、県外移設できなかった責任を辞任するまで責める意識は国民には無かったと思う。「移設先をどうするか、米軍基地をどうするか?」は国民にとっても、どう対処すれば良いか名案は無かったのだから。だから、やはり、鳩山辞任は鳩山個人の資質によるところが大きく、この時期の辞任は責任感の薄さや粘りの弱さであって、政治家の資質として脆弱に過ぎると思う。

10.沖縄の今後
きっこのブログを読んだ。沖縄への思いと社民党への期待が書かれていた。気持ちは分からなくはないが、罷免されても政権離脱までする必要はなかったのではないか?社民党の課題は沖縄だけではないだろう。閣僚として罷免されても政権に関わる道を取るのが、ひいては沖縄のためにもなったのではないか?米軍基地の問題は米国を相手に戦わなければならない。そのためには日米安保を見直さねばならない。それは簡単には行かない。米国との長期の交渉が必要だ。米国にとって沖縄はアジアへの戦略拠点であって、日本の安全保障などではない。当たり前だが、日本は自分で自分を守る専守防衛を当然とすべきだ。管が記者会見で沖縄の米軍基地について、「ある意味で腰を据えて取り組まねばならない」というのは、日米安保の見直し、もしくは、破棄へ向けての長期的な取り組みを考えているのではないかと思う。日本の財政難で費用負担をできないので基地を日本に返せと言えばいい(笑)。嫌なら費用負担しろと。日本を囲む軍事的情勢は決して良いものではない。中国は世界第二位の軍事費を持っているし、ロシアはかつての超大国で軍事大国だ。また、北朝鮮という乱暴で何をするか分からない国がすぐ近くにある。拉致など普通なら考えられないことで、狂気の沙汰だ。が、だからといって米国に頼るもの違うだろう。自分の国は自分で守ると考えるべきではないだろうか。誰かに頼るなどというのは何か違うのではないかと思う。それに、そもそも日本は島国で海上での小競り合いはあっても、陸続きでの陸上での国境争いはないのだから、他国と比べれば安全な方だろう。同じ島国のアイスランドも軍隊を持っていない。沖縄に対して時間はかかるけれども、いつかは米軍基地を無くすという道筋を見せるべきだと思う。永久に沖縄に基地を置き続けるというのではあまりにも沖縄の負担が大き過ぎる。そのためにも交渉のテーブルに米国をつけるべきだと思う。

11.まとめ
いずれにしろ、管新政権の課題は日本経済だと思う。財政再建と経済回復だ。だが、これは険しい道であり、日本自身が産業構造の転換など大きく変わらなければならないと思う。

12.言論と表現の自由
イルカ漁を批判した映画「ザ・コーヴ」の上映を抗議のために中止したらしい。この対応は間違っている。表現の自由や言論の自由を守るために戦うべきだと思う。批判はしても上映そのものを禁止にするのはおかしい。上映を中止しろという団体もそうだし、迷惑がかかるからと自主的に中止する映画館も間違っている。以前、日教組の集会所のホテルを右翼団体が街宣車によって抗議活動することによってホテル側から集会を中止したことがある。このホテルの対応も間違っている。言論の自由は守られるべきだ。それを妨害する者に対しては断固として戦うべきだと思う。暴力によって言論の自由が脅かされてはならない。戦うという選択肢があることを忘れてはならない。そして、自分たちの自由が脅かされるときは戦わなければならない。戦いを回避するために自由を奪われても良いというのは間違っている。言論の自由を脅かされまいとする戦いは正義が自分たちにあるのだから、戦うのが恐くとも戦うべきだ。それを見ている社会は社会正義の側に当然味方するものだ。暴力に屈して正義を曲げて悪をはびこらせてはならない。

現代思想の今後について

1.構造主義から分析哲学まで
現代思想の今後について少し考えてみようと思います。現代思想といっても、既に現代ではなく、過去のものです。フランスで展開した構造主義も、また、その後に展開を期待されたポスト構造主義も今はもう過去のものになってしまった感があります。これら一連の構造主義を大陸哲学とすると、英米系の分析哲学がその後を引き継いだと考えるのかもしれません。ですが、確かにそれら分析哲学は停滞した現代思想の中で目立った活躍ではありますが、かつての構造主義に比べれば、それほど大きな展開になっていないと私には感じられます。大きな展開になっていないからといって、それらを軽視してよいわけでもありませんし、実際、考える材料を提供してくれているとは思います。ですが、極端なことを言えば、全体を俯瞰する構造主義と比べれば、分析哲学は個別の行動原理を模索するもので、構造主義とは違った思考形態であり、構造主義が哲学であるのに対して、分析哲学は実践(行動やプラグマティズム)ではないかと思います。(これはレヴィ=ストロースの構造主義とサルトルの実存主義の対立と、ある意味、似ているのではないかと思えます。)
 
2.近代哲学の敗北
ここで、もっと遡って哲学についても振り返ってみます。極端に言えば、中世の西洋では哲学でなく神学だったと思います。それが近代になって「神が死んだ」(ニーチェ)ことによって神が出てこない近代哲学になりますが、「神は死んだ。だが、困った」(サルトル)と言われたように神抜きの哲学をうまくは構築できませんでした。なぜなら、乱暴に言えば、ハイデガーの『存在と時間』が存在論を批判したものの、それに代わる存在論をハイデガーは構築できませんでしたから。まあ、サルトルがユニークな実存主義を掲げたのですが、哲学的にはレヴィ=ストロースの構造主義にあっけなく退けられてしまいました。(ただし、だからといって実存主義に価値や意味がないというわけではありません。)結局、デリダが「哲学はすでに死んでいる」と言ったように哲学は存在(つまり、あらゆるもの全て)の哲学的な構築に失敗しています。(これは無矛盾の形式化に失敗した数学に似ています。)そういうわけで、実は私たちは自分でもうまく説明できないよく分からない世界に存在しているのです。この謎については宇宙や生命の物理的な解明を待つしかないと思いますが、それでもすべてを完全に解明するのはちょっと難しいのではないでしょうか。(SF作家のイーガンはそのことを強く意識していると思います。)

3.現代思想の可能性
さて、そういうわけで存在の哲学的な探求は困難だと考えられます。大きな枠組としては哲学は既に終わっている感があります。もちろん、様々な存在の可能性を考えるのは楽しく、それらは今後も続けられると思いますが、しかし、それはあくまで可能性にとどまるでしょう。あるいは、哲学の敗北を覆す天才が現れる可能性もあるかもしれませんが、さて、どうでしょう。ともかく、繰り返しますが、哲学は大枠としては終わっています。では、現代思想という小さな枠組みの中ではその可能性はどうでしょうか?現代思想を哲学的な分析のツールと見立てたとき、その展開の可能性はすべて出尽くしているでしょうか?私の個人的な見方ですが、構造を俯瞰透視する構造主義と記号の生成消滅のダイナミズムを捉えようとする記号論(特に記号の生成過程を分析しようと努めたクリステヴァの記号論)が大きな分析ツールとしてはあったと思います。人によってはクリステヴァはソーカル事件で否定されてしまった感がありますが、まあ、安易に数学を導入したクリステヴァにも問題はあったかもしれませんが、彼女の業績をすべて否定してしまうのは間違っていると思います。乱暴に言えば、構造主義をマクロな視点とすれば、彼女の記号論はミクロな視点の導入であり、2つは相補的な関係にあったと思います。(彼女は後に根拠を求めてラカンの精神分析に向かっていきます。)というわけで、現代思想は構造主義と記号論という2つの大きな分析ツールがあると見立てることができると思います。

4.可能性への個人的な見解
それでは現代思想の分析ツールとしては、この2つがすべてでしょうか?いえ、実は私はもう1つ可能性があるのではないかと思っています。それは何かと言うと、連載コラム『ヴィトカツィの時代』で示唆した形態学です。私の考える形態学は、構造主義と記号論でいえば、どちらかというとスケール的にはミクロの世界を扱う記号論に近いものです。ただし、クリステヴァが精神分析学へ向かったのとは反対の方向に向かうものだと考えています。言い換えると、形態学はフロイトに向かうのではなくユングに向かうものだと考えています。形態学がどのようなものかは連載コラムの中で詳述しようと思います。ただ少しだけ触れると、形態学はパターンを生む可能性があります。ここでいうパターンとはコンピュータのプログラミングでいうところのデザインパターンを意味しています。デザインパターンとは乱暴に言えば動的組織のプログラミングによる構造化です。昨今ではアーキテクチャと言えるかもしれません。ともかく、まあ、そういった様々あるパターンのカタログを作成する方向に向かうかもしれません。ただ、それはすでにデザインパターンとして具現化されているし、哲学的には構造分析と大した違いはないと言えるかもしれません。形態学では、そういったパターンを抽出するのではなく、精神の抽象レベルへのサイコダイビングみたいな探求になるのではないかと思っています。

5.哲学の個別化
さて、私の個人的な見解の正否はともかく、言語化可能な哲学の展開としては一般的に理解できるレベルでは出尽くしていると思います。一般的に理解できるレベルを超えるとなると、それは個別的な理解に進まざるを得ないと思います。つまり、それは師から弟子への言葉を超えた以心伝心で伝わるレベルということです。哲学の一般的な理解は、まあ期待されたものかどうかは別として、ある程度達成されたのですが、それを一歩踏み越えて深く理解しようとなると、それはもう言葉を超えたレベルでの伝承的な理解になると思います。まあ、ずいぶん、乱暴な話ではあるのですが、実は歴史的にはそういうのは過去にもありました。中世哲学の頃、イスラーム世界では学者とされる師から弟子へとその哲学が継承されたというのがあります。現代哲学も、ただし中世哲学とは違って神を除いた哲学的展開になるとは思いますが、同じような師資相承の形態を取るのではないかと思います。

6.個別の思想展開とネットワーク形成による環境整備
さて、以上を整理すると、哲学や現代思想のアカデミックな展開は終わっており、現代思想から新たに大きな潮流が出てくることはないと思います。今後はそれぞれの哲学者が自分たちの哲学を個別に個人的に展開してゆくしかないと思います。付け加えると、大学は狭い意味で社会に役立つ有用な技術を養成する機関になるので、哲学の居場所は大学では限りなく少なくなるでしょう。哲学は大学に代わって哲学を求める人たちのために市井(市場)に活躍の場を移すと思います。市場での哲学の展開は様々な方法が模索されると思います。東浩紀のやり方もその1つでしょう。(哲学とはちょっと毛色が違うが小谷野敦も同様だと思います。)ネオアカはネオアカで独自の展開をしようと思いますが、ネオアカで一括りにする必要はなくて、個人が各自で自分の好きなように自分に合ったやり方で展開すればいいと思います。以上で述べたように、全体としては個人個人が知の拠点となっていけばよく、互いが反目しあうのではなく、互いにネットワークを形成することによって、知を探求したいと考えている人たちに知を探求しやすい環境を提供することだと思います。個人が個別の思想展開をするとどうしても自己の正当性を主張するあまり、閉鎖的になったり独善的になったりするかもしれませんが、知を探求したい人たちに学びやすい環境を提供するためには、知の拠点が内側に閉鎖的に閉じこもってしまうのではなく、各自の知の拠点を開放的にして、知を学ぶ人たちが知を求めて様々な知の拠点を移動できるようにネットワーク化した方が良いと思います。(もちろん、ネットワーク化して知の拠点同士が互いに友好関係を結ぶと同時に、その逆に矛盾するようですが、知の活性化を図るために互いに批判的であるべきだとは思います。)

国家体制の多様性

1.何が一番良い国家体制だろうか?
国家体制についてちょっと触れておこうと思います。以前、ネオアカとしては、政治的立場として民主主義だという話をしました。また、全体主義には、当たり前ですが、反対の立場だとも言いました。ところで、国家体制としてはどのような体制が良いでしょうか?実はどのような国家体制が一番良いかはよく分かりません。資本主義や社会主義、あるいはイスラーム共和国などというのもあります。果たしてどの体制が良いでしょうか?

