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2010年6月5日土曜日

現代思想の今後について

1.構造主義から分析哲学まで
現代思想の今後について少し考えてみようと思います。現代思想といっても、既に現代ではなく、過去のものです。フランスで展開した構造主義も、また、その後に展開を期待されたポスト構造主義も今はもう過去のものになってしまった感があります。これら一連の構造主義を大陸哲学とすると、英米系の分析哲学がその後を引き継いだと考えるのかもしれません。ですが、確かにそれら分析哲学は停滞した現代思想の中で目立った活躍ではありますが、かつての構造主義に比べれば、それほど大きな展開になっていないと私には感じられます。大きな展開になっていないからといって、それらを軽視してよいわけでもありませんし、実際、考える材料を提供してくれているとは思います。ですが、極端なことを言えば、全体を俯瞰する構造主義と比べれば、分析哲学は個別の行動原理を模索するもので、構造主義とは違った思考形態であり、構造主義が哲学であるのに対して、分析哲学は実践(行動やプラグマティズム)ではないかと思います。(これはレヴィ=ストロースの構造主義とサルトルの実存主義の対立と、ある意味、似ているのではないかと思えます。)
 
2.近代哲学の敗北
ここで、もっと遡って哲学についても振り返ってみます。極端に言えば、中世の西洋では哲学でなく神学だったと思います。それが近代になって「神が死んだ」(ニーチェ)ことによって神が出てこない近代哲学になりますが、「神は死んだ。だが、困った」(サルトル)と言われたように神抜きの哲学をうまくは構築できませんでした。なぜなら、乱暴に言えば、ハイデガーの『存在と時間』が存在論を批判したものの、それに代わる存在論をハイデガーは構築できませんでしたから。まあ、サルトルがユニークな実存主義を掲げたのですが、哲学的にはレヴィ=ストロースの構造主義にあっけなく退けられてしまいました。(ただし、だからといって実存主義に価値や意味がないというわけではありません。)結局、デリダが「哲学はすでに死んでいる」と言ったように哲学は存在(つまり、あらゆるもの全て)の哲学的な構築に失敗しています。(これは無矛盾の形式化に失敗した数学に似ています。)そういうわけで、実は私たちは自分でもうまく説明できないよく分からない世界に存在しているのです。この謎については宇宙や生命の物理的な解明を待つしかないと思いますが、それでもすべてを完全に解明するのはちょっと難しいのではないでしょうか。(SF作家のイーガンはそのことを強く意識していると思います。)

3.現代思想の可能性
さて、そういうわけで存在の哲学的な探求は困難だと考えられます。大きな枠組としては哲学は既に終わっている感があります。もちろん、様々な存在の可能性を考えるのは楽しく、それらは今後も続けられると思いますが、しかし、それはあくまで可能性にとどまるでしょう。あるいは、哲学の敗北を覆す天才が現れる可能性もあるかもしれませんが、さて、どうでしょう。ともかく、繰り返しますが、哲学は大枠としては終わっています。では、現代思想という小さな枠組みの中ではその可能性はどうでしょうか?現代思想を哲学的な分析のツールと見立てたとき、その展開の可能性はすべて出尽くしているでしょうか?私の個人的な見方ですが、構造を俯瞰透視する構造主義と記号の生成消滅のダイナミズムを捉えようとする記号論(特に記号の生成過程を分析しようと努めたクリステヴァの記号論)が大きな分析ツールとしてはあったと思います。人によってはクリステヴァはソーカル事件で否定されてしまった感がありますが、まあ、安易に数学を導入したクリステヴァにも問題はあったかもしれませんが、彼女の業績をすべて否定してしまうのは間違っていると思います。乱暴に言えば、構造主義をマクロな視点とすれば、彼女の記号論はミクロな視点の導入であり、2つは相補的な関係にあったと思います。(彼女は後に根拠を求めてラカンの精神分析に向かっていきます。)というわけで、現代思想は構造主義と記号論という2つの大きな分析ツールがあると見立てることができると思います。

