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2012年9月20日木曜日

OSとしての哲学

ツイッターでも書いたのだけど「ブログを更新しなきゃいけないなあ」ということで、「さて、では何を書こうか?」ということで、とりあえず、ツイッターで書いたことを少しまとめて書くことにします。
 
で、ツイッターで

哲学って、喩えると、基本ソフト(=OS)みたいなものだと思う。精神を脳というハードウェア上で動くソフトウェアと仮定するとOSは哲学(=意味世界)であり、応用ソフト(=アプリケーション)は政治とか経済とかそれぞれの専門分野みたいなイメージ。ま、必ずしも全てが当てはまる訳じゃないが。
というようなことを書きました。これをちょっと補足しておきます。

上記を図でイメージすると下図のようになります。
このイメージについて解説すると、まず、脳と精神をハードウェアとソフトウェアとして分けます。例えば、まったく同じ遺伝子でまったく同じ脳を持った人間が二人いたとします。その二人が生まれてから異なる環境で異なる育て方をした場合、二人の精神は異なった精神・人格になると思います。人生経験という経験情報が異なる人格にするわけです。というわけで、脳と精神をハードウェアとソフトウェアで分けることにします。

次にソフトウェアである精神を言語面だけに絞って考えます。子供から大人に成長して人格を形成する過程で人は独自の意味体系を作り上げます。言葉にはそれぞれ意味があるわけですから、言葉を使うようになれば、人々はそれぞれ意味を心得ているわけです。本来、同じ言語を使っていれば、その人の言語に限ればほぼ同じような意味体系が構築されるのですが、人はそれぞれ異なった人生経験を経るのでその人の精神の意味体系は他者とは異なった意味体系に育ってゆきます。哲学は意味体系を整理整頓して整然とした意味体系に構築するものだということができます。(ま、この話はあくまでイメージの話なので厳密な話ではありませんので、ツッコミは無しに願います(笑)。)

この意味体系は人がこの世界で日常的に生きるときの基本的な意味付けですのでコンピュータに喩えれば基本ソフト(=OS)に相当すると思います。このOSに対して、人がさらに専門的な知識を身につけたとするとそれはOSに乗っかった上で動く応用ソフト(=アプリケーション)に似ていると思います。ただし、必ずしも基本ソフトと応用ソフトが階層関係にあるとは限りません。応用ソフトが直にハードウェアに乗っかるような体系化された応用ソフトもあるでしょうし、逆に直に専門分野に基本ソフトの意味が表れるものもあると思います。

それに、実際は多くのひとが階層などない混然一体となった意味体系で動いていると思います。しかし、それでは意味体系が秩序立ったものとは感じられず、カオスの中を生きているような不安な感覚に捕らわれてしまうかもしれません。そこで意味体系を秩序立ったものに整理整頓するために哲学が必要に感じられるのだと思います。

また、多くのひとは生きてゆくために仕事をしなければなりませんが、仕事の知識体系は人それぞれの専門分野ということができると思います。ここでの専門分野は社会にとって価値あるものです。一方、哲学は専門分野ではありませんので、お金儲けという意味では価値はありません。しかし、専門分野を含めた意味体系を整理整頓して秩序だったものにするのに、そのベースにある哲学を学ぶことはとても意味のあることだと思います。

さて、ここからはオマケの話です。SF的な想像力での話です。人格がソフトウェアならば、そのソフトウェアを現在のハードウェアから別のハードウェアに移し替えることは可能ではないでしょうか?それは脳から脳へとは限りません。脳からコンピュータへの移し替えも可能ではないでしょうか?脳から脳への移し替えは親から子へとか師から弟子へと口頭や以心伝心で伝えられるものかもしれません。しかし、ご存知のようにそういった継承は百パーセントのコピーではなく、違った継承になってしまいます。しかし、コンピュータ上に人格をAI的に復元可能になれば、人格を整理整頓しておけば、案外、人から人へ継承するよりは人からコンピュータに継承する方が人格の完全な複製になるかもしれません。さらに元の脳よりもコピー先のコンピュータの方が優れたハードウェアであった場合、同じ人格でもより良いパフォーマンスを示すかもしれません。