2.国民に主権があり、国民が民主的に選んだ体制
実はどの体制が良いかは、なかなか明確には言えないのではないかと思っています。ただ、根本的には、主権は人民にあり、民主的にその国家体制が選択されたものであるべきだと思います。つまり、資本主義であっても社会主義であってもイスラーム体制であっても国民に主権があり、国民が民主的に選んだ体制であれば、それが国家体制になって然るべきだと思います。ただし、問題もあります。ナチスドイツです。ナチスドイツは実は民主的に選ばれた国家体制でした。ですので、この考え方にもまったく問題がないわけではありません。ですが、おおむね、国家体制は主権者たる国民が選んだものであるべきだと思います。まあ、なかなか理想と現実の違いがあって、そう簡単に杓子定規には行きませんが。現在の日本では資本主義社会が絶対的なまでに是とされていますが、開発経済学では発展途上にある段階の国では資本主義は上手く機能しなかったという報告もあり、一概にすべてのケースでこれが正しいという体制はないのかもしれません。その時、その場所にあった体制に可塑的に変形するものだと考えた方がいいのかもしれません。とはいえ、やはり、現時点では民主主義の資本主義社会が今は良いように思います。まあ、経済が暗転すれば、また見方も変わるかもしれませんが。とはいえ、もし、社会主義やイスラーム体制の国に生まれたら、さぞや嫌だったかもしれないとも思います。

3.移民という出口
当然、どのような体制であっても、不満を持つ人たちはいると思います。ですが、極端に言うと、たとえ民主的に決めても、多数決で少数派の意見は受け入れてもらえないかもしれません。では、どうすれば良いでしょうか?コストなど問題は多々ありますが、最終手段としては、その国を去って別の国に移住するという移民という方法があると思います。もちろん、そうならないように、よく話し合って全員がある程度満足できるように全員が多少の妥協することによって、国を捨てることなく誰もが住みよい社会にするのが民主主義社会だとは思います。しかし、それでも、どんなに最善を尽くしても、やはり、移民する者が出てくると思います。その意味では、最低限、移民という扉は開けておくべきだと思います。

ただし、一方で、移民は高いリスクもあります。その人が高い技術力や豊かな資産を持っていれば別ですが、移民先での苦しい生活環境があります。まあ、移民先の社会に今まで税金を収めていないという社会的義務を果たしていないために、一般の国民とは違って生活を保障される権利もないという見方もあるかもしれません。移民労働者の劣悪な労働環境はしばしば問題になったりしますし、逆に移民に仕事を奪われた自国民の反発もあります。最近の米国では、アリゾナ州では不法移民は収監されて囚人として働かさせられてしまいます。ですから、移民にも問題は多々あってリスクが高いと思います。

4.移民の自由とリスク
ですが、基本的には、人間には移動の自由を与えられるべきだと思います。移民の自由を引き換えにリスクはありますが、それでも嫌な国家体制の中に閉じ込められるよりはマシかもしれません。福島亮大が『神話が考える』の中で民主主義の資本主義社会が唯一の国家体制のように書いてありましたが、必ずしも絶対的にそうだというわけではないと思います。国家もまた生物と同じように多様な体制が可能であり、一概にどの体制が良いとは言い切れないのではないかと思います。むしろ、国民が自国の主権者で民主的に体制を選択できる権利がある一方で、人々が自由に国家間を移動できる、つまり、移民の自由を与えられるべきだと思います。

2010年5月30日日曜日

社民党の政権離脱について

1.もし、朝鮮半島で有事が起これば・・・
社民党は政権離脱したのか・・・。う~ん、福島党首の道理は分からなくはないが・・・。だが、もし、いったん朝鮮半島で紛争が起これば、実際に現実的な米軍の抑止力の有る無しは別にして、米軍基地を高く評価する論調が占めるだろう。そうなれば、本土の日本国民は沖縄の米軍基地を是と考えることになるかもしれない。

2.社民党には沖縄という踏み絵が出来てしまった・・・
また、社民党は今回の件で沖縄の踏み絵が出来てしまったために、今後、連立政権に組み入れられる可能性が極めて低くなる。自民党はもとより民主党とも連立政権を組めなくなる。つまり、今後、半永久的に政権に関わることがなくなるかもしれない。社民党は再び消滅の危機に見舞われることになるのではないだろうか?

3.沖縄県民の思い
また、沖縄県民は社民党の政権離脱をどう考えるだろうか?もはや民主党には頼れないし、自民党は論外だ。琉球王国の頃のように独立でもするしかないが、基地があるのに独立できるはずもない。社民党に頼っても政権を担当できないのなら意味はない。そうなると沖縄に希望はなくなる・・・。沖縄県民は社民党の政権離脱を望んだのだろうか?

4.名と実
確かに社民党にとって政権離脱はリスクが高いとはいえ、党是の政策で沖縄を守れないのであれば、「何のための政党か?!」ということになり、「政権離脱も止むなし!」という考えとも言える。だが、連立政権内から沖縄の政策に口出しするのと、野党の立場から口出しするのでは重みが違う。閣僚を辞任して連立政権にとどまって政策に社民党の意見を反映するという、名より実もあったのではないか?

5.今後の社民党
沖縄の件で社民党がどんなに人気を得たとしても、今後、社民党が全国的に激増することはありえないだろう。むしろ、政権離脱は万年野党の無力さに逆戻りするものであり、支持者からの失望を買うのではないだろうか?もし、社民党が政権担当能力のない、単なる不平分子の吸収剤という役割なら、それも良いだろうが・・・。もともと社民党は政権に大した期待はなかったのかもしれない。元々、少数野党であり、数は僅かだが堅実な支持者によって支えられていた。再び、万年野党として、実に非力だが、その役割を果たすことで少数の支持者の満足を得るのかもしれない。そのことによって少数だが存続できるのかもしれない。だが、政権を取れる可能性のない政党に投票する国民は少ない。

2010年5月29日土曜日

日本の財政危機

1.日本の財政危機
朝からあまり良い話ではないが、そう遠くない未来に日本は未曾有の経済危機に見舞われる可能性が出てきたと思う。ギリシャの財政危機は他人事ではない。いや、ギリシャ以上の危機に日本は陥る可能性があると思う。そうなれば、日本は否応なしに大きく変わることになる・・・。何がトリガーになるかは分からない。日本が自らそのトリガーを引くことはないだろう。いつものように黒船来航よろしく、米国か中国による外圧がトリガーとなると思う。日本が経済危機を向かえたときに取りうる政策は、大規模な増税とハイパーインフレが考えられる。

2.増税とインフレ、そして、国家予算の縮小
例えば、消費税は現在の5%から15%~20%になるだろう。物価も2倍くらいになるのではないか。例えば、7万円のノートパソコンは14万円になるだろう。インフレになれば給与も上がるだろうが、物価に見合った上昇になるかは分からない。いずれにしろ、日本人の消費マインドは完全に変わる。金融資産が目減りする。土地などは逆にインフレで利益を生むだろう。資産は海外に分散しておくのが良いかもしれない。ただ、アルゼンチンで銀行が凍結されたように、海外に資産を退避させても安全というわけにはならないが・・・。国家予算も大きく縮小されるだろう。現在の歳出80兆円が歳入に見合った数値になるだろう。おそらく、半分以下(30兆円台)に縮小されるだろう。

3.危機対策
さて、このような危機に対して、どういった対策が可能だろうか?資金があれば、インフレに対処する方法で土地などの固定資産に変えておくの良いかもしれない。ただし、当然、リスクはある。資金がない場合は、どうするか?なかなか難しい・・・。

4.日本が様変わりする
日本人の生活やマインドは大きく様変わりするだろう。貧富の差が拡大するどころか、多くの貧困層が生まれるだろうし、現在の貧困層はますます生存が困難になるだろう。消費マインドは完全に冷え込むだろうし、多くは生活費で手一杯になるだろう。政治や税金に関心や不満が高まるかもしれない。ネットの世界も様変わりするかもしれない。ライブドアが韓国企業に買収されたように、現在、無料で提供されているブログなどの日本のIT企業がそのまま存続できるかは分からない。日本のIT企業は倒れ、外資系だけが残るかもしれないし、日本は魅力のない市場となって日本から撤退するかもしれない。そうなれば、音楽や映画や文学などのエンターテイメントなどの娯楽産業は縮小すると思う。アートも同様だろう。また、ネットを活用してできるだけお金をかけずにコンテンツを入手する人が増えるだろう。若者などはそうするだろう。ともかく、貧しい国で娯楽産業が大きくならないのと同じ状況だと思う。これまでの日本は経済大国という自負があったが、今度は逆に20年も経済低迷を放置し続けた無能な日本として、負け組的な惨めさを日本のイメージとして持つことになるかもしれない。かつて90年代にロシアが経済危機に陥って大変なモラルハザードを起こしたが、日本もそうなる可能性を否定できない。

2010年5月28日金曜日

東浩紀『論壇時評5月号』(朝日新聞連載)を読む

1.感想の前に・・・
宮崎県の口蹄疫の件でふるさと納税が増えているらしい。宮崎県が大変苦労しているのは分かる。しかし、自分が住んでいる地域で日常的に利用している公共の費用を賄うのが地方税だ。それを利用している地域に支払わないのは、受益と負担から言えば、間違っている。ふるさと納税は不見識な施策だと思う。

2.論壇時評の感想
東浩紀の朝日新聞論壇時評を読んだ。内田樹の米軍基地全部撤去を評価していたのは正しいと思う。また、国語力や討論力を説いていた。ただ、正しさの追求ではなく、議論の場において詭弁によって自論を通すとも受け取られる。若者がますます何が正しいかが分からなくなっているのを反映しているかの様だ。

3.「売れるから正しい」ではなく、「正しいから正しい」
「多くの人が賛成するから、正しい」のでもないし、「売れるから、正しい」のでもない。「正しいから、正しい」のだと思う。若者は何が正しいかが分からなくなってきているのだと思う。危険なことだと思う。確かにいつの時代もそういうのはあったが、今はそれが多くなってきていると感じられる。もしかしたら、もう少し、階層化するのかもしれない。大衆とインテリというような分離が起こるのかもしれない。かつては一億総中流と言われたが、知的水準において、もう少し階層化が進むのかもしれない。教育がもっと高度な教育の私立と大衆的な教育の公立に分かれるかもしれない。

(ところで、東浩紀の論壇時評では、ネットということが大きな要素だ。東浩紀はネットを評論する評論家という意味ではない、うまく言えないのだが、ネット評論家という趣きがある。だが、ツイッターによって浮上してきた他の有名人とも東浩紀はちょっと違う。元々、彼はネットに近い位置にいた。)

ともかく、当面は正しさの追求よりは、弁論術的な討論力が若者のニーズになるだろうと思う。私のような年寄りは「自分に理や正しさがあれば、たとえ、どんなに多くの人に反対されようとも、我が道を行く」だったのだが、今の若者はネットに多くを依存するので孤独には弱いのかもしれない。まあ、その代わり、今の若者はネットには敏感に反応して、対応が迅速なのかもしれない。何にでも良い面もあれば、悪い面もあるだろう。だが、正しい正論よりも詭弁による邪道がまかりとおれば、衆愚に陥る。欧州ではネオ排外主義が人気を高めているらしい。おそらく、大衆の動きだろう。

4.Androidの普及とグーグルによる進化の加速
話は違うが、Androidがどんどん普及しているように感じられる。携帯端末に限らず、iPadのようなタブレットやテレビのような家電にはAndroidがOSとして普及する可能性が高いのではないか。そして、いつものように普及によってグーグルに直接的な利益はない。グーグルの出現によって多くの技術が無料で人々に提供された。競合他社もグーグルに対抗するために価格を下げたりもした。そういう意味でグーグルはネットの普及や進歩に大きく貢献した。グーグルによってネットの進歩が加速したといえる。もし、グーグルがいなければ、進歩はもっと遅かっただろう。ただ、グーグルは日本にちょっと距離を置いているのかもしれないと感じるときがある。グーグルには、もう少し積極的に日本で展開してほしいと思う。日本は人口1億2千万で13億の中国や3億の米国に比べれば小さいが、それ以外の国と比べれば、まあまあ大きい方だ。今後の日本の可能性は限られているが、それでも全く無視しても良いほど小さいものでもないだろう。ただ、どうも政策や国民の動向など、最近の日本人には不合理な行動や思考が多いように感じられる。細部はともかく、大枠で間違ってなければ良いと思うのだが、その大枠が間違ってないかと思う時がある。民主主義や自由な社会、個人主義や世界市民を意識することが多くなったように思う。日本が経済大国に復活することがなくても、それなりに日本は良い社会になれると思うのだが・・・。経済成長下で築かれた今までの慣習が無効になっても、互いに規範などで束縛することなく自由でいられると思うのだが・・・。