4.可能性への個人的な見解
それでは現代思想の分析ツールとしては、この2つがすべてでしょうか?いえ、実は私はもう1つ可能性があるのではないかと思っています。それは何かと言うと、連載コラム『ヴィトカツィの時代』で示唆した形態学です。私の考える形態学は、構造主義と記号論でいえば、どちらかというとスケール的にはミクロの世界を扱う記号論に近いものです。ただし、クリステヴァが精神分析学へ向かったのとは反対の方向に向かうものだと考えています。言い換えると、形態学はフロイトに向かうのではなくユングに向かうものだと考えています。形態学がどのようなものかは連載コラムの中で詳述しようと思います。ただ少しだけ触れると、形態学はパターンを生む可能性があります。ここでいうパターンとはコンピュータのプログラミングでいうところのデザインパターンを意味しています。デザインパターンとは乱暴に言えば動的組織のプログラミングによる構造化です。昨今ではアーキテクチャと言えるかもしれません。ともかく、まあ、そういった様々あるパターンのカタログを作成する方向に向かうかもしれません。ただ、それはすでにデザインパターンとして具現化されているし、哲学的には構造分析と大した違いはないと言えるかもしれません。形態学では、そういったパターンを抽出するのではなく、精神の抽象レベルへのサイコダイビングみたいな探求になるのではないかと思っています。

5.哲学の個別化
さて、私の個人的な見解の正否はともかく、言語化可能な哲学の展開としては一般的に理解できるレベルでは出尽くしていると思います。一般的に理解できるレベルを超えるとなると、それは個別的な理解に進まざるを得ないと思います。つまり、それは師から弟子への言葉を超えた以心伝心で伝わるレベルということです。哲学の一般的な理解は、まあ期待されたものかどうかは別として、ある程度達成されたのですが、それを一歩踏み越えて深く理解しようとなると、それはもう言葉を超えたレベルでの伝承的な理解になると思います。まあ、ずいぶん、乱暴な話ではあるのですが、実は歴史的にはそういうのは過去にもありました。中世哲学の頃、イスラーム世界では学者とされる師から弟子へとその哲学が継承されたというのがあります。現代哲学も、ただし中世哲学とは違って神を除いた哲学的展開になるとは思いますが、同じような師資相承の形態を取るのではないかと思います。

6.個別の思想展開とネットワーク形成による環境整備
さて、以上を整理すると、哲学や現代思想のアカデミックな展開は終わっており、現代思想から新たに大きな潮流が出てくることはないと思います。今後はそれぞれの哲学者が自分たちの哲学を個別に個人的に展開してゆくしかないと思います。付け加えると、大学は狭い意味で社会に役立つ有用な技術を養成する機関になるので、哲学の居場所は大学では限りなく少なくなるでしょう。哲学は大学に代わって哲学を求める人たちのために市井(市場)に活躍の場を移すと思います。市場での哲学の展開は様々な方法が模索されると思います。東浩紀のやり方もその1つでしょう。(哲学とはちょっと毛色が違うが小谷野敦も同様だと思います。)ネオアカはネオアカで独自の展開をしようと思いますが、ネオアカで一括りにする必要はなくて、個人が各自で自分の好きなように自分に合ったやり方で展開すればいいと思います。以上で述べたように、全体としては個人個人が知の拠点となっていけばよく、互いが反目しあうのではなく、互いにネットワークを形成することによって、知を探求したいと考えている人たちに知を探求しやすい環境を提供することだと思います。個人が個別の思想展開をするとどうしても自己の正当性を主張するあまり、閉鎖的になったり独善的になったりするかもしれませんが、知を探求したい人たちに学びやすい環境を提供するためには、知の拠点が内側に閉鎖的に閉じこもってしまうのではなく、各自の知の拠点を開放的にして、知を学ぶ人たちが知を求めて様々な知の拠点を移動できるようにネットワーク化した方が良いと思います。(もちろん、ネットワーク化して知の拠点同士が互いに友好関係を結ぶと同時に、その逆に矛盾するようですが、知の活性化を図るために互いに批判的であるべきだとは思います。)