2010年5月25日火曜日

哨戒艦沈没事件について

1.本当に北朝鮮の仕業だろうか?
例の韓国哨戒艦沈没事件だが、私は必ずしも北朝鮮によるものだとは思っていない。なぜなら、合理的な理由がないからだ。確かに突発的なもので北朝鮮の仕業によるものなのかもしれない。だが、どうも自分でも納得できない。なぜかというと周囲の対応が何か変だ。

2.米国の世界戦略
米国の世界戦略の優先順位でいえば、先のイラク戦争に続いて標的となるのはイランだ。イスラエルを支援する強い影響力を持つユダヤ人が米国に多いからだ。イスラエルがイランから核攻撃を受ける脅威を取り除くために、米国は次の標的としてイランを視野に入れていると思う。だが、もう一方で北朝鮮も標的として考えている。いわゆるブッシュの言った悪の枢軸だ。だが、米国の本当の狙いは北朝鮮ではなく中国だと思う。北朝鮮はその前段階だと思う。また、中国を標的とする大義名分は中国の民主化だ。中国をいくつかに分割するのが狙いではないだろうか。北朝鮮と韓国の間で戦争を起こすことになるのではないか。そのとき同盟軍として米国と日本が参戦するのではないだろうか。中国は最後まで戦争に反対するだろう。朝鮮戦争が起これば、日本も北朝鮮からのミサイル攻撃の対象になるだろう。米国から兵器のオファーがあるかもしれない。TMDなどだ。グーグルマップから北朝鮮の地図が消えて久しい。また、中国も地図情報を政府が取り締まり始めた。地理情報は戦争で極めて重要だ。ちなみに日本は毛利さんが米国に強力したおかげでミサイルでピンポイント攻撃できるだろう。

3.北朝鮮の背景
北朝鮮は武器の輸出の多い国だ。実際は中国の武器を売っている。中国が直接販売するわけに行かなかったので、汚れ役の北朝鮮が売っていたのだ。だが、昨今は中国の武器輸出が目覚ましい。世界の工場になって武器の製造にも拍車がかかったのかもしれない。

4.オバマ政権の後が・・・
オバマ大統領は有権者の期待に応えてイラクから米軍を撤退させる公約だった。だが、その一方でアフガンは増派している。軍需企業には場所は変われど売上は変わらずというわけだ。オバマが米国に新たな医療制度を導入した点は高く評価できるが、軍事には妥協も多い。確かにオバマは核兵器削減に尽力してはいる。だが、それはイランへの核拡散を防ぐ意味合い、イランへの牽制という意味合いもある。それは米国の利害に一致しているから核兵器削減に動いているとも見れる。ノーベル平和賞を受賞したオバマが確固たる理由も無しに戦争を起こすことはまずないと思う。だが、オバマの次の政権は分からない。おそらく、共和党が政権を取るだろうから、どこかで戦争を起こす可能性が高い。そのとき、その標的となるのが、イランか北朝鮮のどちらかになるのではないか。ただし、イランに十分な核兵器があると分かれば、米国もそう簡単に戦争できないのではないだろうか。イスラエルが核攻撃の標的となることを恐れるからだ。いくら迎撃の精度が上がったとしても、やはり、完璧というわけにはいかないだろう。それに核攻撃の手段はいろいろあるだろう。そうなると北朝鮮を先に標的にする可能性もある。先のイラク戦争ではラムズフェルドの高速な進撃によって極めて早くバグダットを陥落させた。その代償にイラク軍も温存されて各地での戦闘が残ることになった。今度、北朝鮮で戦争が起こったとき、米軍が試したいと思っているのは戦術核だろう。

5.東アジアの位置
東アジアは極東地域という世界の最果てにある。世界の中心を米国や欧州とすれば、日本は辺境だ。核のゴミ捨て場にするには最適の位置にある。六ケ所村がその例だ。広島・長崎に核攻撃したのもそういった立地条件もあったと思う。そして、北朝鮮に対して実戦で戦術核の威力を試したいはずだと思う。ただし、戦後のこともあるから戦術核は使わないかもしれない。おそらく、朝鮮半島は統一するのが国際世論が一致するところになるだろう。だが、それに対して中国は介入したがるだろう。中国に介入させないためにも、米国は韓国に北朝鮮を落とさせたいはず。当然、中国軍の介入を許さないだろう。北朝鮮を落とすことで中国を包囲することになる。まあ、国際分業の時代だから、あまり意味はないのだが、軍人の戦略的観点では地理的優位を重視するだろう。ところで、かつての朝鮮戦争で日本は朝鮮特需となったが、今度の朝鮮戦争ではむしろ逆で戦費が国家財政を圧迫する可能性が高い。少し書いたがミサイル防衛のために、役にも立たない戦域ミサイル防衛や迎撃ミサイルを物量作戦で日本海側に並べるかもしれない。いずれにしろ、莫大なコストがかかっても利益は生まないだろう。下手をすれば、財政破綻の引き金になるかもしれないのではないだろうか?それに対テロのために厳戒態勢を強いられることになるかもしれない。原発など各要衝を厳重にテロから守る警備が必要になるかもしれない。また、様々なサイバー攻撃もありえる。

6.中国はグーグルに勝てるか?
話は違うが、グーグルのデータセンターは地球で最も巨大なコンピュータになっているのではないだろうか。これを凌ぐコンピュータシステムを持っている国はないのではないだろうか。もはや一企業ではグーグルに太刀打ちできないのではないだろうか?もしも、将来的にグーグルに対抗できる存在があるとしたら、中国ではないだろうか?中国が国家プロジェクトとして総力を上げて、グーグルを凌ぐデータセンターを作ることでしかグーグルを凌ぐシステムを作る所はないのではないだろうか?そしてグーグルと中国の間でサイバー戦争が起こるかもしれない。例えば、先のキム・ヨナの件で、2ちゃんが韓国からサイバー攻撃を受けて、あえなくダウンした。だが、中国が経済成長して、先の韓国のように日本のサイトを中国が狙えば、その規模の巨大さからいって簡単に日本のサーバはダウンするのではないだろうか。極端な話、中国のサイバー攻撃によって、日本の各主要コンピュタがダウンして、都市機能までもがダウンするかもしれない。もっとも、日本企業が中国の傘下に置かれて、国内から攻撃を受ける内部撹乱によってダウンさせられるかもしれない。(金融システムにおいてシステムのロバスト性は信用問題だ。)

7.日本経済の衰退
話は違うが、日本という市場は旨みがなくなりつつあるのかもしれない。楽天が社内公用語を英語にしたり、ユニクロの社員が外国人が多いのは、結局、グローバルな時代において世界の中で競争して勝てる企業ということなのかもしれない。結局、日本は製造業にも知識産業にも参入できず、停滞したままだ。消費税も15%以上という話が出始めている。そうなれば、世間の雰囲気は大きく変わるだろう。税金の無駄遣いや政治に国民はもっと真剣になるかもしれない。また、もっと窮屈になるだろう。なぜなら、無駄をしなくなるからだ。今でさえ起業が少ないのがもっと萎縮するだろう。それが日本の国民性だ。日本ではシリコンバレーは生まれなかった。日本からはグーグルやアップルは生まれない。日本が知識産業に乗れなかったのも、そういう日本の土壌に原因がある。日本では無理なのだろう。いや、むしろ、世界でも希で米国だけが可能なのだろう。米国を悪く言っても、その米国に勝てないのだ。

8.文明社会の歪み
だが、米国とて良いことばかりではない。産業構造が製造業からサービス業にシフトしたために歪みが生じている。不法移民に対する強い取締など変なことが起こっている。囚人を作り出して、それに群がるサービス業だ。華やかなIT等の高度サービス産業の陰で下位のサービス業では変な事が起こっている。

9.北朝鮮での戦争の可能性
とにかく、数年後に対北朝鮮で戦争が起こることを想定して、いろいろと準備しておいた方がいいかもしれない。私は年齢的には戦争に行くことはまずないが、戦争民間会社とやらで戦地に必ずしも行かないとは限らないだろう。だが、戦術核は無くても劣化ウラン弾でガンや異常児が増えるだろうな・・・

10.民主的な議会のない中国
日本政府と比べると中国政府は米国と互角に渡り合っていると思います。中国は民主的な議会がなく、独裁体制ですから、意思決定力は頑強です。民主主義国は、大統領制であっても、どうしても良くも悪くも議会に左右されますからね。

ツイッターの人気動向について調べてみた

ツイッターの人気動向についてGoogleを使って調べてみました。過去1年間の話題になった頻度を表したグラフです。上のグラフが「ツイッター」で調べた結果で、下のグラフが「twitter」で調べた結果です。おおよそ、上は日本の動向、下は米国の動向と見ることができると思います。今日のニュースでツイッター上での第3者による「つぶやき広告」を禁止する方針をツイッターが打ち出しました。それだけツイッターに対する注目が高まっているのかもしれません。ツイッターはどこまで浸透するのでしょうか。ツイッターは手軽なコミュニケーションツールですが、その一方で口コミというマーケティングツールの側面も強くあります。ブログの場合は一方的な発信が多くなりますが、ツイッターの場合は双方向のやり取りがブログよりは多くなると思います。今後、ツイッターがどのような展開をするのか興味深いですね。


2010年5月23日日曜日

普天間問題その3

憎むべきは米国ではないでしょうか?世論は5月末決着ではなく先送りに傾いていたけど、鳩山首相は5月末決着にこだわった。おそらく、米国と約束していたのではないか。なぜなら、日米合意のテンポが早い。問題はなぜ米国に主導権を握られるのか。弱みでもあるのか?

問題点を日本政府に押しつけるのでは、今までと同じ。問題点をオープンにすべきでは?すなわち、「なぜ、日本はこうも米国の言いなりにならないといけないのか?」庶民感覚で言えば(笑)、「米国の責任者、出てこい!」と言いたくなる。まあ、米国としては日本国内のことは政府と国民でやるのが筋だが。

まあ、結局、日米安保に行き着くのだろうけど・・・。ただ、どうも、日本がこうも簡単に米国の言いなりになるのは何か強力な弱味を握られているのだろうかと思いたくなる。ただし、陰謀論的な不明確な憶測で済ませるのではなく、明確な理由としてはっきりとオープンにすべきではないかと思う。

米国は良い面もあれば悪い面もある。学ぶべき面もあるし、逆に軽蔑すべき面もある。一概にどちらか一方だとは言えない。だが、基地の件については、米国はあまりに傲慢に過ぎる。米国にとって、日本の米軍基地はアジアの戦略拠点という位置づけであって、真の意味で日本を守るというものではない。

最近の東アジア情勢はどうもキナ臭い。米国がオバマ政権の間は東アジアでの紛争はないだろうが、その後の米政権(おそらく共和党政権になると思うが)では、東アジアで紛争が起こるかもしれない。今はその下準備中という感じがしないでもない。米ソ冷戦のように、今度は米中冷戦の代理戦争があるかも。

米国のやり方も強引だが、それでも建前があったと思う。だが、今の中国のやり方は前近代的な大国が小国を圧迫するようなやり方ではないだろうか。中国はあちこちで小国を圧迫している。そこには建前はなく、力のゴリ押しだ。そして、中国はますます強くなっている。いつかは超大国同士が衝突するだろう

「米国と中国のどちらかを選べ」という究極の選択かもしれない(笑)。もっとも中国の巨大資本に日本は内側から支配されるかもしれないが。いずれにしろ、日本経済の復活はありえないだろう。日本は縮退して小国化すると思うが、そのとき、荒廃した国土しか残ってなければ、目も当てられない。

沖縄の基地移転もどこも喜んで受け入れるところはないだろう。米国も日本国内以外のテニアンは受け入れないだろう。もし、移転するなら、政府は候補地を3つほど上げて、国民の同意をうかがうという方法もあった。政府がどれか1つを決めれば角が立つが、候補地3つから国民に選ばせば良かった。

3つの候補地はうちに来ては困るというアピールを国民にすることになっただろう。候補地を選んだ責任は国民自身ということになる。自らは責任を負おうとしない国民や先送りにする政府はどちらもどちらではないのか?そうなれば、じゃあ、何が一番問題なのかとなれば、米国だということに気づく。

また、米国内でテニアンを奨めるロビイストはオバマ政権の足を引っ張りたい共和党支持者だろう。オバマの支配力が問われており、日本も米国に反抗したとなれば、オバマ政権はますます支持率が下がるからだ。まあ、日本がそれを利用するのは自由だが。

いずれにしろ、沖縄の米軍基地は矛先を日本政府に向けるのではなく、米国に向けるべきだろう。ただ、中国の脅威もあるが、所詮、例のガス田での敗北が象徴しているように日本は勝てない。だったら、基地はあっても無意味ゆえ、基地は要らない。なぜ、米国の世界戦略のために基地を置く必要があろうか。

先のツイート、「沖縄の米軍基地は矛先を」→「沖縄の米軍基地問題の矛先」っていう意味。

ただし、日本は本土はともかく国境付近や航行において不利を強いられることになるだろう。まあ、侵略されるってことはないけど、資源や交通が脅かされる可能性は高い。でも、それよりも中国資本によって日本企業が買い占めされて、内側から支配されることの方が問題なのではないだろうか。

ただし、それは別に中国のルール違反ではなく、自由競争の結果であって、強者が弱者を駆逐する資本主義の自然な成り行きで、何も中国を非難するには当たらないだろう。おごれる者は久しからず、というものだろう。

中国がもっと民主化すればいいのだが、中国の中央政府のやり方はそうじゃない。徐々に民度が上がればいいが、国家の中枢が「検閲を是」とするようなナショナリズムでは、いずれその歪みは国民へと伝播して、弱者へとしわ寄せが押し付けられると思う。中国が超大国になるとき、弱者になるのは日本だ。

中国との市民レベルの交流では民主化されているように感じても、いざ、国権が発動されるとき、果たしてどのくらい民主化されているかは疑問だ。果たして、自由を守るために戦えるだろうか?その辺りは欧米の市民は自由を守るための意思は強い。アジアは自ら勝ち取るという感覚が少ないのではないか?

2010年5月18日火曜日

ネオアカの経緯

ちょっと、ここで『雑誌ネオアカ』の経緯というか背景について、若干、説明させていただきます。

雑誌ネオアカはネット上での出会いがきっかけで発行されました。出会った場所は2ちゃんねるの哲学板でした。ネオアカの理念や使命についてはhttp://www.neoaca.com/abouthttp://www.neoaca.com/mission1を参照して下さい。

それで、出会った場所が哲学板であったので、自然とネオアカ初号の対象読者層は、最初から特に強く意識したわけではなく、ちょっと無意識的なんですけど、哲学板を想定したものになってしまいました。ただ、サイトを公開して3週間くらい経過しましたが、哲学板でのネオアカに対する反応はほぼ皆無に近い状態です(笑)。この点は大いに反省しなければなりませんね。何が悪かったのか?(←「全部!」という声が聞こえてきそうですが(笑))公開する前は、あまり長文は避けようと考えていました。というのも、普段でも長文のレスは嫌われるので、できるだけ短くしないと哲学板の読者は読んでくれないと考えたからです。ですので、文章をできるだけ短くしようと努力することにしました。でも、なかなかうまくできませんでした。ただ、ネオアカが読まれなかった原因はもう1つあると考えていて、それは哲学板のユーザがツイッターに移行してしまって減少したからではないかと考えています。実際、ネオアカの登場に関係なく、哲学板のレス数は極端に減少したと思います。

ところで、話は変わりますが、広い意味で、ネオアカには「知の探求」や「世界を良くしよう」という目的があります。これは、別に、ネオアカに限らず、知を研究されていている方々は、みなさん、同じだと思います。中国武術の世界に「武林是一家」という言葉があるのですが、この意味は少林拳や蟷螂拳など武術を学ぶ流派はそれぞれ違っても、「切磋琢磨して強くなろう」という目的は、皆、同じなので、たとえ流派が違っても武術家同士は、皆、家族のように仲良しだ、仲良くしようという考えです。私は知の世界も、この武林是一家と同じで、目的は「知の探求」や「世界を良くしよう」という目的は同じなのだから、知林是一家ではないですが、皆、仲良くして、互いに切磋琢磨したり、助け合ったりできるものだと考えています。とはいえ、武術の世界でも他流派との諍いは多いのも事実です。何かと言うと互いの武勇を競って「どちらが強いのか?」などと喧嘩のような試合をしたりします。そういう喧嘩は良くないと私は思います。ですが、切磋琢磨する意味で試合というのも無益ではないと思います。そういう意味での試合なら向上のために良いと思います。知の世界においても、批判というのは互いの向上に役立つものだと思います。とはいえ、批判されて学ぶことも多い一方で、人間は感情を持っていますから、不愉快なことも多いと思います。武術では、「礼に始まり、礼に終わる」ようにして、試合に遺恨を残さないようにします。試合中は一生懸命戦うけれど、試合が終わったらオフサイドの精神で互いに向上に努める学友同士といったところです。ですから、批判において手抜きするのは試合で手抜きするようなもので相手に失礼かもしれません。しかし、いったん、試合が終わったら、試合のことは、全部、水に流して、互いの健闘を称えるものだと思っています。ここで、最初の2ちゃんねる哲学板の話に戻りますが、本来なら、ネオアカの記事で批評さえていただいた方々に礼を言うのが礼儀だと考えていたのです。

ですが、2ちゃんのユーザを対象読者層に想定してしまったために、感謝の言葉を早々に言ってしまうと、プロレス的というか、祭的というか、そういう盛り上がりに欠けてしまうのではないかと愚考してしまいました。そういう理由もあって、実は最初に、批評させていただいた方への感謝の言葉を挿入する予定だったものを編集の段階でいったん削ることにしました。そこで、ここで改めて、お礼を申し上げさせていただきます。東浩紀さん、斉藤環さん、宮台真司さん、酒井泰斗さん、本当にありがとうございました!!!

それから、私の書いたレビューで引用させていただいたiwatamさんは、私が勝手に引用させていただいただけですので、特に私どもと関係あるわけではありません。iwatamさんのサイトで公開されてい文書がフリーでしたので引用させていただいた経緯もあります。一応、iwatamさんには引用させていただく件に関してはご本人に連絡させていただきました。iwatamさんからはフリーなので自由に使っていい旨のお話をいただいています。ただ、私の解釈が間違っているかもしれませんので、iwatamさんのサイトを合わせて読まれることをお奨めします。

iwatamさんのサイト『ネット世代の心の闇を探る』
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/kokoro/index.html

iwatamさんを引用した記事レビュー『神話が考える』
http://www.neoaca.com/review

以上、とりあえず、思いつくままに書いてみました。ちょっと長くなってしまって申し訳ありませんでした。

福嶋亮大×浅田彰「『神話が考える』をめぐって」

昨日、京都造形大で福嶋亮大さんの『神話が考える』の講演があり、浅田彰さんとも対談されたようです。

右のURLはまとめ記事です。 http://togetter.com/li/21816

これを元に少し感想を述べてみます。

『神話が考える』では事実性や近接性を出すために、作品においていろいろな工夫がされているのですが、それは置いといて(笑)、まず、「事実性」は「事実らしさ」であって「事実」ではないということは注意しなければいけないと思います。それが分かっているという前提でちょっと話します。

浅田彰が「クールな学会発表にしたい」と言って「モダニズムのクールさにこだわりたい」と言ったのは、この『神話が考える』に対するひとつの浅田のスタンスとして意味があると思います。要は、例の4象限の図ですが、浅田はモダンの側に立つということを言っているのだと思います。浅田がこの4象限図を見て、エリート主義的な設計といったのは、極端に言えば、「エリートが愚民をコントロールする」といった類の考えをこの4象限から嗅ぎとったからだと思います。これは、極端に喩えれば、建国神話で大衆をコントロールするといったものでしょうか。『精霊の守り人』みたいな。そういう見方をすれば、福嶋の小さな神話が人々に意味を与えるというのも、建国神話がある昔から行われていたと言えると思います。でも、ヘロドトスから始まる歴史は神話のようなフィクションではなく、事実に基づいた史実を残そうとしたので、今から神話に向かうのは逆行ではないかと思います。

また、福嶋は本の中でリベラル民主主義が唯一の社会体制であることを前提としていますが、果たして本当にそうなのかという疑問もあります。実際、多くの異なる社会体制が世界にはあるわけですし、リベラル民主主義も今後私たちが思っているようなものとは違ったものになる可能性もあると思います。その福嶋の大前提に疑義を呈したのが、浅田の最後の発言「歴史が終わったのか、ポモは正しいのかとガチでやるべきだったのかもしれない」という言葉だと思います。そんなこと、浅田彰に言われたら、ビビっちゃいますよね(笑)。

神話と歴史をフィクションとノンフィクションと見れば、真正性が浮かび上がってきます。昨今の「アウシュビッツや南京事件は無かった」とする一部の見方なども関わってくるのではと思います。『神話が考える』とレヴィ=ストロース繋がりですが、小田亮さんが真正性について語っていたと思います。

小田亮さんのサイト→http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/index.html

印象に残った言葉としては福嶋の「半分穴が空いている現実」や「半現実」という言葉。これについては拙論http://www.neoaca.com/reviewを参照していただければと思います。また、浅田の「世界が悪い場所になっている」という言葉。確かにそうで、看過できないと思いつつもどうにも出来ないという難しさがあります。

2010年5月8日土曜日

オタクの話

確かに「純文学は真面目に考え、アニメは最初から真面目に考えようとしない」というのはあります。私もガンダムを題材にガンダムオタクの人に真面目な話をしたら、「たかがガンダムにそんな意味をくみ取るなんて」と呆れられてしまった経験がありますね。

その人は私より詳しくガンダムを知っているのに「じゃあ、あなたはそんな他愛も無いガンダムに夢中になっているのはムダではないの?他愛も無いと思われていることにも、実は大切な意味があるから、世間から他愛もないと見なされているものでも自分は一生懸命取り組むんじゃないの?」と思ったのですが

ところで、その人はガンダムオタクだったけど、一方でミリタリーマニアでした。もともと、『ガンダム』は富野由悠季がハインラインの『宇宙の戦士』(←端的に言えば保守系)を批判的に捉えて創作したはずのものでした。それなのに、結果的には、『ガンダム』は保守系の作品として捉えられるという皮肉

なので、「小説は真面目に、アニメは遊び半分で」という批評を看過していると、先のような歪められた形で通ってしまう。まあ、物語の解釈は人それぞれなので、それも仕方ないことではあるのですが・・・。でも、「そうじゃないんだよ」という情報も必要だと思います。

ただし、オタク的なものが逆流するのはどうかとは思います。オタク的なものがそれまでの伝統文化を破壊するのってあります。ただ、生命の進化と一緒でそれも自然淘汰なのかもしれませんが、でも、やはり、年寄りの自分としては(笑)、ひと言、言いたくなります(笑)。歳取るのって嫌ですね。

そういう意味では「生物の絶滅を防ぐ」という行為は進化論に反した行為かもしれません。実際、昆虫の世界ではどんどん新しい種が生まれては消えていっているとか。未だに知られていない種類の昆虫がたくさんジャングルにはいるらしいし。

話を戻すと「アニメを正当に評価しない」という日本の体質は昔からあって、例えば、浮世絵とかもそうじゃないかと思います。西洋で芸術として高く評価されたから、逆に浮世絵の芸術性が日本でも認められたわけで、西洋で認められていなければ、単なる好事家の枕絵になっていたかもしれません。

今でも日本の浮世絵収集家、あ、春画収集家と言った方がいいのかも、は、江戸時代からのオタクの系譜といっていいのかもしれません。そうなると「アニメを正当に評価しない」という日本の体質は伝統文化なのかもしれません(笑I)。あ!それじゃあ、いけない!

それと『宇宙の戦士』の映画版『スターシップ・トゥルパーズ』も原作の『宇宙の戦士』を批判的に捉えて、皮肉った内容になっているのですが、これが映画を見た人には皮肉と気づかない人がけっこういました。先に言ったガンダムオタクの人もその一人でした。「どこが皮肉なの?」と真顔で聞かれて吃驚

思わず絶句したのですが、いざ、説明しようとした私も「あれ?あれって皮肉じゃあなかったのかしら?」と自分に自信が持てなくなってしまいました(笑)。案外、あれを作ったアメリカ人の方が平和な考えをしているのかもしれません。ちょっと悩んでしまいました。

なので、個人や市民、国や政府は分けて考えないといけないと思います。ただ、いざとなったら、普段は善い人なのに悪いことをしちゃうという場合もあります。普段は虫も殺せぬ優しい人なのに、いざ、戦争に行くと一生懸命働いちゃう感じだと思います。

なので、個人レベルの思考と国レベルの思考など様々な階層があるのだと思います。なので、私は中国を批判してますが、それは国レベルであって個人レベルではありません。個人は別だと思います。国レベルの話は拙論『日本の未来戦略』参照http://www.neoaca.com/critique

GoogleVoiceについて

グーグルのサービス「Goggles」は画像内のテキストを翻訳できるらしい。翻訳したい画像の文字をキャプチャして翻訳するらしい。そういえば、YouTubeでもキャプションを翻訳するサービスがあったような気がする。キャプチャとキャプションは微妙に違うかな・・・。

また、グーグルは街を丸ごと超高速のブロードバンドにする事業もやっている。電話もテレビも情報のラインはこれ1本で済むということなのだろうか。が、それもあるが、電話をタダにする話もあったように思う。グーグルボイスだ。

電話といえばスカイプがあったと思うが、グーグルボイスはもっと凄いらしい(笑)。←ありがちな言い方だなあ。ともかく、最大の特徴は意味を理解してくれるようになるだろうことだ。もし、意味を理解してくれるようになったら、本当に凄いと思う。←また、ありがちな表現をしてしまった。

コマンド入力が音声入力に変わる、なんてことじゃない。おそらく、同時翻訳が可能になるのではないだろうか。それが実現すると凄いと思う。人と人を隔てるものに、言葉の壁がある。つまり、言語の違いだ。もし、グーグルが自動で自然な同時通訳が可能になれば、意思の疎通が今よりも遥かに容易になる。

それはすなわち国境の壁を崩すことに成功するということではないだろうか?国と国がいがみ合うとき、相手のことをよく知らないことが大きな原因のひとつだと思う。自動同時通訳で異なる言語でも簡単にコミュニケーションが可能になれば、ともかくお互いをよく知ることが可能になる。

そして、ネットがあるから、距離の隔たりは関係なくなっている。つまり、本当に容易に外国人とコミュニケーションが可能になる。昔、エスペラント語、世界共通言語を作って異なる言語同士でもコミュニケーションを図りやすくしようという運動があった。ちなみに、考えた人はポーランド人医師だ。

だが、グーグルが自動同時通訳を作れば、エスペラントは要らなくなる。それに人々は自分の母国語を守ることも可能になる。いくら便利にするためとはいえ、世界の言語を1つの同じものにするわけにはいかないだろう。自分たちの文化もあるのだし。それらを守ることがグーグルの同時通訳なら可能になる。

グーグルボイスが意味をつかみ出すために、どうやら大量にデジタル化したグーグルブックスのデータが役立つらしい。なるほど、あれだけ大量のテキストデータがあれば、意味を取り出すことに役立てられるのかもしれない。意味ほど難しいものはないのに、グーグルはそれを可能にしてしまうかもしれない。

ところで、グーグルはアメリカから生まれた。そのアメリカは見方を変えれば亡命者の国だ。皆、自分の故郷の国を喪失して、自分の暮らす新たな国としてアメリカにやってきた。以前の国への反省からアメリカは世界に先駆けて良い国であろうとする国といえるかもしれない。世界の国の中で最も新しい国だ。

アメリカは国という組織形態の中で過去の伝統を引きずらない新しさを取り入れられる国だ。だが、国という組織形態に縛られていることは他の国と変わりはない。国という組織の限界だ。そこにグーグルとう新しい組織形態が芽吹いた。

グーグルはほどんどネットそのものになろうとしている。グーグルパブリックDNSもそのひとつの表れではないだろうか。そして、ネットには国境はない。アメリカから芽吹いたグーグルはその根をネットに沿って広げ、グーグルは世界を包み込んで、グーグルは世界中に存在しようとしている。

グーグルの自動通訳によって国境の壁は消え、国家の違いも形骸化するかもしれない。もちろん、国はそれぞれ、その国独自の国家体制・社会体制を敷けばいい。だが、そこに住まう人でその体制が気に入らなければ、移動すれば良くなるのではないか。実際、二重国籍はどんどん増えている。

21世紀において、国家に代わる新しい組織形態としてグーグルが生まれたのではないか。21世紀の人類社会では、国家は存在するが、人々は国家を選択可能になるのではないか。そうなれば、国民を抑圧するような国家権力は半ば無効化されるのではないだろうか。

そんなグーグルが巨大な国家権力である中国と衝突したのは必然だと言える。グーグル対中国。そして、その間に挟まれている日本。日本の未来はどこにあるのだろう?拙論『日本の未来戦略』を参照していただきたい!(笑)←手前味噌だなあhttp://www.neoaca.com/critique

2010年5月7日金曜日

普天間問題その2

普天間基地移設問題について。徳之島が移設に反対を表明するのは理解できる。だが、沖縄にこれ以上基地を押し付けるのは不公平だろう。基地問題は日本全体の問題だ。鳩山だけに責任を押しつけるのは間違っていると思う。

しかし、鳩山が徳之島と話し合いたいというのに、徳之島が話し合いを拒否するのは民主主義の精神に反するのではないか。問題に対して話し合いをするのが民主主義だろう。その話し合いを拒否するのは民主主義の精神に反するようにも感じる。

したがって、基地問題が日本全体の問題なのだから、国民投票にすべきではないだろうか?まず、地理的条件から候補地を徳之島以外に、あと2つ追加する。そして、3つの候補地から国民投票によって選ぶというのは、どうだろうか?地元の利益を優先するのはどこも同じだ。基地問題は国の問題だ。

3つの候補地から国民全体がその中から選べば、国民自身にも選んだ責任を感じられるようになるだろう。日本全体の問題なのだから、その責任を国民一人一人が感じるべきではないのか?それが民主主義というものではないだろうか?

鳩山ひとりに基地問題の責任を負わせて国民は知らん顔をするのは、民主主義ではないだろう。この問題が政府と候補地が話し合って決められるような問題ではないだろう(もちろん、受け入れる候補地があれば別だが、まず無いだろう)。そうであれば、国民投票で決めて然るべき問題ではないだろうか。

徳之島の町長のように「話し合いを拒否して後は知らない。沖縄だけが苦しめばいいだろう」というのでは不公平だろう。もし、国民投票で3候補地が決まれば、地元の首長は基地が地元に来ることによる、日本のデメリットをアピールせざるをえないのではないだろうか?

また、もし、国民投票が規定の投票率に達しない場合は、政府に決定権が委ねられたとしてしまえばいいではないか。棄権した者は決定できなかったというのはあるだろう。いずれにしても、基地問題は日本全体の問題として考えるべきではないだろうか?それが民主主義ではないのだろうか。

もちろん、これまでツイートした考えは、基地を国外に移設できなかった場合の話しだが。

2010年5月5日水曜日

ひろゆき×勝間和代から日本のIT企業まで

ひろゆきと勝間の対談が話題になっているらしい。


1.勝間和代について
私は勝間女史に関しては特に興味はない。強いて言えば、良いキャリアを持っているのに、やっていることは啓発セミナーになっているのではないかと思う。例えば、経営コンサルの大前研一は経営コンサルの合間に人材育成のために経営セミナーをやっている感じがするのに対して、勝間女史は啓発セミナーを主業務としてやっているように感じられる。そして、内容は啓発セミナーであって、経営セミナーではないのではないかと思う。良いキャリアなのに不思議だ

2.ひろゆきについて
ひろゆき氏はある種のリアリズムを基づいた経営哲学によって会社を運営していると思う。それは旧来の日本には余り無かった経営スタイルであるため、批判も多いが良い面もある。荒っぽく言えば、アメリカ的な自由な雰囲気がある。氏を批判するのは自由だし、氏が自分の思うままに会社運営するのも自由だ。

3.2ちゃんについて
ただ、今はひろゆき氏の2ちゃんもニコ動も劣勢ではないかと思う。ツイッターとUSTにその地位を脅かされているのではないだろうか。ツイッターのコメントがUSTに反映されるのは大きい。また、若者の2ちゃん離れも大きい。2ちゃんはひと世代前は辛辣な辛口コメントが多かったが、今はコミュニケーション不全の若者が多いのではないか。つまり、極端に言えば、話ができない相手が多くて、コミュニケーションが成立しなくなったのではないだろうか?ある種、ユーザの傾向が変わったのかもしれない。また、ニコ動も弾幕というコメントは2ちゃんのような辛口コメントだったからこそ、有意義だったが、それが凡庸な悪態になったのではユーザが興ざめしてしまう。そして、ログインや入場制限がユーザに制限をかけてしまっている。たしかにツイッターもログインが必要だが、これを窓口に議論は継続できる。

4.劣勢の日本のIT企業
ところで、動画共有サービスは日本発のものが少ないと思う。ニコ動やGyaOやアメーバビジョンがあるが、その他はあるのだろうか?動画検索しても引っ掛かるのは海外のサイトが多いのではないか?日本では動画共有サイトを運営する日本企業が育たなかったのかもしれない。先日、ライブドアが韓国企業に買収される発表があった。先述したように2ちゃんもニコ動もツイッターやUSTに押されている。検索サイトはGoogleやYahooだ。ブログではてなやアメーバは日本企業だが、FC2やライブドアは外資だ。日本ではIT企業は育たなかったかもしれない。ウェブでは、意外と中国や韓国のIT企業が強い。日本は若者が企業して大きくしたIT企業があまり育たなかったかもしれない。しかし、IT産業が大きくなった今、これから起業しても、買収されることはあっても、そこが基幹になる可能性は低い。日本のIT企業は尽く外資のIT企業に乗っ取られるかも。もし、中国と米国が対立したとき、日本のIT企業が中国系に独占されていれば、日本からグーグルを追い出すかもしれない。そのとき、日本は百度を選択させられるかもしれない。百度は、当然、中国政府が言論統制しているのだから、日本も中国の言論統制下に置かれるかもしれない。だが、考え方によって同じかもしれない。もし、野中広務の言うことが真実なら、今までの自民党政権下では、官房機密費という税金を自民党に有利になるように世論操作するために政治評論家にバラまかれていたことになる。中国が検閲によって言論統制するように、日本は評論家によって世論操作していた。アジア人は中央政府の統制下におかれることを是とする国民性があるのかもしれない。もし、欧米なら、官房機密費で世論操作していたとバレようものなら、極めて大きなスキャンダルになると思う。中国の言論統制や日本の世論操作が、それほど騒がれないのは、アジア的気質があるからかもしれない。中国政府の言論統制を他人事と思っていると、知らぬ間に自分たちもその統制下に置かれていることになるかもしれない。それは北朝鮮の国民と同じような立場になるということだ。もし、私が中国政府なら、百度を、実質的な国家管理下に置き、アジアのグーグルにして、アジア全体の言論統制に使うだろう。

日本ではIT産業を上手に育てられなかった。そして、ウェブの言論プラットフォームは米国か中国の企業に委ねられるかもしれない。両者が対立したとき、日本はどうなるだろうか・・・。

2010年5月4日火曜日

『ゲーデル的脱構築』について

ネットを散見していたら、2、3日前からゲーデルが話題になっていたみたい。「ゲーデル的脱構築」とかが俎上に上がっていた。私の記憶では、当時でもおおむねスルーされたような気がする。ただし、それでも気持ちだけは分かるから、それをどう繋げるかをみんなで思案していたんじゃないかと思う。

ゲーデルの不完全性定理については自己言及型パラドックスによって感覚的な理解がしやすいと思う。また、対角線論法による説明でも昨今は理解しやすくなったと思う。そもそも不完全性定理のおおよそ意味するところを理解しているからこそ、グレッグ・イーガンのSF小説が面白いと感じるのでは。
 
ソーカル事件に過剰反応し過ぎだと私は思う。もっと自由に科学から概念を借用して使っていいと思う。確かに詭弁に利用されたり、誤用するリスクはあるのだけど、そのリスクを避けるために、思考の自由をそぎ落としてしまうのは、やはり、もったいないと思う。真偽・真贋はある程度自己責任で判断。

また、科学は仮説を立てて試行錯誤するのだから、そこには失敗が数多く含まれている。見方を変えれば、ニセ科学は失敗を成功と勘違いしているとも言えるかもしれない。とにかく、科学を真理だけだと崇拝するのはちょっと違うと思う。

科学者の頭の中では、1つの正しい仮説の前に99の間違った仮説があったかもしれない。「科学は絶対に正しい」的な感覚はその1つの正しい仮説の部分しか見ていないかもしれない。それは氷山の一角で、その下には99の間違った仮説があったかもしれないのだ。科学者の方が平気で間違ったことを言う。

ゲーデルが神の存在を云々することは特に不思議ではない。それは存在論だからだ。物理学などはもろに存在論だろう。哲学は存在論を構築できなかった。神学は神概念で存在論を構築したが、人々の中で「神が死んだ」感覚では意味を為さなかった。

世界の4大論理学者にゲーデルの他にアリストテレス、フレーゲ、タルスキがいる。タルスキはポーランドの数学者だ。ゲーデルはオーストリア出身でウィーン学団と関わりがある。一方、タルスキはポーランド数学に属する。拙コラムを参照のことhttp://www.neoaca.com/column

万が一、勘違いするかもしれないから言っておくと、「ゲーデル」と「ゲーデル的脱構築」は分けて考えないといけない。で、「ゲーデル的脱構築」は、まあ、雰囲気的な言葉であって、そこに深い意味を求めても仕方ない。そこに意味が無いと知って怒るのも分からないでもないが、やや不粋ではある。

「数学を形式的に矛盾のない体系にする」というヒルベルトの試みがあったのだが、ゲーデルの不完全性定理によって数学の無矛盾の体系化は不可能であることが分かった。不完全性定理に従えば、数学は不完全なのだ。これは「数学には矛盾がない」という世界観に対してコペルニクス的転回を迫られた。

つまり、「数学は矛盾がない完全な体系」ではなく、「数学は、それ自身では無矛盾を示せない不完全な体系である」という大きな数学観の転換を迫られた。

次に、脱構築だが、脱構築とは何かというとテキストの読み替えだ。あるテキストは、通常、Aという内容に読める。しかし、脱構築(あるいは誤読)するとBという内容に読めてしまう(あるいは読んでしまう)。そのとき、場合によっては、Aだと思っていたのが、反対の反Aに読めてしまうものもある。

それが先程の「数学は無矛盾で完全だと思っていたのが、実はそうではなくて不完全だった」という不完全性定理に脱構築が似ているように感じてしまう原因だと思う。脱構築はAをAとは違うBと読み替える作業だけど、たまにAと反対の反Aと読める場合もあるということ。←とても荒っぽく言えば、だが。

良い例が思い浮かばないけど、脱構築じゃなくて誤読で言えば「情けは人のためならず」という言葉がある。本来は「情けは人のためになるから、人に情けをかけなさい」という意味だった。ところが、誤読して「情けをかけると人は怠けるので、人に情けをかけるのは良くない」という反対の意味に捉えられた

「ゲーデル的脱構築」とは、まあ、今、言ったようなそんなニュアンスが含まれている。ただし、別の捉え方も可能なんだけど、それは割愛する。いずれにしても、「ゲーデル的脱構築」というのは、あまり深い意味のない言葉で掘り下げても仕方がない言葉だと思う。

当時はまだ分かり易いテキストもなく、ゲーデルは難解だったから、柄谷が曖昧な意味で、かつ不正確な表現で「ゲーデル的」と使ってしまったとしても、あまり責める気にはなれない。たぶん、当時もそれを承知で話半分で聞いていた人もけっこういたと思う。真面目に悩んだ人もいたかもしれないが(笑)。

ちなみに、「脱構築」はDeconstructionである。一方、似た単語にDestructionがある。これは「破壊」である。というわけで、手前味噌ですが(笑)、こちら、破壊哲学もよろしく!→http://www.neoaca.com/

追記

東浩紀がGW頃からツイッターで話題になっている「ゲーデル的」について言及していた。まあ、おおむね、氏の言っていることが分かる。私が5月4日に言及したことと同じような感じだと思う。今回、話題の流れを傍観していて思ったのは、意味の継承がなされず、途中で断絶しているということだ。

いくつかの原因がある。意味が断絶してしまったこととソーカル事件の影響がある。しかし、ソーカル事件はもったいないことをしていると思う。思考の自由を自ら奪ってしまっていると思うからだ。ちょっと危うい理解で使っても良いと思うし、その方が却ってニセ科学などに対する警戒心を高めると思う。

意味の断絶が問題。たぶん、東浩紀自身、まだ、一読者だった頃から感じていたことではないかと思う。断絶は90年代半ば頃にはすでに始まっていたと思う。←ちょっと時期を特定するのは自信がないが。それがネットによってはっきりとさらけ出されたと思う。全然、伝わっていなかった、・・・と。

ゼロアカのときに「文学の全体性の回復」みたいな話になっていたと思うが、それとも少し関係してくると思う。意味の断絶を修復して、再び、全体性を回復するというのがあると思う。実は『神話を考える』を読んでいても、意味が断絶しているのをちょっと感じていた。

まあ、私が歳をとって単に過去の事情を少し知っているだけなんだが(笑)。今の若者たちが過去の経緯を知らないのを単に無知と言ってしまうのも、ちょっと酷な気もする。それなりに長い歴史があって、それを若者に知ってて当然というのもちょっと可哀想かなという気がしないでもない。

だが、大きな断絶があって、まるで過去と現在が別世界になってしまっているのには戸惑ってしまう。しかも、あらぬ方向に話が進んでいく。まあ、それを「新しい」と言うのかもしれないが。でも、それを進歩とは思えない。歴史の勉強が必要ではないだろうか。でも、解釈の違いが出てくるんだろうなあ。

昨日、「スコラ坂本龍一の音楽学校」という番組をNHKでやっていた。「若い芽を摘む会」の会長を自認していた坂本龍一が教育に熱心だったのには、皮肉ではなしに感動した。これも意味の継承に努めていると言えると思う。それにしてもミュージシャンは音楽が楽しそうで羨ましい。

あ。「若い芽を摘む会会長」と言っても、要は「厳しい師匠」という意味で、それは後進の育成に熱心だということと同意なので、現在、教育熱心なのと矛盾はしない。スラムダンクの安西監督が「白髪鬼だったのが、優しくなった」みたいなものだと思う。それにしても、教授はカッコいいと思ってしまう。

こんなことを言うと怒られちゃうかもしれないけれど、今の若者は現代アートを云々する前に、現代アートを理解する素地ができていないんじゃないかと思う。近代人のような古いモダンな素地(足場)があって、現代アートを受け止められるのではないかと感じられる。若者はポストモダンなのでそれがない。

『神話が考える』のモダンとポストモダンの区分けに相当するのかもしれない。もう少し、意味の断絶も含めて、その辺りを突っ込んだレビューを書き加える必要があるかな。あ。『神話が考える』の現時点の感想はこちら。http://www.neoaca.com/review


ゲーデルの話題で意味の断絶の話をしたけれど、これはゲーデルの話題に限らず、多くの分野に及んでいると思う。上の世代から今の若者に継承されずに断絶したものは多い。ちょっと気になるのは、メディアに対する不信がある。今の若者はメディアに対する不信があるが、普通の人もいるが、極端な人も多い

ネットが普及したことによって、新聞やテレビなどの従来のマスメディアに対する不信が声高に言われた。これは批判だから、まあ、別に良いのだけれど、効果が効きすぎて、本当に従来のマスメディアをまったく信用しなくなっている人が出はじめている。それはちょっと違うと思う。

「これは絶対に真実しか言わないメディア」「あそこは全部ウソしか言わないメディア」と極端に分けるのではなく、自分自身で判断して疑わしいとグレーに判断した方がいいと思う。確かにメディアによって偏りがある。だから、その偏りを承知していれば、差し引いて考えればいいのではないかと思う。

例えば、Newsweekなんて保守寄りだったと思う。競合はTIMEだったんじゃないかな?斬新な内容も多いけど、眉唾の怪しげな記事も平気でもっともらしく載せていた。そういうのを承知して自分で判断すればいいと思う。そして、自分だけでは確実な判断はできないのだから、あくまで疑うだけだ。

できたら、2つの相反する記事にあたる方が全体を俯瞰しやすい。昔なら右と左の両方を見れば、大体、分かりやすかったと思う。まあ、読売新聞と朝日新聞の両方を見るようなものかもしれない。それぞれ傾向(偏り)がある。ところが、どちらかを絶対に正しいと思い込んでしまうと偏って不正確になるかも

だが、ときに決断を迫られるときには両方を選択できないので、1つの行動を選ばなけれならない。そのときにはそれまで積み重ねた経験を総合して判断すればいいと思う。ずいぶん、当たり前のことを書いていると思う。ところが、昨今、良識派や穏健派というのが言論から見られなくなったと感じる。

東西冷戦が終結してグローバリズムが進行したとき、日本は新しい将来像を立てるべきだったが、それができなかった。旧来の体制が強固だったのもあるし、新しい将来像を定めることができなかったのもある。いま、中国に追い抜かれて、はじめて自分たちが足踏みしていたことを実感しているのではないか?

上の世代は旧来の思考を引きずったまま新しいモデルを持てなかった。そのため、言論な中身は停滞した。一方、若者はそんな空疎な言論と実際の現実のズレを見て、言論が無意味で不要だと思ってしまった。言論と現実がリンクしていないとき、言論なんて不要だと思ってしまったのではないか。

そして、将来像を見失った言論はモデルがないため迷走して良識を失っていったのかもしれない。言論が連続性を持っていれば、なだらかな繋がりが保たれるだろうから、良識派や穏健派が残ったのかもしれないが、今やそれは見当たらない。念のためだが、保守は名前こそ保守だが別に良識と関係ない。

ちょと話が長くなりすぎた・・・。ともかく、これ以上の断絶を防ぎ、良識を取り戻すべきだと思う。もちろん、個人は自由で良いのだから、別に良識とやらに囚われる必要はないし、良識に縛るようなことがあってはならない。だが、社会の中にまったく良識派が存在しないのも、いささか問題だと思う。


ゲーデルの不完全性定理の一般的な理解は自己言及型パラドックスで良いと思う。例の「『クレタ人は嘘つきだ』とクレタ人は言った」というやつ。もし、このクレタ人が言ったことが本当なら、『』内は真実になるので、その結果、クレタ人は嘘つきだという結論になる。が、それだと言った人は嘘つきで矛盾

また、クレタ人が嘘つきだとすると、このクレタ人が言っていることも嘘になるので、『』内の話は嘘になるから、結果、クレタ人は正直者という結論になる。しかし、それだと最初のクレタ人は嘘つきだという前提と矛盾してしまう。こういうのを自己言及型パラドックスという。

自分自身で自分が矛盾していないことを証明できないというのが、なんとな~く分かるような気がしませんか?この自分である定理をpとすると、pが矛盾していないことを証明するにはpを含む、より大きな定理が必要になる、らしいです。「クレタ人は嘘つき」だの喩え話の場合は人間を持ってくるのかな?

でも、pより大きな定理をqとしても、そのqが自己矛盾していないのを証明するためには、qよりももっと大きな定理を持ってこなければならない。こうなると、延々とp<・・・と続いてゆく。すると、最後には「数学には数学自身が無矛盾であることを証明できない」ということになる。

だいたい、こんな感じが一般的な理解だったんじゃないかと思う。ウィキを見ると自己言及型パラドックスを使って不完全性定理を説明することをちょっと否定的に書いてある。ただ、これは日本で最初に不完全性定理がポピュラーになったときも言われたことだと思う。でも、一般的にはこの理解で良いと思う

でも、ちょっと自信はない(笑)。間違っているかもしれない(笑)。私はおおざっぱだし、あまり頭が良い方ではない。むしろ、悪い方に入る。実はネオアカのブックレビューを加筆したんだけど、そのとき、本文をちょっと読み直したら、稚拙な文章で恥ずかしくなった。

普天間問題その1

普天間問題は難しい問題だ。沖縄県民の気持ちは分かる。また、日本のどの県も喜んで米軍基地を受け入れる所はないだろう。沖縄はアジアの火薬庫と言われるほど大規模な戦力になっている、と聞いたことがある。米国の国防戦略からすれば、アジアの一大軍事拠点である沖縄は手放せないだろう。

しかし、日本としては独立国としては米軍基地を許容出来ないのも分かる。同盟といっても日本は第2次大戦の敗戦国という被支配国という立場に過ぎない。だが、日本の立場からすれば、米軍基地に引き上げてもらうのが、やはり、筋だろう。だが、地政学的要件を考えると微妙ではある。

米国と中国という2大超大国の中間地点に日本はいる。中国の立場からすれば、中国は太平洋を挟んで米国と対峙したい、というのが本音だろう。ところが、巨大な米軍基地を置く日本は中国の喉元に突きつけられた刃になる。中国の戦略としては、日本を中国の属国にして米国への防波堤にしたい所だろう。

米国としては、逆に日本は中国への防波堤になりうる。日本はアジアへ睨みを効かせるための米国の不沈空母になる。故に米国は簡単に日本の米軍基地を手放すとは考えにくい。米国が極度に財政難に陥って中国に援助してもらう見返りに日本を譲るということはあるかもしれないが、その可能性はゼロに近い。

もし、「日本は米国と中国のどちらにつくか?」という二者択一を迫られたとき、日本は米国につくのが良いと思う。米国も問題は多いが、中国よりはまだ自由がある。中国のやり方は全体主義的で自己中心的な中華思想が強い。言わば、中華帝国だ。チベットやウイグルでは少数民族が呑み込まれている。

ちなみに軍事費では米国が圧倒的1位で中国が2位だ。日本は6位くらいに位置する。単純比較だが、軍事費で日本は中国に劣っている。中国が経済的に急成長する前なら日本から米軍基地撤退も良かったが、現時点では軍事バランス的によく検討しなければならない。慎重に考えねばならない。

では、米軍基地を日本に置くとして、どこが適切か?確かに沖縄が地理的に適地なのだろう。が、歴史的背景を考えると先の戦争で沖縄が受けた戦災は看過できない。その沖縄にずっと負担を負わせ続けることはあまりに不公平だ。だが、仮に他県に移しても、今度はそこが半永久的な米軍基地になってしまう。

民主党は米軍基地の移設を謳った。しかし、自民党は米軍基地の移設はまったく唱えなかった。「米国の支配下にいることを甘んじろ」というのでは、たとえ、現実的だとしても感心しない。そういう意味では、たとえ失敗しても民主党の挑戦に分があると思う。だが、では、具体的にどうするかが問題だ。

北マリアナ諸島のテニアン島で米軍が許諾するなら、それも良いだろう。だが、やはり、アジアからは遠くなってしまう。今後、米国が見据えるであろう中国からはかなり離れてしまう。いや、アジア全体から遠くなる。テニアンではアジアの辺境になってしまう可能性がる。

沖縄以外に米軍基地を置く場所は難しい。過疎化している日本海側のどこかに置いてはどうかと思わないではないのだが、たぶん、難しいだろう。米軍基地問題は本当に難しい。

実現可能かどうかは分からないが、日本の領海のどこか戦略的に適切な場所に人工の巨大な島を作れないものかと思う。石油掘削基地を何十倍、何百倍にしたような巨大な人工の島を作れないものだろうか?そこを特区にして政府直轄地にして米軍と自衛隊の基地にできないものだろうか。

たとえ、すぐに建設できないにしても、百年、二百年の計画を立てて、三百年後には米軍基地を人工島に移設できるような長期計画を立てられないものだろうか?そうすれば、米軍基地を他県に移すこともなく、沖縄県民も今すぐというわけには行かなくとも、いつかは米軍基地が無くなるという希望を持てる。

人工島案は突拍子もない奇抜な案ではあるけれど、石油掘削基地ができるなら、まったっく不可能ではないのではないかと思えるのだが、しかし、あくまで素人考えのため、専門家からは鼻で笑われる考えかもしれない。だが、沖縄県民に我慢を強いるしかないというのはそれはそれで無能無力の感が大きい。

以上、普天間問題でいろいろと考えてはみたものの、これといって名案は私には考えられなかった。普天間問題は本当に難しい。なお、ここで示した案の背景にあるのは、ネオアカで提示した拙論『日本の未来戦略』が元になっています。http://www.neoaca.com/critique

2010年5月2日日曜日

東浩紀『一般意志2.0(5月号)』(『本』連載)を読む

講談社の情報誌『本』に連載の東浩紀「一般意志2.0」の5月号分を読んだ。面白かった。同時に危うい話ではある。しかし、グーグルの可能性(恩恵とリスク)を考えると、このような試論も決して悪いものではないと思った。ただし、やはり、このような思想は危険には違いないので注意して読みたい。

危ういと感じる根源は、おそらく、東浩紀の人間観にあるのだと思う。極論すれば、「オタクがオタクのままでいられる社会システムを作る」というのが「人間が未成熟なままでいい」と受け取られるからだと思う。そして、「そういった未成熟な人間=動物を管理・支配する」というのが環境管理に思える。
 
私としては「可能な限り成長を促す」方向でありたいと思う。一方、東は「実際には成長できない動物がいるのだから、そういった動物でも快適に暮らせる社会を作る方が現実的ではないか」という理屈かもしれない。それには一理あるが、それを全面に出すと動物化を助長する恐れがあると思う。

だから、まずは可能な限り成長を促すように努力すべきだと思う。話は変わるが、ネットの出現で人間や社会は大きく変わろうとしている。私たちは歴史の転換点に立っている。動物化もその変化の1つだと思う。

「一般意志2.0」の中で東浩紀がネット(orグーグル)によって一般意志が実現可能になったと言っていた。一方、私も拙論「日本の未来戦略」の中でグーグルによってアナーキズムが実現可能になったと言った。(http://www.neoaca.com/critique)

面白いことにグーグルによって、今まで実現が不可能だと考えられていた近代思想の幾つかが再び甦る可能性が出てきている。グーグルを普通の企業と区別すべきではないかと考える証左の1つではないかと思う。同時にマイクロソフトに次いでアップルまでも囲い込み戦略になりつつある。初志は何処へ。

余談だが、ちなみに、東浩紀の「一般意志2.0」と対をなすように、私は「特殊意志2.0」を提唱している(笑)。詳しくは、以下のネオアカのホームページを見てほしい。http://www.neoaca.com/about

もう少し言うと、一般意志2.0が数学的存在なら、特殊意志2.0は量子的存在だ。『攻殻機動隊S.A.C.2nd』に「個別の11人」というのが出てくるが、あれに近いものかもしれない。特殊意志2.0は個別の自由意志の集合だからだ。http://www.neoaca.com/about

ミドルセックス大学哲学科の件

話は違うがミドルセックス大学哲学科の件。経済的余裕があるのであれば、残した方が良いと思う。だが、財政難でどうしても避けられないのだとしたら、どこか学部を取り壊すしかないのだろう。そのとき、どの学部を潰すのか・・・

ミドルセックス大学にどういった学部があるのか知らないが、哲学科よりは神学部を潰した方が良いように、医学部よりは哲学科を潰す方が良いと、普通は考えてしまう。やはり、社会にとって貢献できる学部を残すべきだとは思う。また、需要がある所が残るだろう。哲学科に学生が集まっているのだろうか?

だから、どこを潰して、どこを残すかをよく話し合わねばならないと思う。そのとき、相対評価が重要になってくると思う。なぜなら、どこかを潰さなければ成り立たないという台所事情があるだろうからだ。だから、あまり事情を知らない部外者が興味本位で意見するのはちょっと気がひける。

また、本当に潰さない努力をしたかどうかもある。全職員の給料を下げるという方法もあるだろう。ただ、哲学科を嫌いだから狙い撃ちしたというわけではあるまい。文学部なんて名前を変えるか潰されるかは、とっくの昔に終わっているかと思っていた。

ともかく、このように大学から人文系の知がどんどん追い出されるのは目に見えているし、また、学生も人文系を学ぼうとは思わないだろう。嫌いだからではなくて、社会に出たときに専門的に役立たないからだ。それは仕方ないだろう。だから、ある程度、大学から退去させられても仕方ないと思う。

だからといって、知が断絶してしまってもいいというわけではない。確かに大学から追われれば、学問のクオリティは下がるだろう。でも、市井でも何とか、知が生き残る道はあると思うし、探さねばならないと思う。

椹木野衣の書評『神話社会学』を読んで

それから、椹木野衣による『神話が考える』の書評を読んだ。あ、村上裕一の書評も読んだ。やはり、書評し辛いと思う。1つは難解なんだが、単に難解なだけじゃなくて分かりづらいんじゃないかと思う。

ある意味、ニューアカの功罪の1つかもしれない。一般論として、昨今のこの手の論文はどうも引用過多じゃないだろうか?とはいえ、それはニューアカに罪があるのではなくて、昨今のが無茶な引用が多いと思える。いや、まあ、私の不勉強な所為かもしれないのだが・・・。

それと『神話が考える』に絞って言えば、連載時の『神話社会学』で扱っていた問題系がすっぽり抜け落ちているためではないかと思う。いや、記述しているが、私が理解できない所為かもしれない(爆)←言い訳すると実はつい先日買ってきて、読み始めたばかりなのだ。

1つ前のツイートで言っている問題系とは、『神話が考える』の第1章「ポストモダンの公私」のことを言っていて、それは最後の「おわりに」でその解決案が示されていると思うんだけど、ちょっとこれが私には分かりづらい。連載されていた『神話社会学』の方が分かりやすかったと勝手に思っている。

一応、断っておくと、これは著者が悪いのではなくて、私の勉強不足に由来している。この辺りのことをよく知らないのだが、ただし、「じゃあ、知っている人はあれで分かったのだろうか?」という疑問も実は少しある。もう少し、内容に踏み込んだ書評を誰か書いてくれないかと思う。

そういえば、浅田彰がAAAの紹介で「神話社会学的な構造分析」と書いていた。ちゃんと「神話社会学」と書いていたので、連載時から読んでいたのかもしれない。だったら、浅田彰に書いてもらいたいものだと思う。そうすれば、本を読むより、分かり易いかもしれない(爆)だが、その逆もありうる(恐)

ところで、構造社会学は便利な言葉だと思う。後藤和智氏など数値化を求める人たちに対して有効だし、実際、改めて自分たちがやっている分析が構造分析だということに気づかされたと思う。←大げさに言えば。それに「この分析は神話社会学です」というのは憚られるが、「構造社会学です」なら言い易い。

2010年5月1日土曜日

坂上秋成『文芸時評5月号』(週刊読書人)を読む

週刊読書人連載の坂上秋成の文芸時評(5月)を読んだ。以下、その感想を書こうと思います。


1.私小説からブログへ
まず、坂上が言うにはネットの普及で<私>の社会的機能が低下したそうで、私小説という技法が通用しなくなってきたらしい。ネットの不特定多数の刹那的なコミュニケーションによって<私>がかき消され、匿名的集団的な声に圧倒されるという趣旨らしい。坂上のいうネットって、ツイッターや2ちゃんのことではないだろうか?私は別の意味で確かにネットの普及によって私小説は難しくなったとは思う。それは何かと言うとブログだ。例えば、性的マイノリティたちのブログは大きな社会的反響を呼び、彼らの社会的な認知度を高めたと思う。ブログには彼らの内面が吐露されている。ブログは日本では日記として扱われることが多い。日記はれっきとした私小説のひとつと言えると思う。ブログにああも細かく個人の内面を吐露してしまっては、わざわざ文芸誌の私小説を買うのももったいなく感じてしまう人もいると思う。日本での初期のブログの普及はそれこそ、そういった私小説的な読み、ちょっとエキセントリックな個人のプライベートを読む楽しみではなかったか?そういう意味で私小説としてはブログに大きく侵食されたと思う。ところで、日記文学の伝統というのがある。古くは土佐日記や更級日記、近代でも永井荷風の『断腸亭日乗』や石川啄木の『ローマ字日記』がある。中には自宅と愛人宅で別々に日記を書いていた文人もいる(笑)。しかし、考えてみれば、日記は誰にも見せられない内面の吐露だったのに、今ではブログとして世界中に公開しているのだから、世の中も変わったものだ。<私>というものの概念が変わりはじめたのかもしれないが、でも、たぶん、今のところ、そうではないと思う。

2.私の埋没と精神構造の変化?
坂上秋成の文芸時評に戻ろう。文章の構成はよく整理されて読みやすくなったと感じた。ただ、取り上げている作品が、まあ、順当なのかもしれないが、意外性がなく、若いのにどこか先達に媚びているように感じられなくもなかった。いや、まあ、単に作品が良かったのかもしれないから、これは分からない。ただ、最後の結びに関しては疑問に感じる。「<私>の内面そのものが時代遅れの概念として処理されるのみ」とあるが、ちょっと「?」である。いや、その前の文章から疑問なのだが。どうも、よく分からないが、大勢の声に自分の声が埋もれることによって、私が埋没してしまうことを言っているのかもしれない。話は変わるが、ツイッターの使い方は日本人も外国人(米国人)も同じなのだろうか?例えば、フォローしている人物の人数などは日本人も外人も同じだろうか?実は日本人はフォローしている人数が異様に多いのではないかと感じることがある。実際に統計を取ったわけではないから実際の所は分からないが。以前、富野由悠季が「今どきの若者は友人の数が多過ぎる」といって「そんなのは友人とは言わない!」と怒っていたことがあった。同じ志を持つ親友は本当は得難いものだ。再び話は変わるが、以前、TVのインタビューで「茶髪にすることによって自分が軽くなる」といっていた一般人がいた。「ああ、なるほど」と当時は思った。今、もし、大勢の声に埋没する自分を感じていて、そこに自分が消えていくように感じているのだとしたら、それはその茶髪の軽さと似ていると思う。いや、似ているのではないかと思う。もちろん、それとは違う面もあるかもしれない。だが、おおむね、似たような方向にあるのではないだろうか。そうそう思い出した。昔見た大人と若者の対話番組で特徴的だったのが、大人は「俺はこう思う」と力説しているのに対して、若者は「普通はこう思う」と言っていた。何が言いたいかというと、案外、大人の方が自己主張があって、若者の方が波風を立てない当たり障りのない普通を目指していたことだった。世代論的には団塊の世代は大勢の中で目立つためには自己主張が強くなったという論もあるだろうけど、それでも若者にどこか窮屈さを感じたのもあった。話がとんでもなくズレてしまった。ともかく、ネットの大勢の声も金太郎飴の如く、割と誰も同じに感じられることがある。←あ、若者の場合ね。言ってみれば、無個性に感じられる。いや、別に「無理して個性的にしろ」というつもりはない。ただ、それでも規格のように、皆、同じに感じてしまう。ある意味、教育の成果なのかもしれない。よく分からないのだが、「今どきの若者は孤独だなあ」と感じるときがある。だが、その一方で「今どきの若者は孤独に対する耐性が無いなあ」と感じるときもある。心の構造自体は今も昔も変わっていないだろう。でも、何か変わったんだろうなと感じるときがある。携帯やネットが普及し始めたときに、それは感じていた。何かがそっちの方へ流れ込み始めたと。不思議な言い方になるが、ネットに繋がることによって人は孤独ではなくなったんだが、彼らの心の内はずっと孤独になったと感じる。ATフィールドの範囲とか周波数とか色調とかが変わったんじゃないかと(笑)いや、まあ、男っていうのは戦って強くなるから、本当は戦わなくちゃいけないんだが、今の若者はどうもそれをスルーできてしまう仕組みがあって、結局、個として強くならないんじゃないだろうか?ただし、女性は違って、女性は日常生活で強くなる。そのため男よりも大人だったりする。だんだん、話が逸れてしまった・・・。ともかく、「時代遅れの<私>がネットの出現で、最新の<私>にアップデートされて良くなった」とは思えない。むしろ、その逆だ。だから、変わったのだとしても、あまり好ましくない方向に変わったと思う。そういう意味で坂上の結びの言葉には疑問を差し挟むこととする。

3.文学脳とSF的感性
ついでに、坂上のITツールに関する感性はやはり文学脳ではないかと感じる。いや、実生活ではITツールも今どきの若者よろしく器用に使いこなしているんじゃないかと思うのだが、いざ、文章にすると、文学部的な言葉の雰囲気に引っ張られて、文学脳的なITツールの捉え方になってしまうのだと思う。でも、それではSF文学をポジティブに評するには、SF的、理系的感性に欠けていると言わざるをえないだろう。それでは、まともにSFを論じることができないのではないか?支障をきたすのではないか?ITツールの延長にドラえもんや鉄腕アトムを考えてみればいい。ドラえもんや鉄腕アトムに「君たちは非人間だ。機械に過ぎない」と面と向かっていえるだろうか(笑)←いや、ちょっと悪ふざけが過ぎるか。ともかく、「道具はお友達」や「道具は手足の延長」くらいに考えた方がいい。神話にだって、そのとき、登場した新しい道具をけっこう大切に描いている。もっと、ポジティブになれないだろうか。もちろん、全肯定しろというわけではない。だが、どうも・・・。コホン。この辺でやめておこう。ちょっとまとめたかったが、ダラダラと書き流しすぎた。あ、それと坂上のいうネットは日本の中だけのネットに過ぎない。日本のネット文化は他国と比べてちょっと特殊だということを頭の片隅に置いておいた方がいいと思う。まあ、アジア圏は日本に似ているのかもしれないが。

とまあ、そんなわけで坂上秋成の書いた文芸時評でこんなにたくさんツイートしてしまった。きっと坂上君の時評が私をインスパイアしてくれたのだろう。そういう意味では有意義な時評であったと思う。感謝である。

2010年4月29日木曜日

東浩紀『論壇時評4月号』(朝日新聞)を読む

朝日新聞に東浩紀さんの論壇時評が掲載されていたので、それについて、思いついたまま、少し感想を書いてみます。

1.用語について
まず、驚いたのは「ポインタ」という用語。これはプログラミング用語で「指し示すもの」を意味する。プログラマーならすぐに感覚的に体感的に理解できるのかもしれないけれど、一般読者にはどこまで伝わるか微妙だと思う。でも、新鮮かつ斬新で良かったし、たぶん、的確な表現だと思います。
 
2.そらのさんについて
それから驚いたのは、そらのさんを紹介していたこと。そらのさんをどう位置づけるかはちょっと難しいところがあると思います。そらのさんって、ジャーナリストではないと思う。現場をのぞきにいくけど、当事者意識もないし、批判精神もない。まるで、夕飯の買い物の途中で事件現場をたまたま通りかかったやじ馬に似ている。あるいは、そらのさんはアーティストという位置づけが正しいのだろうか?でも、それって現場で一生懸命議論している人たちを遠巻きから見て「まあ、なんて口角泡を飛ばしてムダに一生懸命なのかしら。オホホホ」的な非当事者意識に感じられる。それがアートというなら、まあ、ギリギリ許せるんだけど、しかし、アートというにはエッジがはっきりしていないと思う。グレーな立ち位置にいる。首を突っ込めるし、すぐに首を引っ込めて逃げるって感じで、あまり、感心しない。と、私はそらのさんをそんな風に感じている。誤解かもしれないけれど。そんなわけで、私は彼女にローザ・ルクセンブルクや『銀英伝』のジェシカ・エドワーズを読むことをお奨めする。彼女たちの生き方がいかに命がけの真剣勝負だったかを知ってもらいたい。ジャーナリストになるにしろ、アーティストになるにしろ、その真摯な真剣さは絶対に必要だと思うから。

3.ツイッターと政治
さて、論壇時評に戻ろう。もう1つ、驚いたことはツイッターを高く評価していること。政治家とツイッターについてちょっと考えてみたい。政治家でネットを上手に利用した人で思い浮かぶのが、小泉純一郎元首相。彼が始めたメルマガは確かに政治家と一般市民を近づけたと思う。それまでは、間にマスメディアが入るために距離感があった。タウンミーティングもそう。政治家と一般市民を近づけたことによって、一般市民の政治への参加意識が高まった。議論が白熱することで、満足感があった。ただ、メルマガはとても長かった。読むのがけっこう大変だった。内容が総花的になってしまうんじゃないかと思う。詳しくて、総花的だとちょっと読むのが辛い。鳩山首相のツイッターはそういう意味では読みやすい。宇宙人だけど(笑)、人間自体は悪い人間ではない、と感じられる。そういう意味で親近感は感じられる。しかし、一方で、ツイッターは国民の人気取りのためのものというのは歴然とある。そんな人気取りのために貴重な時間を割いて欲しくないという思いもある。だから、まあ、いまの分量でいいのかもしれない。一日一言。ところで、麻生前首相と比べると、麻生前首相はなんで、あんなに偉そうなんだろうと感じてしまう。やっぱり、御曹司であり、経営者だからかもしれない。でも、首相は国民の社長ではないのだから、あまり、威張ってもらっても困る。時代の流れかもしれない。サザエさんに出てくる学校教師が昔の教師さながらコワモテなのに対して、ちびまる子ちゃんに出てくる学校教師がやさしいのと同様に、国民にうける政治家の物腰が変わってきたのかもしれない。

4.記者クラブについて
あ、論壇時評に話を戻ろう。記者クラブの問題も指摘していた。あれは日本の新聞と海外の新聞の違いじゃないだろうか?日本の新聞は全国紙で発行部数も世界一を誇る。一方、海外の新聞はどこも地方紙でその地域だけで読まれるものがほとんどだ。NYタイムズもLAタイムズもそう。だから、新聞も全国紙がやたらと幅をきかす。地方なんて、中央より格下に扱われる。そういう階級があるからかもしれない。記者クラブは。

5.論壇の衰退
それにしても論壇自体が、いま、無くなりつつあるんじゃないかと思う。あいつぐ論壇誌の休刊。論壇時評で論じるべき論壇が圧倒的に少なくなったかもしれない。だからかもしれないが、昔の論壇時評と比べてみると、東浩紀の論壇時評は詰め込み感がない。過去の論壇との連続性がない。でも、その方が若者には受け入れられると思う。今回のは、論壇時評というよりは、社会時評あるいはネット社会時評といった方が正確かもしれないけど、ネットの出現で論壇が変わりつつあることを新聞紙上で言及するのは良いことかもしれない。

6.新聞の衰退
そうそう、新聞社だって、ネットについてはどう取り組んだらいいか迷っているはず。日経は電子版を出して、新たな試みにチャレンジしているわけだし。海外の新聞社だって経営危機に陥って縮小したり、はてはNPOにしようという動きもある。新聞購読者はどんどん減っている傾向にある。

7・余談
東浩紀さんの写真はアロハシャツでなくて良かった。カジュアルだけどジャケットでちょっといい感じだった。CGは一瞬ビルかと思った。でも、なるほど、力強さを感じる。いい紙面だった。昔のようなガッツリした論壇時評には、「編集部が選ぶ注目の論考」がガッツリ感のある時評になっていたと思う。ニューズウィークの「中国ルール」の記事は気になっていた記事。拙論「日本の未来戦略」を参照していただければと思う。http://www.neoaca.com/critique

2010年4月24日土曜日

市場の中のネオアカの位置

市場の中でのネオアカの位置について考えてみたいと思います。そこで下図を作成してみました。しかし、この図ですが、実は自分でもちょっと満足していません。単純に分けられないからです。ですので、あくまでこれは1つの極端な目安であって、実際とはちょっと違うと思っています。ですが、まあ、市場をイメージするためにはこういう図は必要だと思います。
さて、ネオアカですが、図では分かりやすくするために大きく書きましたが、実際にはもっと小さいです。前回でも書きましたが、ネオアカはかなりの少数派です。別にニッチを狙ったわけではありません。自分たちの主義思想、ネオアカらしさを考えたら、結果的にニッチになってしまったというのが本当のところだと思います。

ネオアカは

ニューアカに近い位置にいる

と考えています。ネオアカはいわゆる未成熟を是とするオタクではなく、

成熟した大人

を志向しています。この点では

東浩紀系とは対照的

かもしれません。ネオアカは「動物でもよし」とする東浩紀系とは違って、「大人になろう」です。ただし、宇野常寛系ともちょっと違います。今の時代、大人は減少してオタクが増えてしまいましたので、当然、ネオアカは少数派になります。

ただ、まあ、自分たちの主義思想があるので、他に対しては批判的になるかもしれませんが、市場の中で

共存や住み分けは可能だ

と考えています。批判はしますが、存在の否定まではしません。例えば、オタクたちもいつかは大人に成熟する日が来るのではないかと粘り強く期待しています。あるいは、動物化した人間を管理するために、工学的な環境管理を用いたり、擬似宗教によってコントロールしたりといったことを是とはしません。いつかは人間として成長して、しっかりした理性を持つことができると思っています。

最後に但し書きを書いておきます。図ではジャンルによる指標になっていますが、ネオアカは基本的に

ジャンルに対するこだわりはありません!!!

良いと思うものは何でも取り入れます!!!

追記:ずいぶん、オタクを批判的に書いてしまいました。「売れる」ことを考えれば、本当は言ってはいけないことなのかもしれません。でも、ネオアカはあえて言います。そして、そういうことを言えるのがネオアカの強みのひとつです。